ep20 恋する気持ち
二度と心配なんかしない、と啖呵を切って部屋を飛び出したが、結局帰れる場所はひとつしかなかった。
感情はぐちゃぐちゃなままだったが、やはりアーウェスの怪我の事は気にかかる。
頭を冷やすために無駄に庭を散策していたエルオーシュは、しばらくしたのち、そろりとアーウェスの部屋に足を踏み入れた。
彼はすでに寝室で体を休めているようだったが、エルオーシュの気配に一瞬目を開け、鬱陶しそうな視線を向けたのち、また目を閉じた。
歓迎はされていないようだが、出ていけ、とも言われない。
アーウェスに頼らねば何もできない境遇の自分にため息を覚えながらも、彼の言った犬に戻る。ただ、主人の寝息を静かに見守る、愛玩犬に。
これでいいのか、という葛藤はあった。だが、あらがったところで何かが変わるようには思えない。
そのように無気力に時を過ごしている間に、アーウェスの機嫌はなおったのだろうか。すっかり回復した彼は、今までの引継ぎのためかカルロスのためにまたもや政務に忙しくなったようだ。
ほんの一時、お互いの感情をぶつけ合ったことが幻だったかのように、日常が戻ってゆく。アーウェスの記憶の中では、エルオーシュの癇癪などなかった事になっているのだろう。
―――恋をしたって無駄なのよ
考えたくなくとも、ローネリアの言葉は、いつまでもエルオーシュの耳に残っていた。
ありえない、と思った。恋という感情は、自分には縁遠い存在なのだ。
年頃になっても、他の年頃の姉妹のように色恋話に興味は持てなかった。それどころか、なぜそんなに夢中になれるのかと理解できなかった。
「きゃっ、も、申し訳ありません!」
その悲鳴に、エルオーシュの意識は現実に戻された。
ナーナが、水挿しをひっくり返してしまったらしい。
「大丈夫だよ。それより、この頃ぼんやりしているけど、具合でも悪いの?」
最近、ナーナはこんな失敗が多い。いつも丁寧な動作で働く彼女らしくないのだ。
本気で心配になり、その青ざめた顔を覗き込むと、ナーナは心底申し訳なさそうな顔をした。
「申し訳ございません‥。私、仕事もままならないなんて‥情けないです。お叱りを受けても当然な、行動を‥」
顔を覆って泣き出してしまいそうになるから、エルオーシュは慌てた。
目の前で泣かれるのは苦手なのだ。どうやって慰めていいのかわからなくなる。
「ナ、ナーナ。悩みがあるなら聞くから」
「エルオーシュ様を、わずらわせるわけにはいけません。それに、本当にくだらない事なのです」
「くだらない事?ますます気になるじゃないか。ナーナが悩んでいるのなら、どんな事だって聞きたいよ。せっかく年が近いんだ。今の私には、気楽に話せる相手がいない。だから、ナーナも気軽に話してくれないか」
エルオーシュさま‥、とナーナの吐息が聞こえた。祖国から連れてきた侍女もいなく、友人もいない孤立無援状態のエルオーシュに、何か思うことがあったのだろう。
ナーナは体から緊張をといて、そろりと声を出した。
「ほ、本当ですか‥‥?あの‥‥‥実は」
ナーナは顔をあげると、かぁっと顔を赤らめた。
潤んだ瞳がやけに少女を色っぽく見せる。悩ましげについたため息も、どきっとするほど女らしい。
「す、好きな殿方が、できてしまったのです」
恥ずかしそうに、しかしどこか幸せそうに彼女は顔を赤らめた。
エルオーシュは、予想外のことに言葉も紡げなかった。
好き、というのは友人などに使う言葉ではなくて‥殿方と言っていた。それはつまり‥
恋?ナーナは恋をしてしまったのか。
ナーナはエルオーシュの戸惑いには気付かずに、話し続けている。
相手が王城の騎士であること。出会いは、階段でこけそうになったところを支えてもらい、一目惚れしてしまったこと。その男がどんなに素敵か、エルオーシュに語って聞かせるのだ。
優しくて、上品で。女性に丁寧で、物腰も柔らかい。そこに惹かれたらしい。確かに、そんな人ならば、恋に落ちるのも多少は分かる気がした。
アーウェスとは正反対だと思う。冷たくて、自己中で、あまり優しいとは言えない。考えただけで、そんな人に恋なんてする女なんていないだろう、と思ってしまう。
ナーナはその人のことを話すときは、あたりに花が舞っているかのごとく幸せそうだった。楽しげに瞳を輝かせて、うっとりと微笑む。
羨ましいとエルオーシュは思った。恋をしただけで、そんなに幸せな気持ちになれるのか、と羨ましくなった。
恋という感情が、このように穏やかで幸せな気持ちにさせてくれるものなら、自分のはやはり違うのだと思い知らされる。
だって、こんなに苦しい。
幸せな気持ちなんてちっとも感じない。
幸せどころか、目の前にいると自分のことを見られたくなくなって、消えて無くなってしまいたいという衝動にかられてしまう。それは、自分がちっぽけな存在に思えてくるからだ。
貧相な自分が彼の目の前にいても良いのかと、怖くなる。どこか緊張して、恐怖すら感じる。幸せな気持ちとは程遠い。
そして、いつもたまらなく泣きたくなってしまうのだ。
********
「エルオーシュさま」
エルオーシュは我に返った。目の前には、おっとりと微笑んだアナソフィアがいた。
今はアナソフィアの部屋でお茶の最中だったと思い出す。
カルロスは無事に回復に向かっているらしい。軽い政務ならば、もう私室でこなしていると言う。アナソフィアもそんな夫の元気な様子を見て、いつも通りの日常を取り戻しているところだった。
エルオーシュが色々と心配してこちらの事を気にかけているだろうと、アナソフィアから二人だけの茶会に誘ってくれた。これまで知らなかった国王陛下の状態や、混乱が落ち着いた周囲の動きを、知りうる限りに話して聞かせてくれる。
こんなにも親切にしてもらっているというのに、会話に集中しきれていない自分を恥じた。
「ご、ごめんなさい。ぼんやりとしてしまって。ええと‥、そのアナソフィア様のお好きな演劇の話、最後は二人は結ばれたのですか」
アナソフィアは、恋物語が好きらしい。好きな本や演劇を、エルオーシュにも見て欲しいと言う。恋、と言う単語を聞けば、エルオーシュの意識は体を抜けて遥か遠くにのぼってゆくようだ。情けない、と己を叱咤したくなる。
「ふふ。誰のことを想っていたの?」
え?と心臓が飛びはねた。
「なんてね。ひとりしかいないわね」
アナソフィアは内緒話をする少女のように、声をひそめて楽しそうに微笑んだ。
「お、想ってなんか‥」
熱い血液が顔にたまっていくのを感じながら、ぶんぶんと頭を振った。
「初々しくて、良いわね。私も初恋のことを思い出すわ」
アナソフィアも、エルオーシュが恋をしているように見えるのだろうか。ということは、皆にそんな風に見られているということだろうか。
‥アーウェスも?
どこらへんがそう見えるのか、と慌てて尋ねてしまいたくなり、とアナソフィアをちらり見る。彼女は目を細めて、どこか遠くを眺めるように窓の外に視線を向けていた。
燦々と明るい日の下で、花々がかすかに風に揺れている。
その、初恋でも思い出しているのだろう。景色を眺める王妃の横顔は、もの憂げで同性の目からも美しく映った。
「それは‥‥陛下ですか?」
行き過ぎた質問だと分かっていても、なぜか聞かずにはいられなかった。アナソフィアの初恋を思い出している顔は、どこか寂しげだったからだ。
「いいえ。実はね、違うの。もうずっと昔の話よ。今は懐かしい思い出になっているわ」
アナソフィアは優しげに微笑んだ。その初恋の思い出を、宝物のように、大切なものをしまい込むように手を当てて胸を押さえている。
「アナソフィア様は、その恋をして、幸せな気分になれましたか?」
今はカルロスの妻であるからには、その恋は実らなかったのだろう。それでも、ナーナのように幸せな気分になったのか気になった。
「そうね‥。幸せなときもあったわよ。だけどね」
――苦しいほうが多かった。
とくとくと胸が脈打つ。
ぎゅっとエルオーシュは胸を押さえる。
「アナソフィア様。ひとつ聞いてもいいですか?」
「あら、何かしら?」
真摯に見つめるエルオーシュに、彼女は楽しそうに目を細めた。
「‥‥どうして恋をしていると気づいたのですか?」
苦しいのなら、どうして分かったのだろう。
『恋』とは、何なのだろう。
「あら、簡単だわ。その人のことばかり考えてしまうのよ」
アナソフィアの言葉がすっとエルオーシュの頭に入り込み、木霊のように響きわたる。
「なぜだかね。寝ても、覚めても、気づいたら一人のことだけを考えてしまうの」
――苦しいほどに、頭から離れないのよ
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エルオーシュはいつまで経っても、アナソフィアの言葉を忘れることができなかった。
『苦しいほどに、頭から離れないのよ』
なぜ、目を閉じるといつもあの顔が浮かび上がるのか。
その答えは導き出そうとすればすぐにわかる。
でも、認めたくない自分がいる。認めるのが怖いのだ
気を紛らわすために、覚えたての刺繍を夢中で刺す。
しばらく無心で手を動かしていると、ドアが開く気配がした。
その気配にエルオーシュはこれまでもないくらい緊張してしまう。
ど、どうしよう。
アーウェスが帰ってきた。
落ち着かない気持ちで刺繍を握り、寝台の上に座りこむ。
ほどなく寝室にアーウェスが現れた。
はっとした瞬間に、針で指を突き刺してしまう。
「いたっ」
思いのほか深く刺してしまい、血がみるみるうちに指から滲み出てきた。
「何やってんだ。お前は」
呆れた様子で近づいてくるアーウェスに、また緊張してしまう。
『誰のことを想っているの?』
どうしよう‥
まともに顔が見られない。
「まだへそを曲げているのか」
「まげてなんかいない」
「そんな恐い顔で言われてもな」
そんなエルオーシュに構わず、刺してしまった指をアーウェスは掴んだ。
傷の具合でも見ているのか、眉を潜めて至近距離で指を凝視している。
「あ、あの、アーウェス‥‥」
「本当に不器用。やめたほうがいいんじゃないか?」
刺繍すらまともにできないエルオーシュに、アーウェスは失望しただろうかと不安になった。
なんでもできるようになりたいのに。
どうしてこんなに、自分は世の女性達と比べ出来ない事が多いのだろう。
前まではそれが誇りのように思っていたのに、今ではそれがひどく情けない。
手を引っ込めようと力を入れたが、アーウェスがさらに強い力で指を引き寄せた。
そしてそのまま、エルオーシュの指に自分の唇をつける。
エルオーシュは思いがけないことに硬直してしまった。体温がぐんぐん上がるのが自分でもわかった。どうしよう。どうしよう‥
「アーウェス‥‥」
「嫌だといっても無駄だ。お前は俺に従うしかない」
戸惑いのあまり泣きそうになった。たまらなく恥ずかしく感じた。
それとは反対に、まだ触れて欲しいという感情が浮き上がり、そんな自分に驚き否定する。
ようやく指が解放されたと思った時、エルオーシュの唇に、アーウェスの唇がくっついた。
すぐに離れ、また重ねられる。何度も角度を変えて、唇をむさぼられると、男の手が頬に触れた。優しく髪を撫で、肩を引き寄せられる。
息をつく間もなく、絡み合う熱い吐息に、頭がのぼせ上がっていった。
唇が触れ合うのは何度目だろうか。
数えきれないほどだというのに、エルオーシュは初めての口付けのようにときめいていた。
相変わらず無遠慮に衣服の下に忍び込む手には、びくりと体を震わせてしまう。
体を辿る指先のひとつひとつに、なぜだか泣きそうなほどの愛しさを感じた。
口づけを交しながらも、ゆっくりと寝台に横たえられ、さらに胸が早鐘を打つ。
その音が相手にも聞こえないか、不安になる。
口づけも、自分を抱きしめる温もりも、こんなにも愛しい。
恋‥‥‥なのだろうか。
唇が不意に離れた。
まだやめないで、とアーウェスを見上げる。
その顔が彼にどう映ったかは、わからない。
すぐに、そう思ってしまったことに自分で驚き、目をそらす。
アーウェスはいつも、体を触れ合わせるときは優しい。だから誤解しそうになる。
きっと他の女性達にもそうだろう。
アーウェスは自分のことを愛しいと思ってくれていると、誤解してしまう。
夢を見られるのはこの時間だけ。
かすかな愛情を感じとれるのはこの時間だけ。
分かっているのに、胸でくすぶるこの熱い感情が何なのか理解した今、足りないと感じてしまう。
もっと、アーウェスの心を感じていたいと望んでしまう。
しかし、頭の中で声が響いた。
『愛情を求める女は嫌いだ』
そう言ったアーウェスは、エルオーシュが愛情を求めたら、離れていってしまうのだろうか。
今、自分ばかり相手にするのは、エルオーシュが心を望まないと思っているからだ。
物わかりの良い女でないと、アーウェスは離れていってしまう。
だから、決して心を望んではいけないのだ。
それは、俺のために生きろ、と言われたときから決まっていたこと。
必死で自分に言い聞かせる。心を求めてはいけないと。
涙が一筋ながれ落ちた。
たった一筋だけだったというのに、それに気づいたアーウェスは、唇で涙の後を辿った。
甘やかすように、慰めるように髪を何度も撫でてくれる。
優しくしないで、と泣きたくてたまらなくなった。
もっと、もっと、心を求めてしまう。
アーウェスの嫌いな女になってしまうのに。
でも‥この時間だけは。今だけは。
心を求めてもいいだろうか。
切実な気持ちで、エルオーシュはおとされた口づけを受け止めた。
*****
夜半にエルオーシュの体から離れたアーウェスは、服を着ないまますぐに寝息をたてはじめた。
珍しいと思いながら目を閉じる。
いつもは先にエルオーシュが寝てしまうことが多いのだ。
頭はぼんやりと重いのに、胸がざわついている。しばらくじっとしていても、エルオーシュに眠りが訪れることはない。
『あのね、エルオーシュ様。‥ローネリアはね…』
昼間のアナソフィアとの会話をふいに思い出す。
エルオーシュの悩みを察したように、歯切れ悪くアナソフィアが語ったことを。
『彼女は、ヴェルヌ家…、宰相のロベルト殿の家門のご令嬢なのだけれど‥。前は王太后…イザイラ様の支持者だった。でも、家門の娘と王家の婚姻を条件に、カルロスの支持をする事になったのよ』
ヴェルヌ家がカルロス派となったことで、カルロスが思いのままに政権を握る事が出来た、とアナソフィアは語っていた。
『本来は、カルロスの側室となる事をヴェルヌ家は望んでいたのでしょうけど、結局いろいろあってアーウェスが相手になったわ。きっとローネリアがそう望んだのね。私の生家である侯爵家が睨みを効かせていたせいもあるのだけれど』
アナソフィアに余計な心労をかけたくない、王妃という権力を脅かすものは排除する、と彼女の父親が抗議していたと言う。
『カルロスはヴェルヌ家の後ろ盾がなくともなんとかする、と王家との婚姻を拒否していたのだけど…。押し切られてしまったのね。アーウェスは、いつもこんなふう…、カルロスが困っていたら、結局は…』
淡々と語っていたアナソフィアだったが、語尾は声が細くなりエルオーシュにはよく聞き取れなかった。
政治的な思惑のある婚姻だったと言う。アナソフィアが語る事情はわかったが、アーウェスとローネリア、二人の間がそのように淡泊な関係だとは思わない。
ローネリアがアーウェスを見つめる視線には、エルオーシュには計り知れない感情が見える。
『エルオーシュ様、私とカルロスは常にあなたの味方をすると言うことを忘れないでちょうだい。ローネリアは立場というものがわかっていないわ。王家の序列というものを。エルオーシュ様が正妃にお間違いないのだから、失礼な態度には胸を張って抗議なさって』
カルロスはヴェルヌ家がこれ以上力を持つことを嫌がっているらしい。政治的なバランスと言っていた。きっと国王夫妻は、エルオーシュが家門を牽制することを望んでいる。
戦え、と言うが、己にそのような力も、価値もあるのかは疑問だ。
様々な思惑に、はあ‥とひとつ深いため息をついてしまう。
すっかり目が冴えてしまったと、起き上がると、窓からさし込んだ月明かりが、影をつくり、寝台の上に窓枠の形をそのまま黒く描いていた。
静かな夜だな、と思いながら隣を見やり、穏やかな寝息を立てている男を見下ろす。
伏せられた長いまつ毛、整った鼻梁。
エルオーシュが見てきた男性というものとまるで違う。
もっと男というものはどこか骨ばっていて、荒々しくて、ごつごつしているのではと、まじまじとその繊細につくられた顔立ちを眺める。
寝ていると、さらに女性的な顔になるのだな、と感心しながら肩から滑り落ちた毛布をかけなおしてあげようと手を伸ばす。
そのとき剥き出しの左手腕につけられた傷が目に入った。
あの日、アーウェスが自分で手当てをしたという傷。
治りかけているとはいえ痛々しく、エルオーシュは触れようと手を伸ばし、やっぱりやめた。
しかし、その手をいきなり捕まれた。
起きたのかとびっくりしてアーウェスを見る。
けれど、相変わらず目は閉じたままだった。
強く引っ張られ、あっという間に腕の中に引き込まれてしまった。
苦しいくらいに抱きしめられて、エルオーシュは動揺する。寝ぼけているのか、と声をあげないまま少し抵抗した。
「‥ソフィー」
誰のことだ。呟かれた名は、知らない女の名前。
わたしと、間違えた?間違えて、抱き締めた?
アーウェスは力をゆるめることもなく、ずっとエルオーシュを抱きしめている。
抵抗する気も起きないほど絶望したエルオーシュは、ただ呆然としながら他の女を想うアーウェスの腕の温もりを感じていた。




