第十三話 家庭裁判所
ついに七月十日がきた。マキは義人とともに長野家庭裁判所に入った
厳格そうな宮地判事の聞き取りが始まる
七月十日がやってきた。朝からマキは義人とともに車で雨が降る中を長野家庭裁判所に出向いた。マキにとっては病院以来、龍口家以外の人と話すのは初めてだった。マキは一人で話さなくてはならないと聞いて恐ろしかった。できれば仁にそばにいて欲しかったが、法の定めで一人で話さなくてはならないということであり、龍口家の人々に迷惑をかけたくなかったので、心を強くして臨む決意をした。
裁判所は五階建ての四角い建物で、ちょっと病院と似ていた。義人とマキは通された窓のない待合室で待っていた。ちょうどの時間になって待合室に五十代後半くらいの痩せ気味の背の高い男性が現れた。
「お待たせしました。長野家庭裁判所の宮地です」
宮地の襟には「裁」の字がデザインされたバッジがあった。
「よろしくお願いします。判事さんですか?私は調査官の方が来られると思っていました」
「ええ、通常の案件は調査官に任せます。しかし今回は就籍というかなり珍しいケースでしかも九歳の女の子というレアケースです。私が自ら話をお聞きすることにしました」
宮地はかがんでマキの目の高さに視線を合わせ、マキに語り掛けた。
「宮地です。これからお話をしてください」
マキの表情は緊張でこわばっていたが小さな声で「はい」と答えた。
宮地はマキを伴って聞き取りを行う部屋に入っていった。
義人はひとり待合室で待ち続けた。一時間が過ぎてもなにもわからなかった。義人はマキが一人であの厳格そうな判事と対峙していると思うといたたまれなかった。
二時間近くなってようやく宮地がマキを伴って戻ってきた。思いがけないことにマキは緊張が解け、明るい表情だった。
「お待たせしました。お話をしっかりお聞きしました」
宮地は初めの時と同じように、かがんでマキに語り掛けた。
「マキちゃん、ありがとう。おじさんは龍口のおじさんとお話があるから、少しここで待っていてくれるかな?」
マキはうなずきしっかりと「わかりました」と答えた。
「龍口さん、すみませんがこちらにお願いします」
宮地は義人を同じフロアの少し離れた部屋に案内した。
「ここは私の執務室です」
部屋には窓がありその窓を背に執務机が置かれていた。机の前にはソファとテーブルの応接セットがあった。宮地は自らソファにかけながら義人にソファをすすめた。
「こちらにおかけください。龍口義人さん。お仕事は佐間町役場の総務課長さんですね」
「はいそうです。今日はありがとうございました」
「いえいえ、これが私の仕事ですから。お話をうかがってもいいでしょうか?」
「私の話?調査ということでしょうか?」
「まあ、調査と言えば調査ですが、これは私の個人的感覚を確認するためのものということで、記録に残すことはありません」
「おっしゃっていることの意味がよくわからないのですが……」
「そうでしょうね。今日のマキちゃんの聞き取り調査は、私がこれまで経験したいかなる調査とも違う体験でした」
義人は宮地が何を言いたいのか、何を知りたいのか測りかねていた。
「龍口さん、私は裁判所で二千人以上の聞き取りを行ってきました。相手の表情、しぐさ、声色などから本当のことを話しているかどうか見極める自信はあります」
宮地の目つきが鋭くなり、ややあって口を開いた。
「率直に申し上げます。私はマキちゃんの『自分は千年近い過去、龍神の生贄になった、ところが、気が付けば湯多神社の裏手に出て今の世に来た』という話はどこにも嘘がない話だと判断しました。……私自身、この判断に驚いています」
宮地は真顔だった。義人は戸惑いながら応じた。
「マキを信じていただけて大変うれしいのですが、裁判所はそれでいいのでしょうか?」
宮地は小さくうなずいた。
「裁判所の立場の問題はひとまず置きます。まず大事なのは判事たる私が何が真実かを確信できることです。龍口さん、龍口家には彼女の出現を予告する言い伝えがあったそうですが、紙に書かれた古文書のようなものはありませんか?」
「それはありません。龍口家では何代も前から“千年の時を超えて、龍神に選ばれた少女が現れる。その子は一族の宝である。大切に迎えよ”と伝えられてきましたが、この言い伝えは成人した直系の血族だけに伝えられるもので、決して漏らしてはいけないとされてきました」
「……そうですか」
宮地はしばらく義人の目を見つめていた。
「では……マキちゃんが今の世に現れたのは、湯多神社裏手にある洞穴と聞きました。その洞穴の写真はありますか?」
「それならあります。マキが現れた翌日の朝、撮りました」
義人は胸のポケットからスマートフォンを取り出し、マキが見つかった翌日早朝に潜龍窟を撮影した写真を示した。
「失礼します」
宮地は義人からスマートフォンを受け取り、潜龍窟の写真を細かく見ていた。続いて前の写真、神社裏手の茂みの前に張られたしめ縄が地面に落ちている写真を見た。
「これは何の写真ですか?」
「洞穴の手前に張っていた禁足地であることを示すしめ縄です。地面に落ちてました」
「ここに裸足の足跡がありますね」
「ああ、気がつきませんでした」
宮地はさらに前後の写真を確認し、スマートフォンを義人に返した。
「撮影の日付と時刻も確認させていただきました。作為的な操作はないですね」
「そんなことはしませんよ」
「すみません、何かマキちゃんの話の裏付けがほしかったのです。つまり私の個人的感覚を確認したかったのです」
宮地は立ち上がって窓の外を眺めた。
雨はやみ、雲の切れ間から、遠く戸隠の峰がかすかに姿を見せていた。妙高の方にも、うっすらと青空がのぞきはじめていた。
宮地はそのまま話を続けた。
「龍口さん、家庭裁判所の組織としての目的ってご存じですか?」
「家庭内の紛争解決や非行少年事件を扱う司法組織と了解しています」
「ええ、それは業務です。家裁の目指すところは白黒をつけるのではなく関わる方々を幸せにする法的解決を導くことです」
「……」
宮地が振り返ってつづけた。
「マキちゃんは生け贄という過酷な運命を背負ってここまで来ました。幸せになる権利がある。しかし幼い彼女が今の日本で幸せに堂々と生きていくためには保護者と戸籍とが必要です。マキちゃんには千年待っていた保護者います。あとは必要なものは戸籍です。それを用意するのが我々の役割でしょう」
「ということは……」
「就籍手続きを進めます」
義人は嬉しかった。胸の奥で何かがほどけるのを感じた。しかし問題があるのは確かだった。
「裁判所の記録として『平安時代から来たため戸籍がない』とするのですか?」
宮地の顔にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「いえいえ。『申請者の湯多神社で発見される以前の記憶は混乱しており確認ができない』とします。警察の調書とも矛盾しません」
義人は宮地の思いがけない狡猾ともいえる配慮に驚いた。
「マキの幸せを最優先していただき、ありがとうございます」
宮地は執務デスクの上の書類を手に取った。
「マキちゃんの申請名は“まことにとうとい”で真貴ですか。龍神に選ばれた娘にふさわしい名前だと思います」
義人は宮地とともに待合室に戻った。ドアを開けるとマキが立ち上がり心配顔のまま急ぎ足で義人の前に来た。義人は跪きマキの両肩に手をおいた。
「マキちゃん、待たせたね。もう終わったよ。すべてうまくいったよ」
マキはうなずき、義人の肩越しに宮地を見た。宮地は微笑んでいた。
「マキちゃん、今日はいい話をしてくれてありがとう」
義人とマキは宮地に礼を述べて裁判所を出た。地面はまだ濡れていたが雨はやみ、青空が広がりつつあった。少し日も差してきた。二人は車に乗り込み龍口家への帰途についた。
「マキちゃん、今日はよく頑張ったね。怖かったよね」
「はい、はじめはとても怖かったです。でも宮地のおじさんは優しくて、私の話をずっと丁寧に聞いてくれました」
「そうか……もう昼をかなりすぎちゃったな。せっかくだからおいしい蕎麦を食べて帰ろう。マキちゃんは病院とウチ以外で食べるのは初めてになるかな?」
「はい、食べてみたいです」
二人を乗せた車は梅雨明けの信濃路を走って行った。
宮地判事は就籍手続きを進めると約束した
マキと義人とともに雨上がりの道を帰途についた




