ep8 殿下の秘密②
「母上!」
背後から、カルロスが駆けつける。母親の怒号を聞き付けたのだろう。
「私が決めたこと。アーウェスは関係ない」
「あなたは何をしたのか、わかっているのですか!?これに後ろ立てなんかを与える真似を。もしや、良いように操られているのではないか。あの女が、陛下を騙したように!」
「まだそのような馬鹿げたことを言うつもりで?」
母親の行き過ぎた発言に、カルロスは怒りを滲ませた低い声を落とした。もはや、エルオーシュは立ち尽くすしかない。この場に、自分がいてもいいのだろうか、と感じながら。
盛大にため息をつくカルロスを、王太后は睨み据えた。
「馬鹿げたことではないわ。汚らわしい血が流れる下賤の分際で、我らと同じ王族の名を名乗ること自体許されない事だというのに!」
「母上!」
カルロスの怒号が響く。一瞬、辺りは静寂に包まれた。 口にしてはならない言葉だったのだ。 それは関係のないエルオーシュにも、感じとることができた。表立つことのない、王家の醜聞。繊細な事情。 そんな言葉が頭をよぎる。
聞いてはならないことを聞いてしまったのでは、とエルオーシュは肝を冷した。
「王太后陛下」
寂を破る声は、アーウェスの低い声音だった。その声は、この場に似合わないほどの、穏やかな声音だった。
「俺が王位を奪うことを、いまだ恐れているのですか。俺にそんな気はさらさらありませんが。この身は、兄上の影。そのためだけの存在。それでも俺が恐ろしいのなら、今ここで殺しておきますか?」
アーウェスは、ゆっくりと腰につってあった剣をイザイラの前に差し出した。
「さあ」
どうです、とアーウェスは脅すようにささやいた。そこには冗談などという響きは、いっさい含まれていなかった。
「そう望むなら、ここで死ねばいいわ!」
激昂したイザイラが、剣の柄をめがけて手を伸ばした。その瞳には、憎悪の感情が隠れもせずに宿り、アーウェスにそそがれている。
「お止めください!」
怒鳴り声が、空気を打った。王太后の隣に控えた彼ら兄弟の叔父、レオンの声だった。 アーウェスとイザイラの間に立ち、両方をにらむ。
「イザイラ様、言い過ぎですよ。確かにこの者に過ぎた婚姻ではありますが、すでに決まったこと。アルライドとの外交も考慮しなければ。私も納得していると言えば嘘になるが、ここはカルロスの判断を信じることにしよう」
「その通りです、叔父上。…母上、遠いところから疲れたことでしょう。すぐに部屋を整わせます。どうせしばらくは王都で過ごされるおつもりでしょう?近いうちに事情をお話ししましょう」
不機嫌な顔を隠さず、カルロスはそれぞれの顔を見渡す。
「アーウェス、お前はもう下がれ。私を怒らせたくないのなら」
「御意に」
アーウェスは優雅に腰を折り曲げ、残された者達を振り返ることもなく、エルオーシュの手をひいて彼らの脇を通り抜けた。
薄暗い、永遠とも思われる長い回廊を、早足で歩き続きける。
エルオーシュは恐怖を感じていた。アーウェスが、今ここで戸惑いもなく剣を自分に向けそうだと思ったからだ。その必要があるのなら、何気なく花を打折るように、簡単に自分を斬りつける。そのような危うい空気感をまとっている。
「アーウェス…」
初めて名前を呼んだことに気がつかず、その背中に声をかける。 それでも彼は振り向かない。
「アーウェス」
中庭まで来たとき、やっと彼は振り向いた。
エルオーシュの予想に反して、彼はあまりにもいつもの表情をしていた。何の感情もわからない、平然とした顔だ。
「つかれた」
何事もなかったように、男はひとつ息を吐くと、窮屈だったらしい胸元のタイを緩めた。
「私にはわけがわからない」
心配したのに、と声には出せずアーウェスを睨む。彼はそのことに初めて気がついたように、ああ、ととぼけた。
「王太后陛下も、叔父上も、先代から王家に仕える有力貴族たちは皆、俺を嫌っている。なんせ下賤な生まれらしいからな」
他人事のように言い放ち、アーウェスは庭園の側にあるベンチに腰かけると、上着を脱いでまでくつろぎ出した。先ほど緊張感のある応酬を交わしてきたとは思えないほどの、落ちつきぶりだ。
「どうして。…まさか、先王陛下の血を引いていないのか?」
頭に浮かんだ最悪の事態を、エルオーシュは口にした。
イザイラがアーウェスに向けた態度を考えると、それしか考えられなかったからだ。
「予想に反して悪いが、現王陛下と同じ父親だ。母親は違うが」
つまりは正妃の子供ではないということだ。エルオーシュも同じ身の上だが、ここまで目の敵にされたことはない。
「俺の容貌は珍しいだろう?」
「あ…」
オルネアの王子の言葉を思い出す。
『あの呪われたような黒髪、黒い瞳に寒気がするのでは?』
そうだ、とアーウェスはうなずいた。
「母親は別大陸の異国人だ。国をもたず、歌や踊りを愛し、様々な国を渡り歩いている民族。このベルリオールから言わせれば、最も野蛮な人種だと認識されている。その血が王家に入ったことを、快く思わない人間が山ほどいる」
「それだけで、殺されるほど憎まれているのか?」
信じられない、とエルオーシュは首をふった。
「ちがう。憎いんじゃない。恐れているんだ」
アーウェスは小さく笑い、肩をすくめた。
「城に上がったのは、兄上の身代わりだった。それまでは、よその女から生まれた俺を隠そうと、王都から離れた場所に押し込められていた」
「急に連れて来られたのか?」
「そうだ。お前も経験があるだろう?」
それまでは、穏やかに暮らしていたのに、突然まるで違う環境に放り込まれる。その経験を、この男もしていたのだ。
「俺の場合は、唯一の世継ぎ、兄上が何者かに毒をもられ、もう長くないと思われていた時、次の世継ぎとして連れて来られた。剣術を叩き込まれ、学問も何もかも、王になるための教育をいきなり強いられた。だが、本物の世継ぎが持ち直し、意外にも早く回復した。身代わりの王子はそれを機に、みごとに厄介者の地位に落ちた」
「でも父親…前王陛下は?同じ自分の息子なんだから何か考えたはずだろう?」
「さあ、すぐに死んだからわからない」
そんな…とエルオーシュは絶句した。では、唯一の後ろ盾を彼は早くに亡くしたのだ。エルオーシュでさえも、父親に救われたというのに。
「ただの厄介者ならよかったが、その王子には、どうも戦の才があったらしい。単純な国民は、病弱で表立って活躍しない国王より、戦上手の王弟を支持している。王城の人間はそれが恐ろしくて仕方がないらしい。俺がいつかこの国の王位を奪うのでは、と」
他人事のような口調を崩さずに、アーウェスは淡々と言葉をつむいだ。
エルオーシュはふと悲しくなった。自分のことすら冷静に、感情的にならずに客観視する男と、自分はいつか、心を通わせることができるのか、と。
「でも、王位を簒奪する気はないのだろう」
殺されようとしていたくらいだ。
「もちろん。兄上が一番王位に相応しいことくらい、わかっている」
「カルロス陛下に忠誠を誓っているのだな」
本人の口から聞いた事実は、エルオーシュを嬉しくさせた。エルオーシュが当初思っていたより、自分が嫁いだ夫はまっとうで誠実な男のような気がしてきた。兄のために国を守っている誠実な弟だというのに、周りからは誤解され、疎まれている。不敏な人物だとエルオーシュは切なくなった。
「忠誠?何故そう思う?」
「戦に行けないカルロス陛下の代わりに、命をかえりみず剣を持ち国を守っている。わかるに決まっている」
アーウェスは、不可解そうに首をかしげた。
「人を斬るのが好きなだけ、と言ったら?」
「え?」
「人を貶めるが好きだ。血を見るのも。戦いの中に身を置きたいだけで、いつか戦場で大勢の人間を殺戮した後、その血濡れた地で力尽きるのも悪くない。そのためだけに王都に留まっている。そう言ったら?」
「な、なんだと?」
エルオーシュは怒りに拳を握った。
「血を見るのが好き!?ひ、ひとでなし!まるで、悪魔のような…。いや、へ、変態!」
「…変態」
くっとアーウェスが顔を背けて笑ったようだ。
「悪魔か。戦では皆、俺のことをそう呼ぶ。敵も味方も。俺に人を殺す役目をくれるというなら、この面倒くさい立場もどうでもいい。民も、国も、兄上も、生きることも」
エルオーシュは絶望感に頭が真っ白になった。
このように、理解のできない人間がいるのか。そんな男にわたしは嫁いだというのか。
野望も祖国で生きてゆくことも諦めて。
「兄王に忠誠を誓っているのではないのか!?私は、尊敬の念すら抱いたと言うのに!己の役目を果たそうと、命を賭けて戦場に身を投じてきたあなたを…、それでもその功績を誇示せずに、カルロス陛下の影に徹しているあなたに、感激もしていたというのに」
さきほど、小さく音を立てた心臓に手を這わす。そうだ。あの感情は、確かに尊敬だった。己の夫になった人は、立派な人物かもしれないと、喜んだ。
「それなのに、人を斬るために生きていると!?国もなにもかもどうでもいいと、そう言うのか!殿下、あなたは絶対に後悔をすることになるだろう。望み通り戦いの中で死にゆくときに、つまらない人生を送ったものだと後悔するだろう!」
はあ、はあ、と肩を上下させながら、エルオーシュは感情的にびしっと男に人差し指を向けた。
「人生?まるで説教くさい年寄りみたいな意見だな。じゃあ、お前はどうだ。この人生に後悔はないのか?」
馬鹿にしたように薄く笑うアーウェスに、頭の後ろがさらに熱くなるのを感じた。
「私だって、あなたに嫁げと言われたときは死ぬほど嫌だった!」
「そうか、死ぬほど嫌だったか」
「だけど、嫁いでも絶望するのではなく、前向きに考えようと思ったんだ。何か得るものがあるかもしれないと。私は、少なくとも殿下のように諦めてなんかいない。殿下のように生きる事から逃げていない!どんな境遇になろうとも戦うと決めている!失礼を言うが、殿下はただの腰ぬけだ!腰ぬけ!」
空気が周りから足りなくなったのか、頭がふらふらした。肩で息をしながら、言いすぎた、と後悔する。
アーウェスは立ち上がり、なぜかこちらに歩み寄ってきた。まさか殺されるのだろうか。斬り捨てられても不思議ではないほど、失礼なことを言った自覚はある。
アーウェスの手がエルオーシュに伸びた。男の眼差しには、あきらかな殺気が宿っていた。脅しに負けてなるものか、と目の前の男を睨み付ける。そのとき、頬に痛みが走った。
「いたっ」
アーウェスに頬をつねられたのだ。
「小娘が知った口を聞く。腰抜けだって?」
言葉とは裏腹に、その声は楽しそうだった。
「こんな侮辱を、目の前で言われたのは初めてだ」
面白そうに口の端をつり上げた男の顔を見つめながら、エルオーシュは思わず閉口した。
「からかったな」
わざと、すぐにも斬り付けそうな殺気を振り撒いたのだろう。
アーウェスは答えない。不敵な笑みを口元にたたえているだけだ。
「だったら、人を斬るのが好きというのもか?殿下」
「アーウェスでいい。…どうだろうな」
興味を一気になくしたように、アーウェスはエルオーシュの頬から手を離した。
ベンチに置いた上着を無造作に掴んだアーウェスは、こちらを振り向く事なく歩き出す。帰る気なのだろうか。
なにげなく、上着を掴み取った手を見つめてしまう。
それは、エルオーシュよりも多く剣を手にしていたのだとわかる手だった。幼い頃から、自分よりも多く努力した人の…。
彼は、エルオーシュをからかってまで、何をはぐらかしたのか。どんな事を考えていたのか。
エルオーシュはまだ、男の指の感触の残る己の頬にそっと触れた。