ep24 孤独と喪失①
久しぶりに戻ってきた私室は、なぜだか居心地が悪かった。
故郷から持ち込んだ調度品も、昔からエルオーシュが使っているお気に入りものも、全てそろっているというのに、自分の部屋だという実感がまるでわかない。
長く、アーウェスの居室で暮らしていたからだろう。しかし‥、とエルオーシュは軋む胸元を握る。
あの夜から、彼がエルオーシュに触れることはなくなった。
それどころか、顔も見ていない。
エルオーシュの部屋に通ってくる様子もなく、久しぶりに独り寝の日々が続いていた。
きっと、飽きてしまったのだろう。
ローネリアの言った通りに。
アーウェスがエルオーシュに触れることは、もう二度とない。
今ごろ彼は、新しい女性でも見つけているのかもしれない。こうして一人で部屋で過ごし、一人で眠る日々が始まる。
そんなことは元から当たり前だったというのに、今はひどく寂しかった。
こんな気持ちになるのなら、知らないほうがよかった。
あたたかく包んでくれる腕の温もりも、安心しきっているかのように眠る少し幼く見える寝顔も。知ってしまったから、こんなにも寂しい。
日常を過ごす中で、駄目だと思いながらもいつも求めてしまう。
あのまま知らないふりをして、苦しさを押し込めたまま、傍にいれば良かったのだろうか。
いや、きっと無理だ。この苦しさを紛らわせることなんて、できやしない。
「エルオーシュさま」
ナーナの控えめに声に顔を上げる。
「今日も体調が優れませんか?」
いつもより口数が少なくなったエルオーシュを、ナーナはいつも心配してくれる。なんと不甲斐ない、とエルオーシュは余計な心配をかけている自分を情けなく思った。
「大丈夫だよ」
そう笑いかけるが、エルオーシュは自分の体の不調に気づいていた。
建国祭の前から不調は続いていたが、それが最近ではひどくなっている。体がやけにだるく、不快な冷や汗をかく。それに、胃があれて吐き気もしていた。
食事後には、決まって体調が悪くなる。とは気づいていた。
何か、食事に混ぜられているのかもしれない。
その疑念は日に日に強くなる。
誰かに言ったほうがいいというのはわかっているが、あまり騒がれたくはなかった。
何しろ、アルライドをめぐってベルリオールとトラファニアの関係があまりよくないと聞く今、一触即発というようなこの時期に、国内で余計な混乱は招きたくなかったのだ。
エルオーシュを殺したいのならば、こんなふうにじわじわと体調を壊していくより、強い毒を一服盛って殺そうとするだろう。
エルオーシュには、毒を少しずつ盛る犯人の意図がまったくわからない。誰が、そうしているのか。だから、泳がせていた。自分で見つけ、特定できればどんなに良いか。幸い毒には多少なりとも耐性がある体だ。そのうち尻尾を出すだろうと、高をくくっていた。
だが、カルロスだけにでもこの違和感を伝えたほうが良いだろうか、と迷う。
「体調がすぐれないのであれば、午後からの礼拝を欠席したほうがよろしいのではないでしょうか?」
社交の季節には行事が多い。礼拝もそのひとつだ。
ベルリオール王国の始祖を讃える祭のようなものらしい。
礼拝堂で、王族一同、王族に深く関わる者たちが聖堂で礼拝し、それから外交をともなう賑やかなパーティーが開かれるという。
なにはともあれ、ベルリオールの王族にとっては大切な行事だという。
「大丈夫だ。こんな時こそ、私が参列せねば」
顔を出さねば、ますます裏切り者だと思われるだろう。エルオーシュが、誰よりも首を垂れて、ベルリオールに忠誠を示さねばならない。
それに、カルロスと自然に話せる絶好の機会だ。この違和感を、告げられるかもしれない。
そう思えば、エルオーシュは重い体を無視し、意気揚々と立ち上がった。
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人の気に酔いそうになりながらも、エルオーシュは必死に案内された場所へと足を進めた。一歩足を踏み出すごとに吐き気がこみ上げるが、なんとかそれを顔にださないよう耐える。
歴史ある重厚な佇まいの礼拝堂は広く、圧倒されるようだったが、その風景を堪能する余裕はエルオーシュにはなかった。
青ざめた顔を隠そうとうつむき、目を閉じる。
厳かな場所である礼拝堂では、そのような仕草でも自然に見えるのは今のエルオーシュにとっては救いだった。
そのため、近づいてくる人物にエルオーシュは気がつかなかった。
やっと気づいたのは、その人が傍らに立ったときだった。
人の気配に見上げると、そこにはアーウェスがいた。当たり前だ。自分は王弟の正妃なのだから、共に並び礼拝しなければならない。
しかし、エルオーシュは驚いていた。
あの日以来会っていないからだ。
最初の言葉を何と言っていいのかわからず、声をかけられないまま立ち尽くす。
アーウェスは最初から話す気などさらさらないようで、一度もこちらを見なかった。
…こんなに、遠い存在だっただろうか。
思わず、そんなことをあらためて思ってしまう。
距離がどんどん遠ざかる。
一瞬ですら、その心を垣間見られない。
こんなにも、遠くなった。
目を閉じると、さらにぎこちない空気を感じる。深い溝を感じながら、エルオーシュは礼拝の言葉をぼんやりと聞いていた。
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賑やかにパーティーは行われた。
日当たりのいい庭での催しは、厳かな神事とは打って変わって、砕けたような気安さがある。ナーナがお祭りのようなもの、と教えてくれたのはこの社交会のことなのだろう。
女性達の笑い声が軽やかに響く中、少し疲れたからと王妃に言い残してきたエルオーシュは、ひとり静かな場所でそんな王族や貴族達の様子を眺めていた。
国王陛下も王妃も、多くの者と挨拶を交わしている。国王夫妻に声をかけたい者たちは後を立たない。無理はない、とエルオーシュは快復を喜ぶ人々を見つめながら口元を緩めた。
病から回復したカルロスは、今まで通りに政務をこなしているようだ。朗らかな彼の笑顔を見たエルオーシュの胸に、皆と同じく安堵と喜びが広がる。
予想よりも力強く精力的に社交会を立ち回るカルロスの傍には、いつも以上に美しいアナソフィアがいた。
物腰も笑顔もすべてが柔らかく、上品で女性らしい。誰がどう見たってアナソフィアは魅力的だった。大人の静寂さがただよう会話の合間に、少女のような愛らしい笑い声を弾ませている。同性のエルオーシュでさえも、他の諸侯と同じく美しい王妃に目を奪われていた。
…アーウェスが惚れるのも、当然だろう。
納得しながら眺めていると、視界にアーウェスが入った。
カルロスに呼ばれ何やら話し、他の諸侯にもきちんと挨拶しているようだ。
アーウェスは当然のように放置しているが、本来はエルオーシュの仕事でもあるのではないか。と、はたと気づく。本来は国王夫婦と同じく並び立つべき事柄なような気がする。休んでいる場合ではないのではないか、と焦ったエルオーシュは、重い体に鞭を打って腰を浮かせた。
隣には相応しくない妃だろうが、その地位に据えられている限り、役目をまっとうしなければならない。
自然と隣に侍る機会を窺っていた時、カルロスがその場を離れた。
代わりに、アナソフィアがアーウェスの隣に侍る。二人で、挨拶に訪れる客人の相手しているようだ。
「お美しい組み合わせだこと」
「王妃様はお怒りになるでしょうけれど、王弟殿下と立ち並ぶと、礼拝堂の全能神と女神の夫婦像のようにお似合いに見えるわね」
まあ…、と美しい組み合わせを見つめている貴婦人達から、ため息ともにそのような賛辞が聞こえた。
本当の夫婦のようにお似合いだ、とエルオーシュもその光景に見惚れてしまう。しかし、心臓に棘が刺さったかのような痛みが走った。
それは、王妃にちっとも触れようとはせずに必要以上に距離を取り、下心の垣間見えないアーウェスの接し方に気づいたらからだ。わざと、そうしているように。そう感じると、ひどく悲しい気持ちになった。
わざと、距離を置いているのだろうか。
特別で、大切だから。
夢に見るくらい、王妃に恋焦がれているから。
そう思い込むと、地に落ちてゆく気分になった。エルオーシュと彼らの間に、深い谷が広がっている。そんな錯覚が目の前に映し出された。
手が届かない。走って、走って、手を伸ばしても、エルオーシュは深い谷底へと落ちてゆく。
ぼんやりと遠くのふたりを眺めながら、なぜだか、ひどく孤独だと感じた。
自分には、誰もいないのだと。
知らない異国に嫁ぎながら、唯一信頼している侍女も手放してしまった。
あとは、頼れるのは夫だけだというのに、彼はエルオーシュを拒絶した。
独り、だ。
何もない。
自分が消えて、困るような人はどれぐらいいるのだろう。たぶん、ひとりもいない。むしろ、喜ばれるだろう。
故郷に逃げ帰ったとて、歓迎されないだろう。父の后達や王子達にとっても、エルオーシュは目障りな存在だ。
私はすべてに、必要とされていないのだ。
このまま消えてしまっても、誰も気づかないかもしれない。
自虐的な気分に陥り、己に苦笑する。
なんて、幼稚な。
誰もいないのは、自分のせいだというのに。誰かのせいにしたがって、惨めな自分に酔っているそんな自分が、…何よりこんな自分自身が一番いらないと思っている、と自分を嫌う。
やっぱり今日はどうかしているようだ、とひとつため息をついて、エルオーシュは今度こそ足に力を入れて立ち上がった。
やっぱり、部屋に戻っていよう。今の自分では何をしても役立たずだ。
そう思い、足を踏み出そうとした瞬間、激しいめまいがエルオーシュを襲った。
ふらりとよろめき、その場にうずくまってしまう。
「エルオーシュさま!?アーウェス!大変」
誰かの駆け寄ってくる足音がした。アナソフィアだ。
「だ、大丈夫です。少し、よろけただけで…。申し訳、ありません」
額に油汗をにじませながらも、エルオーシュは声を絞り出した。
今はこの人に優しくされたくなかった。もっと自分が嫌いになるからだ。
意地でも立ち上がって、平気だと笑いたかった。しかし、目の前が真っ暗になるような眩暈に足に力が入らない。
「どうして謝るの?ひどい顔色だわ…。医師を呼びましょう。誰か、早く!」
背中を優しく撫でるアナソフィアの手をいとわしく感じながら、エルオーシュは今度こそ無理矢理立ち上がった。
「平気です…!自分で、部屋に戻りますから、そんなご面倒は…かけずとも、大丈夫です、から」
そう気丈に振る舞おうとしながらも、よろけてしまう。ぐらついた己の体に、しまったと冷や汗をかいた途端、誰かに腕を支えられた。
ふと見上げると、すぐ側にはアーウェスがいた。力強く腕を掴んだのは、彼だった。




