ep23 離れゆく心
「エル」
聞き慣れた声に、恐る恐る顔を上げた。
私のことになんて構わず、楽しく踊っていればいいのに‥、と知らずに卑屈になってしまう。しかし、それすら言葉に出来ないまま、エルオーシュは口を堅く引き結んだ。
そんなエルオーシュの顔色を見たアーウェスは、眉をひそめながら手を伸ばし、エルオーシュの腕をとった。
「部屋に行くぞ」
立たせようとするアーウェスの動作に、エルオーシュは迷ったあげく、抵抗した。
それでも、行動と心は一致してくれなかった。
エルオーシュの様子に気づいて来てくれたのだと思い至れば、こんな状況でも胸に嬉しさが広がった。
なんて愚かだろうと、自分を叱責したくなった。まだ期待するつもりか、と。
きっと、アーウェスは心配といった感情ではなく、エルオーシュが公共の場で失態を犯さないように、こんな行動に出たのだろう。これ以上、迷惑はかけられない。いや…、何もこなせない無能な姿を見せたくない。
そばでこの姿を見られたくはない。二人きりにはなりたくない。
未練を断ち切るように、男の腕を弱々しく押す。
「いいよ。ひとりで行ける」
腕を掴む手を振り払って、自力で立ち上がる。
気分はそれほど悪くない。痛いのは、心だ。
吐き出しそうなのは、弱音と涙だけだった。
けれど、そんなエルオーシュの心を無視した手が、強引に手首を掴んだ。
きしむほど強く、乱暴に掴んで引っ張るようにエルオーシュを連れていく。
足がもつれても、いっこう気にする様子はない。
その痛さに、心の痛さにエルオーシュは涙を流していた。
声もなく、涙が溢れていた。
アーウェスはこちらを見ない。苛立ったように、足を進めるだけだ。
どんな顔をして、エルオーシュの手を掴んでいるのかわからない。
伝わるのは、苛立ちだけだ。その背中から、ひしひしと伝わってくる。
こぼれ出した涙は止まってくれず、歩みが遅くなる。ぼやけた視界のまま、その冷たい背中を見つめたエルオーシュは、つい鼻をすすってしまった。
その音に、アーウェスは投げやりに掴んだ手を放した。
かすかなため息とともに、こちらに振り向く。
アーウェスの顔に視線を向けることなど出来ずに、頬をつたう雫を拭いながら視線をそらした。
「そんなに俺に触れられるのが嫌か?」
硬い声が響く。
エルオーシュは、声すら出せなかった。
止まらない涙にお咽がもれそうで、必死に唇を噛んでいたからだ。
「エル」
鋭く響く声音。あきらかに怒っているその響きに、びくりと体が震えた。
こんなの‥もう、耐えられない。
深く息を吐く。ひどく弱弱しく吐息がもれた。
「‥もう‥いやだ‥。‥いやだ、アーウェス」
涙につかえるその声で訴える。
「‥っ、‥苦しい‥」
苦しくて、苦しくて、もう、耐えられない。
毎日、毎日、アーウェスのことだけを考えては苦しくなる。
「アーウェスといると‥、苦しくなる‥‥」
どうしてこんなにも胸が痛いのか。
ふくらんだ想いは、もう自分ではかかえきれない。
どうしていいのかわからない。
この心を伝えると、アーウェスは離れてしまう。心を求めると、エルオーシュの傍から消えてしまう。
アーウェスの心は、すべて別の女性に捧げられているから。
「もう‥‥、いやなんだ」
ひっくと喉を鳴らしながら、アーウェスを見上げる。
彼は目を細めてこちらを見下ろしているだけだった。その冷ややかな黒い瞳に、エルオーシュは脅えた。
とっさに、一歩後ずさりしてしまう。
その様子に、アーウェスは一瞬深く眉根を寄せる。苛立ったのではなく、傷ついたような顔だった。
どうして?
なぜ、アーウェスがそんな顔をするのか。
苦しいのは、エルオーシュだ。
呆然としている間、もういつもの冷ややかな顔つきに戻っていたアーウェスは、強引に腕をつかんだ。
苛立ちと怒りがにじみ出ているその強引さに、エルオーシュは悲しくなった。
引きずられるように、乱暴に部屋までつれていかれる。
「いやだ‥!」
叫んだ声にも答えてくれない。
もがいても、何をしても離してくれなかった。
暴れるエルオーシュをやっと放したのは、自室の寝台の上だった。
物でも扱うように、エルオーシュを軽々とその上へ投げ捨てる。
抵抗しようと起き上がろうとしたときにはもう遅く、アーウェスの重みに体の自由が奪われていた。
「い、いやだ‥!」
泣きながら暴れるエルオーシュの体を組み敷き、宙をかく両手を片手で捕える。
首筋に生ぬるい感覚がつたい、エルオーシュは震えた。
しぐさもすべてが乱暴。こんなこと、一度たりともなかったのに。いつもは、優しかったのに。
エルオーシュが、怒らせた。
布が引き裂かれる音を、エルオーシュは絶望の中で聞いていた。
怖い、と初めて男に恐怖を覚える。
まるで、エルオーシュのすべてを拒絶しているようだった。
怒りも苛立ちもすべて、エルオーシュにぶつけるように扱う。
愛情なんてものは、これっぽっちもない。お前は要らないんだ、と拒絶されているようだった。
「アーウェス‥‥!」
泣き叫ぶ口を、アーウェスは乱暴にふさいだ。
ただの道具みたいだ、と感じた。
人形のように、何も話さず居ればいいのか。ただの欲情処理のための道具のようだ。
私は、何?どういった存在?アーウェスにとって、私は‥
『面倒くさい女はごめんだ。おまえまで苛つかせるな』
『あなたは、たくさんいた殿下の気まぐれの女に過ぎないの』
ただ、都合のいいだけの、女?
『そなたは王女ではなく、わしの命を守る駒。剣をふれないそなたにはなんの価値もない!!役たたずが!』
ただの、駒?
剣がない私には、価値がない?
価値がない存在。
誰も、必要としない。ただ苛立ちをぶつけられるだけ。
『俺のために生きればいい』
そう言ってくれは人も、今はエルオーシュを乱暴に扱う。きっと、エルオーシュが必要なくなったから。もう、いらない存在だから。
エルオーシュは泣き続けた。
アーウェスが離れても、うずくまって泣いていた。ずっと我慢していた感情が、すべて流れ出るようだった。
母が死んだとき
初めて父がいる王城に足を踏み入れたとき
ずっと見ていた夢を奪われ、不安に襲われながら、慣れない異国に嫁いたとき
国が侵略されたとき
父の本心に触れたとき
そして、叶わぬ想いを抱いたとき
本当は、いつだって泣きたかった。
感情のままに。
しかし、弱い自分を認めたくなくてずっと抑えていた。
本当はいつだって脅えていた。
孤独に脅えて、不安を押し込めていた。認めたくなかった。独りが怖いのだと。
臆病で弱い人間なのだと。
「‥‥エル」
闇夜に響いた声に、エルオーシュはびくりと体を震わせた。さらに、小さくなって子供のように泣く。
暗闇が怖いと思った。
「‥落ち着いたら、自分の部屋に戻れ。もう、ここには来なくていい」
それは、拒絶の言葉。
エルオーシュはもう、必要ないという言葉だった。彼がエルオーシュを拒絶するなら、次は何のために生きればいいのだろう。
俺のために生きろといった彼が拒絶するならば、どうすればよいのだろう。
静かに寝室の戸が閉まる音がした。
それがやけに寂しく響き、エルオーシュはさらに泣いた。
本当は、独りの暗闇が怖いのに。ひとりに、しないで‥。
お咽がもれ、やがて、それは声になる。
初めて声をあげて泣いた。一生分の涙を流すほどに泣いたと思うのに、まだまだ涙はとまらなかった。
暗闇に、取り込まれる。怖い、と身を縮める。
助けて、誰か傍にいて。そう呟いても、答える声などない。
ぎゅっとシーツを掴み、暗闇に脅え、声をあげながら、いつまでもエルオーシュは涙をこぼし続けた。




