第十一話 お習字
マキが龍口家に来て二週間ほどが過ぎ、季節は梅雨になった
結衣はちょっと憂鬱だった 七月の初めに七夕にあやかった習字の発表会が行われるからだ
結衣が帰宅すると、マキが習字の練習をしていた
六月の最後の週になって遅ればせながら梅雨入りとなった。天気がうっとうしいこともあったが、結衣はちょっと不満がたまっていた。マキとは少しずつ話ができるようになってきたので、もっともっと話したかった。ところがマキは驚くほど勉強熱心で、結衣が学校から帰ってくる時間帯にはいつも美和子の指導を受けていた。結衣も同じ部屋で宿題をしたり本を読んだりしていたが、マキととりとめのないおしゃべりを楽しむ機会は満足できるほどはなかった。
さらに結衣を憂鬱にする行事が近付いていた。結衣の通う小学校では七月の初めに七夕にあやかった習字の発表会が行われる。結衣は勉強もスポーツも得意だが習字は苦手だった。一年生の頃に仁に少し教わったが、少々の練習では目に見えた成果が現れないうえに、仁の厳しい指導で、気の短い結衣は早々にリタイアしたトラウマがあった。
その日、小雨の中、結衣が帰宅し母屋の座敷に行くと仁が来ていた。机の上には習字道具が広げてあった。美和子が結衣に気づいて声をかけてきた。
「結衣、おかえり。おやつにする?」
「うん……」
マキはきれいに正座し、筆を紙に垂直に持っていた。滑らかに筆を運びながら、文字を書いていく。その様子を、仁は満足げに見守っていた。傍らに広げられた新聞紙の上には、いくつもの作品が整然と並べられていた。さらに一枚の作品をマキが書き上げた。
「これ、マキちゃんが書いたの?」
結衣が作品群を見ながら尋ねるとマキは恥ずかしそうにうなずき、小さく「はい」と答えた。
「すごいね。マキちゃん、誰に教わったの?」
「初めに手ほどきをしてくれたのは上野の祖母です。信濃に来てからは和尚様に教わりました」
美和子が立ち上がりながら言った。
「今日は仁さんも一緒なので、ちょっと特別なおやつ、葛切りを食べましょう」
マキが手際よく習字道具をたたみ、机の上にスペースを作った。結衣は美和子に協力して葛切りとお茶を配膳した。美和子が結衣に声をかけた。
「そろそろ七夕だから結衣も書かなくちゃいけないんじゃないの?」
美和子は小学校行事をよくわかっていた。結衣は目下の課題を指摘されて答えに窮した。
「マキちゃん、字が上手でいいなあ……わたし、七月七日が習字の発表会なの。三日までに作品を書いて提出しないといけないんだけど……」
葛切りを食べながら結衣がこぼした。美和子がお茶をすすりながら答えた。
「あらあら、そんなに余裕がないじゃない」
結衣はマキを見ながら、ちょっと言ってみた。
「マキちゃん、代わりに書いてくれない?」
マキが困った顔で仁と美和子を交互に見た。仁がマキの代わりに答えた。
「マキちゃん、本気にしなくていいの。あれは、結衣の『戯れ(たわむれ)』だから。結衣、マキちゃんを困らせちゃダメでしょ。そもそも書は人なの。代わりに書いてもらっても確実にばれるよ」
そこで美和子が笑って口をはさんだ。
「もちろん冗談よね。でも発表会も間近だし、ちょうどいいから今日は結衣も習字の練習をしましょう。義人も圭さんも遅くなると連絡があって、結衣の今日の夕食はうちで食べることになっているので、これから夕食まで結衣もマキちゃんと一緒にたっぷり習字ができるから、きっといい作品になるわよ」
仁がさらに言葉をかけてきた。
「結衣、今日は私が久しぶりに教えてあげるからね」
「はーっ」
結衣はあきらめるしかなかった。
結局、二十枚を超す練習の結果、結衣は昨年よりずっと満足できる作品を書くことができた。マキがにこにこと付き合ってくれ、合間におしゃべりもできた。そのおかげで、久しぶりに本気で取り組んだ習字は結衣が思っていたよりずっと楽しく、また習字をやってみようかなという気持ちがしてきた。
マキに刺激を受けて結衣も習字を頑張れた
マキの現代への適応は始まったばかりだ




