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第二十三話 知佳の将来の夢

真貴が龍口家に来てから五年。

中学三年生になった真貴は、伸びやかに育っていた。

 真貴が龍口家に来てから五年。真貴は、結衣とともに中学三年生になっていた。


 六月終わりの梅雨のさなか、剣道教室の屋根には雨が打ち付け、屋内にはその音が響いている。


 真貴は知佳と対峙していた。大学二年生の知佳は身長一七〇センチと長身だが面金めんがね越しに見る知佳はさらに大きかった。中段にゆったり構えているがいったん動き出すと容赦のない連打が来ることはよくわかっていた。真貴は知佳の呼吸を測り、打ち込むタイミングをうかがっていた。知佳がやや大きく息を吐きつつ、わずかに左足に重心を移そうとしている瞬間が見えた。真貴は気合とともに右小手に打ち込んだが、知佳の竹刀に払われ体当たりされた。鍔迫り合いを押し返そうとした瞬間、知佳はすっと上段に構えながら引いた。真貴が構えきれないうちに面が来た。竹刀で弾き返そうとしたが勢いに負けてしまった。

「面、一本、そこまで」


 審判をしていた義弘の声が響いた。

「ありがとうございました」

 二人は礼をして下がった。

「今日はここまでにしておこう。私はもう疲れたよ」

 義弘が手で顔をあおぎながら二人に声をかけた。知佳が面を外し、手ぬぐいで汗をぬぐいながら笑顔で真貴に言った。

「真貴、強くなったねえ」 

 真貴も汗をぬぐいながら笑顔で知佳に答えた。

「まだまだです。お姉さまに今日も圧倒されました」 

「なに言ってんの。この私から二本も奪っておいて」

「いえ、おじい様は一本と判定してくださいましたが、二本のどちらも浅かったと思います」


 三人が帰宅すると仁が来ており、座敷で結衣に書道の指導をしていた。真貴は座敷の廊下に正座してしばらく待った。結衣が作品を書き上げたところで、両手を付き頭を垂れて仁に挨拶した。

「叔母様、こんにちは。ご無沙汰しております」

 仁の訪問は正月以来だった。仁が真貴に気づき、笑顔で声をかけた。

「真貴、元気そうね。また、背が伸びたんじゃない?おや、今日は知佳も来てるの?ということは剣道の練習?」

 知佳も廊下の真貴の隣に正座して、仁に挨拶した。

「叔母様、こんにちは。はい、真貴の練習に付き合ってました」

「知佳が教えるのなら安心ね。どう?真貴は上達してるの?」

「とても。今日はおじいちゃんの審判で試合稽古をやってきたんですが、二本とられてしまいました」

 書道道具を片付けていた結衣がびっくりして声を上げた。

「えっ!?真貴ちゃん、姉ちゃんから二本も!姉ちゃん、去年の学生選手権で三位だよね?」

「そうなのよ。真貴が強くなるのは嬉しいけど、ちょっと悔しいのよね」


 居間から美和子の声がした。

「知佳も真貴も汗かいてるでしょ。シャワー浴びて着替えてらっしゃい」

「はーい、行きます。真貴、行くよ」

 知佳が真貴を伴って行くのと入れ替わるように、部屋着に着替えた義弘が座敷に現れた。

「姉さん、今日は結衣の指導、ありがとうございます」

「どういたしまして。あの習字嫌いだった結衣が書道で賞を目指すようになるなんてね。真貴の影響はすごいよ」

 道具を持って座敷から自分の部屋に戻ろうとしていた結衣が言った。

「今度の県の七夕書道展では、少なくとも入賞が目標だよ」

「楽しみにしてるよ」

 義弘は笑顔で答えた。


 結衣が出ていったのを見届けてから、仁が義弘に話しかけた。

「真貴は明るくなったねえ。以前は笑顔にあった陰りがずいぶん薄くなった」

「そうなんだ。危うさのようなものが減ったと思う。できれば、このまま人生を楽しんでほしいと思ってるよ。まったく」

「そうだよねぇ……。今日は先日電話で相談した“言い伝え”の件を直に会って相談するつもりで来たんだけど、考えておいてくれたかい?」

「考えておいたよ。あとでゆっくり話そう」


 仁と知佳が加わった龍口家の夕食は、いつもより一層にぎやかだった。信濃大学医学部看護科二年生になった知佳に仁は聞きたいことがいろいろあった。

「もう大学二年生?早いものだねえ…知佳は看護師を目指してるの?病人に注射したり、いろいろお世話したりする?私、医療関係はよくわかってないんだけど」

「そう、看護師を目指しているんだけど、叔母様が思い描くような『白衣の天使』とは、ちょっと違うかもしれません」


 義弘も知佳に尋ねた。

「正直言うと、私もわかってないんだよね、知佳が目指しているものが。いい機会だから教えてくれないか?」

「私も知りたいです」

 珍しく真貴も質問をしてきた。知佳が説明をはじめた。


「私が今目指しているのは救急看護師。看護師の資格を取ったうえで経験を積んで認められる認定看護師の一種です」

 仁が重ねて尋ねた。

「具体的にどんなことをするの?」

「救命救急の現場の医療活動です。事故や急病、災害とかの。将来は『国境なき医師団、MSF』に参加したいと思ってます」

「お姉ちゃん、なんでMSFに参加したいと思うようになったの?」

 結衣が尋ねた。


「高校の時にねMSFの看護師さんの講演で知ったの。紛争や災害でいちばん苦しむのは、いちばん弱い人たちだって。講演の中でね、アフガニスタンで母親が病気の子を診てもらおうと何十キロを歩いて診療所まで来た話を聞いた時には涙が止まりませんでした。私は、そんな人を一人でも助けたいと思うようになりました」

 次は義弘が尋ねた。

「それはかなり危険な仕事になるんじゃないか?」

「危険は承知しています…でも、それでもやりたいって強く思ってます。おじいちゃんもお父さんも災害の時や事件が起きたときには、現場に行ってましたよね?」


 義弘と義人は顔を見合わせた。たしかに町長時代、義弘はトラブルが起こると町民の安全確保のため現場に出向いていた。義人も二年前、大雨で川が氾濫した際には、雨の中で緊急対応の指揮を執っていた。

「知佳のことだからおとなしくしているとは思わなかったけどねえ」


 仁が言うと圭が答えた。

「ええ、看護学科に進むと言い出した時は意外と穏やかな選択をしたと思ってましたが……心配ですが、見守ることにしました」

 美和子が少し義弘と義人を見て、仁に言った。

「まあ、義人も義弘さんもそうですし、礼司叔父様もそうですから」

 結衣が楽しそうに付け加えた。

「こういうのを『血は争えない』っていうの?」


 真貴は知佳の決意の鮮やかさに驚嘆した。知佳の境遇であれば、何もしないでも身の安全も食べるものの確保も約束されている。それでも知佳は、自らの意思で、いちばん弱い人たちのために危険を承知で身を挺して行動しようとしている。


 その日の夜、真貴は就寝時間になっても考えていた。

 知佳は「災害や紛争が起こると、いちばんひどい目に遭うのはいちばん弱い人たち」と言っていた。天仁の夏の浅間山の噴火は大災害だった。その後の食べ物の奪い合いは紛争だった。火山灰の大地を逃げ惑う自分たちは難民だった。


 真貴は日本の歴史を学ぶ中学校の教科書を思い出した。自分たちが生きるだけで精いっぱいだった時代が、今では“平安”時代と呼ばれていることに違和感があった。授業では京都の帝を中心とするきらびやかな貴族文化や征夷大将軍による東征の話は習ったが、同時代に上野や信濃にいた真貴がまったく知らない歴史だった。


 その一方で、多くの村落を吞み込んだ北八ヶ岳の巨大な山崩れも、関東を戦乱に陥れた平将門の反乱も、浅間山の大噴火も、教科書では取り上げられていない。望月家の家族や信濃の村の人たちは歴史では取り上げる価値がない人たちだったのだと改めて気づいた。


 知佳の愛読書は「龍の子太郎」と聞いている。物語では太郎と龍になった母親とが自らの命を懸けて疲弊した村を救う。真貴には知佳が今この時代の「いちばん弱い人たち」を救おうとする龍神の遣いのように思えてきた。 真貴は礼司のことも思い出した。礼司は一五年以上にわたり、アフリカで農業技術支援を続けている。アフリカの弱い人たちのために人生の多くを捧げている。礼司の献身は日本ではほとんど知られていない。しかし礼司によって救われた弱い人々は少なからずいるだろう。

 あの、子どもを龍神の贄に捧げるまで追い詰められた村人たちに、知佳や礼司のような外の世界からの助けがあったなら……真貴はふと思った。


 皆が就寝した後、龍口家の居間では義弘と仁が話し合いをしていた。

「義弘、真貴についての言い伝えの残りの部分を知っているには、まだ私たちと礼司だけかい?」

「そうだよ。まだ義人にも、ほかの家族にも、もちろん真貴にも伝えていない」

「電話で話した通り、私たちもいい年になった。幸い三人とも多少ガタは来てるけどまだ元気だ。しかし急に何かあっても不思議はない。真貴についての言い伝えの残りの部分を、どう伝えるか具体的に決める時期だと思うんだけど……」

「姉さんの言う通りだと思う。もう五年経ってしまった。美和子と義人、圭には湯多神社の例祭が終わったら話そうと思ってる。しかし、真貴には……どうしてもためらってしまうんだよ」

「気持ちはわかる。最近の真貴の朗らかな顔を見ると、これから先もずっと幸せであってほしいと思ってしまうよね。でも……」

「わかってる……しかし、宿命を押し付けるようなことは避けたいんだ。正直なところ、私は真貴には今の世界で幸せになってもらいたいと望んでいる」

「そうね……」


 雨音は静かになった。しかし梅雨は始まったばかりだった。


もう、五年が過ぎた。

義弘と仁は近づきつつある「時」を強く感じていた。

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