ep21 金髪の少女
幸福を感じていたのは遥か昔のことだ。
記憶にあるのは、ただ、ひとつの思い出。
「アーウェス、アーウェス」
誰かが呼んでいる。
真っ暗な納屋の中、痛む体をようやく起こし、戸口へ向かった。
「アーウェス、今出してあげる!」
「別にいいよ。ソフィーが怒られる」
それより、ソフィーをたぶらかしたといつもより多く自分が殴られる、と冷静に考える。
この暗闇の冷たさは慣れているのだ。
別に一日中出られなくても構わない。
そう思っているのに、ソフィーは関貫をはずして扉を開けた。
外から差し込む日の光がアーウェスには眩しすぎた。顔をしかめ、少女から顔をそらしていた隙に、少女はアーウェスに抱きついた。
金髪が扇のようにふわりと広がり、やがて少女の背へとやわらかく舞い落ちる。
「抱きつくなよ」
また、俺が怒られるのだから。
そう言っても、少女はぎゅっとアーウェスに抱きついたままだった。
暖かい温もりに、まあいいか、とアーウェスも諦める。少女のまとう花の香りは、ほっと心を落ち着かせ、思わず眠りに誘われそうになった。
このまま寝てしまいたい、と思い始めた頃に少女はいきなり離れた。
「あ!そうだわ!傷は!?」
心配そうに覗きこむ少女に苦笑しながら、髪を撫でてやる。
「今日は少ない」
怪我しているアーウェスの手当てをこっそりするのが、いつからか少女の役割となっていた。
「王妃さまは、ひどすぎるわ。それに、お兄様たちも」
泣きそうになりながら少女は、ハンカチで血のにじんだアーウェスの口もとを拭った。
「仕方がないよ」
この身に流れる血は変えられない。
「俺だって、母親のことを汚らわしいと思うし」
面倒くさくなって言い捨てると、少女はまたアーウェスに抱きついた。
名前を呼んでも、引き離そうとしても離れる様子がない少女に、もう好きにさせようと諦めた。
空を見上げると、日が沈みそうな空は赤く染まっていた。
かすかに見える夕月夜が綺麗だな、とぼんやり眺める。風が吹くと巻き毛の金髪が揺れ、アーウェスの肌を撫でた。くすぐったさを感じるが、諦めてじっとする。
しばらくそうしていたら、鼻をすする音が聞こえた。肩のあたりが濡れて冷たい。
「‥‥何で泣く」
本当に泣き虫だ、と呆れながら髪を撫でる。
「アーウェスが泣かないからよ‥!」
もう!と怒りながら胸を叩く少女に呆気にとられるが、はあ‥とため息をつきながら背中を撫でてやる。
「俺のことで、別に泣かなくても」
「馬鹿‥!‥私が‥私が変わりに泣いてあげているんじゃない!」
きん、と耳にひびく声に顔をしかめながら、どうやってなだめようか、とそれだけを考えていた。
「どうして、自分のお母様のことをそんな風に言うのよ!」
「ソフィー、落ち着つけ」
どうして責められているのかわからない。どう考えても、皆に蔑まれるのは母親のせいだと思っていた。
「アーウェスのお母様は、ちっとも汚らわしくなんかないじゃない!」
何を言っているのかと、アーウェスは困惑した。
散り散りとなった黒髪の民は、奴隷や遊女に多く、国中が軽蔑の眼差しで見つめているのに。
「ほら、こんなに綺麗な髪、黒曜石みたいな瞳。汚らわしいわけない」
アーウェスの髪をすく少女の茶色の瞳に、自分が映り込むのを眺めながらじっとしていた。
「知ってる?アーウェスのお母様の民族は、歌と踊りとともに生きる神様に愛された民族なの」
調べたのよ、と誇らしげに言う少女の顔を見ながら、昔自分も調べたな、と思い出していた。
「‥‥知ってる。母親もそうやって国を渡って暮らしていた」
「そう。神のために踊る、何処の民族よりも誇り高い民族だわ」
風のように、歌い、踊り、風のように生きる、風の民だとか。ベルリオールの史実では神に嫌われた民族とあるが、彼らの間で語られた文献には、そう良く書かれている。
誇り高い民族。
決してひとつの場所へはとどまらない。
まだ見ぬ土地に心惹かれ、風が導くままに夢を見る。
「アーウェスは誇り高い人の血を引いているのだわ」
なぜか、アーウェスを見て少女が誇らしげに笑った。
しかし、自分は見知らぬ土地に夢など見ない。
神への信仰もない。
そして、国のために忠誠を捧げる王族にもなれない。
絵本で読んだことのある、こうもりの話のようだ。
見た目は獣なのに、獣になりきれず、翼を持っているというのに、鳥にもなりきれない、半端もの。そうして皆に嫌われるという話。
半端ものには誇り高さなんてない。
しかし、少女にそう言われると、心に風が吹き込む。ふわりと抱きしめられれば、感じたことのないような暖かい感情になる。
初めて、安心して呼吸ができるような気がしていた。ささやかな幸福感を、確かに感じていた。
しかし、急に温もりと重みが腕から消える。
目を開けると、抱きついていた少女が霧のように襲う暗闇に呑まれた。
闇の中、静寂した空間にぽつりと自分だけがたたずんでいる。
しかし、すぐに闇の中、目の前に背を向けて震えている少女が現れた。
先ほどの小さい少女ではない。もっと成長した姿の女がいる。
均整のとれたすらりとした四肢。華奢な肩に流れる艶やかで、柔らかそうな金髪は、先ほどの小さな少女よりも淡い色で、角度によっては銀色にも見えた。
『ソフィー』
それでも、その揺れる金髪に、先ほどの少女だと思い、どうしたのかと抱き寄せる。
でも、すぐに違うと分かった。
このやわらかな香りはソフィーではない。
けれど、雰囲気はひどく似ている。先ほど感じたように暖かい感情が広がる。安心して眠れた頃の、まだどこか守られていた幼い頃の感覚が蘇る。
この少女の名前はすぐに思い出したのに、呼べば消えてしまうような気がしていた。
抱いていたら、嫌そうに身じろぎして目を合わせる。
一見はかない容貌なのに、この少女は瞳だけが力強く輝いていた。生気の溢れる瞳に嫌というほど目が離せなくなる。
気が強そうなエメラルドの瞳を、凛とアーウェスに向けている。
「アーウェス」
どんなに怒って、男まさりにぶっきらぼうに言っても、高く甘い声のせいでまったく効果がないということに、本人は気づいていないだろう。
細く柔らかな金髪に指を絡ませて、頭を引き寄せようとすると、少女は少し悲しそうな顔をして一歩離れた。
ふとした瞬間に、少女がまた闇に消える。
闇の中、再び独りになる。
甘えてくっついていた猫が、ふいにそっぽを向いて走りさっていくような、奇妙な物足りなさを感じながら、覚醒へと意識は導かれてゆく。
小鳥のさえずりが耳に届く。瞼越しに眩しい日差しを感じた。
ああ、夢か。と気づく。
なぜ、今さらあんな忘れかけた記憶を見てしまったのか。最近、よく懐かしい夢ばかりみる。兄が昔のように病に倒れたからだろう。そう思った時、よく知る香りが鼻をついた。
そうか、と気づく。
遥か昔の夢をみるのは、昨夜抱き締めた少女のぬくもりのせいだ。
目を開ける前に右手を伸ばして隣を確かめる。
誰もいない傍らに、違和感を覚えたアーウェスは思わず身を起こした。
「エル?」
呼んでも返る声はない。
不審に思い、あたりを見渡せば、窓の先のバルコニーから風に揺れる金髪が見えた。
寝巻きのまま、ショールだけを羽織ってどこか遠くを見つめている。
陽の光を閉じ込めたような金髪が風にさらわれ乱れても、直そうともせずにじっと、エルオーシュは頬づえをついていた。
その表情はひどく寂しげで、そのまま泣き出してしまいそうな顔をしている。
足を踏み入れると、エルオーシュは驚いた顔をアーウェスに向けた。
「は‥早いな」
明らかに動揺している様子に、来てはいけなかったのかとかすかに苛立つ。
「おまえがな」
そう言い放てば、気まずそうな顔をした。
風が吹く。早朝の風は少し肌寒く、エルオーシュは身震いをした。
仕方ないと、後ろから抱きしめてやると、エルオーシュはびくりと体を硬直させた。
この頃、エルオーシュはこんな調子だ。そして、怯えた瞳をアーウェスに向ける。
無理矢理抱いたようなものだから、当たり前かもしれない。
しかし、たまにこちらを求めてくるような態度を見せるため、分からなくなる。
エルオーシュが何を求めているのかわからない。触れられてほしくないのか、そうではないのか。
ふとそう思ったとき、思わず心の中で笑った。
今まで、誰かが何を求めているかなんて考えたことがあっただろうか。
人の心を気にしたことなど。
エルオーシュが何を思っていても、別に関係ないではないか。触れてほしくなくても、アーウェスのしたいようにするだけだ。
何かを求められるなんて面倒なくせに、なぜ自分は今、そんなことを考えてしまっているのか。
体に力を入れて硬直する少女は、自分を拒絶しているのだろうかと、今、考えていることが不可解でならなかった。




