ep32 国賊の花嫁
ガシャリ、とかけたれた錠の音をエルオーシュは絶望の中で聞いていた。
薄暗く湿ったこの場所はまさしく王城の塔の地下に存在する牢獄であった。
しかし、牢獄といってもその一角に特別に作られたこの一室は、扉が鉄格子ではなかったら使用人の私室のように不自由がないように清潔に整えられていた。
「あなたを拘束するのは、ニ度目だろうか」
そう言い放った人物の、今までに向けられたことのない冷たい瞳を、エルオーシュは呆然と見返した。
目の前にいるのは国王カルロスだ。
これは現実だろうか。
悪い夢を見ているのではないか、とエルオーシュは信じられない思いで手に触れた鉄格子の冷たさを感じていた。
国王が発令した命は知っている。
アーウェスが国中から疑われているのも知っている。
それでも、国の最高権力者である彼は、何が真実であるのか当然わかっているはずだ。
だから、エルオーシュは噂を聞きながらも不安を押し込め信じて待っていた。
すべてはただの噂だ、と彼がいつもの微笑みをたたえてエルオーシュのもとにやってくるのを。
しかし、訪ねてきたのは冷たい視線を送る彼と多数と兵達だった。
「あなたは今や国賊の正妃だ。ほとぼりが冷めるまでここで大人しくしてもらおう」
人が変わったように無表情に告げたカルロスを、エルオーシュは絶望とともに鉄格子ごしに睨み据えた。
エルオーシュは錠をかけられた今この時まで、カルロスを信じていたのだ。
「…わざわざ直々に、その国賊の正妃を牢に入れに来たということは、陛下はよっぽど私の罵り声を聞きたかったとうかがえる」
うなり声に似た低い響きで、早口にエルオーシュは言い放った。
噂でしか聞いたことのないだろうエルオーシュの顔に似合わないその態度に、カルロスは虚をつかれたような顔をした。
「…なるほど。王女殿は大変私に腹を立てているようだ」
「あたりまえです!なぜ!なぜあのような命を!?アーウェスは、あなたを裏切ることなど絶対ないのに!あなたは、あなただけはアーウェスの心をわかっていると思っていたのに!」
カルロスの、新たに整えられた軍への命令を、エルオーシュはどうしても信じられなかった。
カルロスが、そんなことを命令するはずがない。
この人がアーウェスを疑っているわけないと。
普段あまり一緒にいることはない兄王と王弟は、世間からしてみれば仲の良い兄弟としては見られていないだろう。
むしろ、長年より不仲なのでは、と囁かれていた。
ロッソすらもそう思い、エルオーシュも一時はそう疑った。
しかしカルロスが倒れたとき 、エルオーシュはその噂が真実ではないことを知った。
身代わりとして連れてこられただけのアーウェスにとって、兄は生きる意味なのだ。
カルロスの存在が、彼をこの王城に留まらせている理由なのだろう。
絶対的な忠誠と信頼を兄に捧げている。
ふたりの間には他人には見えなくとも、特別な絆がある。
そうエルオーシュには思えた。
それなのに…
「可能性の問題なのだ、王女殿。ベルリオールを揺るがす毒は、早めに取り除かねば。たとえそれが弟でも」
信じていたのは、アーウェスだけだった。
カルロスは、弟を信じてはいなかった。
そんなことあるだろうか。
あんまりだ…。アーウェス…。
エルオーシュはこの場で泣き出したくなるほど、遠くにいるアーウェスを想った。
どんなに、絶望するだろう。
アーウェスなら、たとえ誤解だろうと兄の手を煩わせたと自分で命を絶つだろうか。
そんなの、絶対いやだ。
一番信頼していた兄に殺されるなんて。
そんなこと、絶対にさせるものか…!
止められるのは、アーウェスの忠心を知っている者、今となってはエルオーシュしかいないのかもしれないのだから。
「アーウェスを、本当に討つというのですか?今まで彼がどれだけ陛下に忠誠を尽くしてきたか、あなたは知っているでしょうに!アーウェスは、貴方のために生きている。そして、ずっと影に達しようと勤めていた。アーウェスが政務を疎かにして、遊び惚けてきたのは、陛下のためなのでしょう?アーウェスは権力なんて欲しがらない。富も名声も、国も、欲しがりません。たぶん、その全てを貴方に捧げるつもりなのでしょう。そのたったひとりの弟を、陛下は叛逆者にするつもりなのですか!?」
怒りに顔を赤くして、息を乱すエルオーシュに、ふと驚いたようにカルロスは目を見張った。しかし、そののちには柔らかく微笑む。
だが、それは幻だったのだろうかと目をこすりたくなるほど、一瞬の表情だった。
「アーウェスを討つ。それは揺るがない事実。皆も総意したこと。王女殿にはおつらいかもしれないが、あきらめていただこう」
「…どうして、アーウェスを信じてくれないんです」
ほとんど泣きそうな声でエルオーシュは呟いた。
どうしようもない、大きな流れがある。国という大きな流れ。アーウェスは、どれほどこの流れに巻き込まれ、傷ついてきたのだろうか。
『私は少なくとも殿下のように、あきらめていない!殿下のように逃げていない!どんな境遇になろうとも戦うと決めている!』
『小娘が知った口を聞く。腰抜けだって?』
そう言ったアーウェスは、本当は何度もあらがってきたのかもしれない。
そうして何度も傷ついてきたのかもしれない。
きっと、いつでも戦っていた。逃げずに戦っていた。
聰明なアーウェスはきっとこんな事態になるのを何度も、想像してきたのかもしれない。
だとしたら、本当に面倒で逃げるつもりなのなら、アーウェスはさっさと城からいなくなっているはずだ。身分もすべて捨て、ただ一人のなんでもない人間になって。
そうしなかったのは、兄のため。
ひとりで国を背負う兄のためだったのに。
「信じている」
エルオーシュは思わず顔を上げた。
カルロスが悲しそうエルオーシュ見て微笑んだ。
「疑ったことなどない。あの弟を。ただの一度も」
「では、…どうして…」
「言っただろう。ベルリオールを揺るがす毒は、弟でも取り除くと。……事をなすには、情も捨てなければならないときがある。この大国を治めるには、さらなる犠牲が必要になるのかもしれない。…それが億万の民の命をあずかる、国王の役目なのだから…。アーウェスは、それを誰よりも理解している」
切なそうに眉を寄せたカルロスは、そのままうつむいた。
国のための犠牲。
真実を折り曲げても守るべきものがある。
たくさんの犠牲の中で、今のベルリオールがある。国家というのは、そういうもの。
エルオーシュも、アルライドの王族として、何度もその犠牲を聞いてきた。
「…私もアルライドの、…一国の王女。国王の義務は分かっているつもりです。嫁ぐまで、男のように育ち、陛下と同じことを思い、国を導きたいと思っていました。女であることが煩わしかった。昔の私なら陛下の言葉に納得した。…でも、今は、国の事情は分かっていても、納得はできないのです。陛下がアーウェスを討つのなら、私は国も陛下もきっと憎むのでしょう。それは、私が女だからです。ずっと、わからなかったけれど、そう思っている私はちゃんと女だったようです」
エルオーシュは淡々と言葉を紡ぎながら、カルロスを睨んだ。
お前もただの女だったかと、ベルリオールに連行されてきた父はエルオーシュをそう罵倒した。
理解のできない言葉だったが、今ならわかる。
エルオーシュは、弟を国の犠牲にすると言ったこの男を憎いと思った。高潔な言葉で諭されようが、理解する気はなかった。
己を睨み続けるエルオーシュを見て、なぜかカルロスは安心したかのように肩を下げた。
「アーウェスを、愛しているのだな。あなたは」
愛、なんてわからない。
けれど、アーウェスがいなくなったら、死んでしまいたいほど絶望するだろうと分かる。
きっと父のときとは違う悲しみだ。
「あなたは、よく弟のことを理解してくれている。きっと、世界中の誰よりも。…あなただけは、アーウェスをいつまでも信じてあげて欲しい。あなたを泣かせてしまうどうしようもない男だが、ずっと見捨てないでやって欲しい。きっとあなたがやっと現れたアーウェスの光なのだろう」
エルオーシュはうなずかなかった。涙をこらえた赤い瞳でずっとカルロスを睨み据えていた。
あなたが、アーウェスを死なせるくせに。
なぜ、信じてあげてほしいなどと。
そのまま、カルロスは兵たちを連れて奥へと消えていった。
その姿が消えても、エルオーシュは唇を噛みながらひたすら前方を睨み続けていた。
鉄格子の冷たさに、手がひどく痛んでも気にしなかった。
ずっと、見せまいとした涙がこらえきれなく頬をつたい、床に落ちた。
そのまま鉄格子にすがるように、エルオーシュはその場にうずくまる。
こらえていた涙が、止まることなく流れ続け、膝を濡らしていった。
情けない、と震える拳を握りしめる。
泣くことしかできない身が恨めしかった。
アーウェス…
あの日、戦に行く前にエルオーシュを見上げていた彼は、どんなことを思っていたのだろう。
あれが、最後なんて絶対に嫌だ。
階段から落ちたエルオーシュの名前を呼んでくれたのがアーウェスなら、もう一度呼んで欲しい。
皆が言っていた通り、ずっと目を覚ますまで傍にいてくれたのがアーウェスなら、ちゃんと本人に確かめたい。
言えなかった言葉もたくさんある。
他の誰かを一番に想っていても、それでもいい。顔を見られれば、それでいい。
愛情を持ってなくてもいい。もう愛情なんて、求めたりしないから。
ただ、無事に帰ってきて欲しい。




