ep1 花嫁の憂鬱
最悪の気分だ。
長い間、馬車に体を揺すられ、エルオーシュは心身ともに疲弊していた。
いつもならば、髪が乱れるのも気にせず馬で快速で駆けていくのに。と思えば、たらたらと進む馬の歩みにどうしても苛立ちを感じてしまう。すでに我慢の限界は超えていた。
しかも、なんだ。この服は。
ヒラヒラふわふわしたとした生地は頼りなさ過ぎる。
いつもは動きやすい男物しか着ないため、花嫁衣装はひどく息苦しかった。
馬車の小窓からのぞく街の景色は、祖国より遙かに富んでいる。圧倒的な差に、エルオーシュはますます苛立ちを感じた。いや、正確には感じているのは不安だ。臆している己自身に苛立つのだ。
目的地に着いたらしく、馬の足並みがゆるりと止まる。
あたりがやけに騒がしい。
祖国から付いてきた従者が、やけに重々しく馬車の扉を開けた。
彼らとも、今日でお別れだ。きっと二度と会うことはないだろう。
ふう、と一息つき、すべての感情を遮断する。従者たちの厳かな空気感に合わせ、ゆっくりとした動作で馬車から降りると、騒がしさが増した。国民が、群がっているのだ。
エルオーシュが、守ってゆきたいと思っていた民ではなない。この国の、民たちだ。
そうだというのに、皆が明るい表情を浮かべ、異国の花嫁に注目をしている。
なぜだ。どうしてこんなに歓迎してくれるのだろう。
エルオーシュはあまりの歓声に呆然とした。
「我が国へようこそ。姫君」
はたと我に返り、目の前に現れた物腰の柔らかな青年に顔を向ける。目が合うと、男は優雅に微笑んだ。
栗色の髪が風に揺れている。おそらく三十歳前後の青年は、穏やかな空気を纏いながらも、どこか威厳を感じさせる男だった。
人に緊張を覚えさせるような堂々とした佇まいに反し、人懐っこい表情でエルオーシュに気安げな微笑みを向ける。
「貴女がベルリオール国の花嫁となる、アルライド国第四王女で間違いはないな?」
「はい」
もしかすると、この男が結婚相手の王弟殿下だろうか。温厚そうな性格が滲んだ瞳を、まじまじと見つめてしまう。
ベルリオールの王弟といえば、大陸一と呼ばれるほどの剣の腕前だと聞く。
将軍として指揮した戦は負け知らず。彼の名を聞いただけで、敵は恐れをなし怯む‥、大陸にそのような噂を轟かす、戦上手な猛者だと聞いている。
しかし、目の前の青年はとてもじゃないが、大国の英雄には見えなかった。
「遠いところより無事に輿入れされたことを、嬉しく思う。私の名はカルロス・ラース・イブン=ベルリス。今日より、姫君の義兄となる」
カルロス。
御年二十八歳のベルリオールの国王だ。
結婚相手ではないが、一気に緊張を覚える。
カルロスはエルオーシュの手をとり、身をかがめると、そこにそっと口付けを落とした。
父の声が蘇る。
決して、いつもの自分を出さないように。
王女らしく振る舞うように。
つまり、猫を被れと言うことだ。
「国王陛下。エルオーシュと申します。歓迎して頂き、光栄に思います。両国の良き橋渡しとなれるよう、尽力いたします」
頭をさげ、ふわりと広がる純白の花嫁衣裳の裾をつまみ、膝をまげる。しとやかで、従順な仕草にカルロスは慈愛に満ちた笑顔を浮かべてくれた。
‥やればできるものだな。
王女らしく、と何度も練習をさせられた礼はエルオーシュの難点を隠してくれたようだ。
当然のように差し出された国王の手を、遠慮がちにとる。ゆっくりとした足並みに合わせ、城内へと足を踏み入れるまで、エルオーシュは周囲の視線を慎重に探っていた。
己のすべてが、祖国の印象となる。侮られるか、尊重されるか。すべてが、己にかかっている。
そんな心情など知らない大国の民は、エルオーシュが見えなくなっても歓声をあげていた。
「王女殿。これより婚礼の儀となるが、その前にひとつ、謝らねばならないことがある」
城内に招き入れられたとたん、カルロスは申し訳なさそうに口を開いた。
「それは、どのような事でしょうか」
城の建築の素晴らしさに魅入っていたエルオーシュは、国王の様子に首をかしげた。
「実は‥‥我が弟が」
そこで国王はため息をもらしながら言葉を切った。
弟ということは、エルオーシュの結婚相手だ。
「陛下?」
「‥朝からつかまらないのだ」
つかまらない。
およそ王弟殿下にふさわしくない言葉だ。
まるで、罪人が逃げ出したような言い草だ。
「はい?」
意味がわからない。
「陛下!殿下をお連れしました」
息を切らしてやってきた衛士に、カルロスは安堵したように顔をあげた。
「何?ご苦労だったな」
その衛士の後に続き、気だるそうな足取りで男が入ってきた。
まさか‥
「アーウェス!今日はお前の花嫁が輿入れしてくる大事な日だと言っただろう」
アーウェス。
その名前に、エルオーシュは男を見つめた。
目があう。
鋭い黒い瞳、白い肌に映えるくせのない黒髪。
美しい男だ。そう思うと同時に、なぜか背筋がぞくりとした。
ひどく退屈そうな目をしていたからだろうか。
「申し訳ありません、兄上。すっかり忘れていました」
「嘘だろう」
「まさか」
とんでもない。とアーウェスは肩をすくませた。
アーウェスは、それだけ言うと呆然と立ちすくんでいたエルオーシュに歩み寄る。
王族の正装は着くずしたままで、大国の王弟の威厳などまったくない風体だ。
しかし、長身のためか不思議とだらしないという印象はなかった。
「名は?」
いきなりの無礼な問いかけにエルオーシュは唖然とした。
むっとエルオーシュは目の前の男を睨んでしまう。
「エルオーシュ・リージェ・アルライドと申します。殿下」
アーウェスは睨まれことなど、これっぽっちも気にしていない態度で、口のはしをつり上げるだけの笑みを浮かべた。
そして、エルオーシュの前で騎士のように跪く。
「アーウェス・ディーク・イブン=ベルリス。王女殿の夫となる男の名前です。どうぞよろしく」
アーウェスはエルオーシュの手をとると、挨拶にしてはやけに情熱的な口付けを手に落とす。それは、軽薄という印象をエルオーシュに植え付けた。
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『ベルリオールに嫁いでくれるな、エルオーシュ』
ベルリオールとの政略結婚という、祖国の念願だった同盟。その担い手として、エルオーシュはまさか自分が選ばれるとは微塵にも思ってはいなかった。
なにしろ、エルオーシュの王女としての身分は、末席に近い。母親が落ちぶれた貴族の生まれというのもあるが、父の寵愛を一身に受け、一時のあいだ栄華を極めた母は、もうすでに亡くなっている。
後ろ楯のない、忘れ去られた王女。
そう囁かれ、エルオーシュは生きてきた。
婚姻が決まったときも、「やっかいばらい」と噂をたてられたほどだった。
『本当に私ですか?』
父に呼ばれ、エルオーシュはまっさきにそう聞いた。
噂にあるように、父に疎まれているとは思ってはいなかった。
なにしろ、父はエルオーシュが幼いころから、末席の王女にはもったいないほど、寵愛してくれたからだ。どの王子よりも武勇があると、喜んでくれた。
初めて馬に乗れたときも、抱き上げて褒めてくれた。
初めての剣術大会で、貴族の息子に勝ったときも膝にのせて頭を撫でてくれた。
ダンスも、刺繍も、王女としての教育すべてがまったくできなくとも、怒ったことなどなかった。むしろ、お前はおもしろい娘だ、と喜んでくれた。
いつしかエルオーシュは、父の側に立ち、学ばせてくれた剣術と武術で、父の片腕になりたい、と夢見るようになった。いつか、役に立ちたいと。
こんな自分に、婚姻という役目は、一番向いていないと思っていたというのに。
『お前しかいない、エルオーシュ。わしの願いを叶えられるのはお前だけなのだ』
懇願するように、エルオーシュの手を握り、父はまっすぐにこちらを見つめた。
『お前ほど、信用できる娘など他にはいないのだ。この父のために、ひたむきに稽古に励んでいた娘が他にいようか。かわいい、エルオーシュ。国のため、父のために、必ずや寵愛を得て、一刻も早くベルリオールの世継ぎを儲けてくれるな?』
こんな自分を、必要としてくれる。
大事な役目に、自分を選んでくれた。
この人のためなら、どんなことでもできる。
剣術で父の役に立つ、と夢見ていたが、 違う守り方もあるのだ。
「‥かならず、お役に立ってみせます」
「王女さま?緊張なさっていますか?」
案内された客間で、エルオーシュの花嫁衣装を整えていた女官が、怪訝そうに首を傾げた。
心の中での決心が、無意識に漏れていたらしいと察したエルオーシュは、慌てて口元を押さえた。
「ええ、少し‥」
「無理もありません。たった今ご到着されたばかりだというのに、すぐに式典ですもの」
そうなのだ。
これから、盛大な結婚式が行われるという。
エルオーシュは、ため息をぐっとこらえた。
このきついドレスとも、しばらく付き合わなくてはならないのか。
大聖堂の巨大なステンドグラスに、やわい光が差し込み、純白のドレスを照らす。
天井に描かれる女神たちは、優しげに微笑み、まるで今日という日を祝福しているようだった。
ベルリオールの長く続く歴史を表したような、重厚で深い音色を奏でる鐘が空気を振るわせ、同時に爽やかな風が、舞い込んだ。
その中で、白い花弁が、いくつもまいおちる。
ひらひら、ゆっくりと。
大聖堂に集う大勢のものたちは、思わず感嘆のため息をもらした。
赤い絨毯におちる様は、幻想的で美しい。
‥と皆は思うだろう。
ごくり。
知らず、喉がなる。
しかし、主役であるにもかかわらず、エルオーシュには戦場に続く、血にまみれた道にしかみえなかった。
響き渡る鐘の音も、楽士たちの優雅な演奏も、まるで開戦の合図にしか聞こえないのだ。
なにしろ、エルオーシュにとって結婚というのは、想像すらしたことのない、未知の出来事だ。
普通の少女たちのように結婚を夢見たことなど、ただの一度もないどころか、少しの恐怖すら感じる。
前を見据えると、神官の傍らには、これからのエルオーシュの人生をかける相手が待ち構えている。
聖堂にあるいくつもの男神、まして女神の彫刻も恥じらうような、美しい容貌をした男を、エルオーシュは恐る恐る見つめた。
ベルリオールの王弟、アーウェス殿下。
わたしは、この男の妻となる。
そして、父上。わたしはかならず、あなたのお役に立ってみせる。
寵愛を得、早く男児をもうけてみせる。
エルオーシュは燃え上がる闘志を白いベールに隠し、相手を睨み据えた。
夫となる男は、エルオーシュのその闘志に気づいたそぶりはない。
ただ、艶やかな笑みをつくりゆっくりと、手を差しのべる。
エルオーシュも、なんとか微笑み返し、慎重に手を重ねた。
そのまま男に導かれ、二人で神官に向き合う。これから、神の前で誓うのだ。
これは、エルオーシュが必ず父の願いを叶える、という誓い。
神官の言う愛の誓いなどでは、決してない。
「‥‥汝、この女を生涯の妻とすることを誓いますか」
「誓います」
さらりとした、低い響きにエルオーシュはなぜだかあっけにとられた。
こうもあっさりと相手に誓われると、さすがに肩の力が抜ける。
結婚に前向きなのだろうか。
だとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「‥汝、この男を生涯の夫とすることを誓いますか」
「誓います」
気持ちが軽くなったエルオーシュは、たからかにそう誓った。
初夜というものは、やけに女官たちが張り切るものらしい。
エルオーシュの体を何時間もかけて磨き、着るものをあれやこれやと何着も並べていた。
やっと終わり、広い空間の中央に寝台が置かれた寝室にひとり置かれた。ここで夫を待てばいいらしい。
怖くないと言えば、嘘になる。
だけど、父の命だ。
私はこのためにここにいる。
父から下された命令ならば、内容はどうであれ完璧にこなしたいと思っている。これが、父上と国のためになるならなんだってする。
『国王は体が弱いためか子がいない。だからそなたが王弟の王子を早く産むのだ』
なんだってやる。
何人だって産んでやる、とエルオーシュは覚悟を決めていた。
膝においた手を握りしめ、寝室のドアをじっと睨み据える。
来るなら、早くくればいいのに。そう思うほど、なかなか夫はやってこなかった。
コンコン
ノックの音に体がびくりと震えた。
やっと来たか。
しかし、予想がはずれ、入ってきたのは女官だった。
「申し訳ありません、王女様。殿下は婚儀で疲れたようで‥あの、王女さまにも長旅の疲れを癒してほしいと仰せになっていました。」
「つまり、殿下はこないと‥?」
「は、はい」
なぜか女官が申し訳なさそうに、頭をさげた。
「わかりました。お下がりなさい。世話をしてくれてありがとう」
エルオーシュは知らずに声根が低くなっていた。
女官が去ったあと、怒りがふつふつと沸いてくる。なんて人だろう。
これは同盟のための政略結婚だ。
婚儀の夜に花嫁を放っておくなんて、故国であるアルライド王国を軽んじているとしか思えない。
緊張して待っていたのがバカみたいだ、とドアから視線をそらす。
窓を見ると、ふてくされた自分がうつっていた。
アーウェスはエルオーシュを気に入らなかったから、来なかったのかもしれない。
空気を含みやすく、もつれがちなくせ毛の金髪。気の強そうな緑の瞳。
自分が美しい部類なのか、違うのかさっぱりわからない。
自分の容姿なんて今まで気にしたことはなかった。
たぶん、美しいと言われたことなどないから、そうではない部類なのだろう。
しかし、アーウェスに気に入られなきゃ困る。
その夫の顔をふと思い出す。端正な顔だった。
先ほどの女官も並以上に美しい女だったが、アーウェスの前ではただの普通の女にしか見えないだろう。
それが腹立たしい。
自分なら、ただの小娘以下に見えるかもしれない。
窓を見つめて、しばし悩む。
しかし、なんであれエルオーシュは命令を遂行しなければならないのだ。
ぜったい、殿下に気に入ってもらわなくては。
エルオーシュは布団をかぶり、怒りに枕を握りしめた。