序 章 生贄の洞
平安時代末期、信濃の山中、八ヶ岳の東の裾野には湖がありました。
物語は、この湖を白装束の少女と僧侶、三人の村人が小舟で渡るところから始まります。
夏の近い午後の遅く、信濃の山間の湖を一艘の小舟が渡っていた。雨は昼に止んだが、空は鈍く曇り、風は肌を冷やした。小舟には白装束の少女と、三人の村人、さらに墨染めの衣を纏った僧が乗っており、村人の一人が櫓を漕いでいた。
少女は胸元に笛を握りしめ、その表情は硬くうつむいたままであった。村人たちはいずれも痩せており、衣服は継ぎはぎで擦り切れていた。僧の頬もこけ、墨染めの衣は褪せ、綻びが目立っていた。
対岸に着くと、村人たちは小舟から粗末な輿を降ろした。少女は立ち上り、一度、後にした村を振り返ったが、僧に促されて輿に正座した。二人の村人が輿の前後を持ち、細い道を登りはじめた。一行は湿った草を踏み何度か休みながら半刻をかけて山腹の小さな祠にたどり着くと、輿を降ろした。
村人らは祠の背後に廻り、一抱えほどの石をどかし始めた。その間、僧は低い声で経を唱え、少女は輿に正座したままうつむき眼を閉じていた。しばらくすると祠の背後には人がかがめば入れるほどの洞穴が現れた。村人らの作業が終わり、呼吸が整ったところで、僧が少女に手を差し出した。少女は立ち上り、僧に手を取られながら洞穴へと入り、平たくなっているところに座った。
「マキよ、かたじけなうての。まこと、心より詫び申す。いかに詫びても足らぬことと……胸いたく候ふ / マキよ、本当に申し訳ない。心からお詫びする。どれほど詫びても足りぬことと……胸が痛んでならぬ」
僧が少女に絞り出すように言葉をかけた。
「和尚様、永きほどをば、まことにありがたく存じ候ふ。いと頼もしう候へども、なにとぞ、小太郎のこと、よろしくお導きくださり候へ / 和尚様、長いあいだ本当にありがとうございました。信頼申し上げておりますが、どうか小太郎のことをよろしくお導きくださいませ」
少女は涙を滲ませこたえた。
「申すに及ばぬことにて候ふ。里の衆も、すでに承知いたしておるなり。されば、小太郎殿をば、決して等閑に扱ふこと、これあるまじきことにて候ふ / 言うまでもないことだ。村の者たちもすでに承知している。だから小太郎殿を決して疎かに扱うことは決してない」
「ありがたく候ふ。これにて御暇仕り候ふ。なにとぞ、洞をお閉めくださりませ / ありがとうございます。これでお別れいたします。どうか、洞をお閉めくださいませ」
僧が場所を空けると、村人らは洞穴の口を再び石で塞ぎはじめた。僧は経を唱え続けた。洞穴の中から、少女が唱える念仏が聞こえていたが、石が積みあがるに連れてその声はしだいに小さくなった。夕暮れが迫っていた。石積みが終わると僧は懐から護摩札を取り出し石積みの中ほどの石の間に差し入れた。僧と村人らは祠に向き合い合掌し念仏を五回唱えた。その後彼らは一言も言葉を交わさず山を下り、松明をともしながら小舟に乗って対岸へと戻った。
儀式を終えて二日間は何事も起きなかったが、二日目の深夜から雷を伴いつつ激しく雨が降った。三日目の深夜には、やや大きな揺れの地震も起きた。村人たちの幾人かが地震の後、寺に集まった。彼らは龍神が贄を喰らったのだろうと考えた。住職は、ぽつぽつと訪れる村人を背に本尊に向かい早朝から夕暮れまで経を唱え続けた。
洞は閉じられました。
死すべき運命にあるマキにやがて……




