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ベルリオールの花嫁  作者:
第二章
17/48

ep16 傷跡と劣情

 



「エルオーシュさま、この焼き菓子は最近の私のお気に入りでとてもおいしいのよ。あとこれも、このケーキも」


 太陽の日差しが柔らかく降りそそぐ昼下がり、エルオーシュの前に次々とお菓子を並べているのは、王妃のアナソフィアだった。


 彼女が息抜きになるだろうと誘ってくれたお茶会だったが、エルオーシュにとってはどんなことよりも緊張する催し物だ。


「どれも美味しそうですね、王妃さま。でも、すでにたくさん頂いてしまって、あの‥もう、お腹がいっぱいに‥」 


「まあ、そうなの?こんな美味しいのに」


 幸せそうにケーキを頬張るアナソフィアの前には、たくさんのケーキがあった。こんなに細身なのに、どこに入るのだろう。どうやら、彼女はずいぶんと甘党らしい。


 唖然としながらその様子を見つめていたエルオーシュは、それだけで胃もたれを起こしそうだった。

 飾らないアナソフィアと会話するのは、気楽で楽しい。しかし、二人きりで話していると、アナソフィアは他の友人に呼ばれ、席を外してしまった。庭園に咲く、王妃のために改良された花について、皆が興味深げにアナソフィアの言葉に耳を傾けている。王が王妃のために贈った花らしい。


 ひとりになったエルオーシュは、女性達の軽やかな笑い声と、小鳥のさえずりを聞きながら目を閉じた。こんなふうに過ごすのも悪くないな、と思っていると、背後に人の気配が感じた。


 振り向くと、そこには美しい貴婦人がいた。たくさんの貴婦人の中にいても、際立つほどの美貌を持つ彼女は、エルオーシュに近づき、にこりと微笑んだ。


「王女さま。お暇なら、わたくしとお話ししてくださらない?」


 ひどく動揺していたエルオーシュは、すぐには返事ができなかった。なにしろその美貌の女性は、ローネリアだったからだ。


「え?‥‥あ、どうぞ‥」


 動揺を隠せないエルオーシュに、余裕の笑みを向けたローネリアは、なめかましく女らしい仕草で、テーブルの向かいにゆっくりと腰を下ろした。


「王女さま。わたくしたちも、よろしいかしら」


 気がつくと、背後には数人の着飾った貴婦人が並んでいた。

 ローネリアの友人だと言う。


 エルオーシュが頷くと、彼女達は喜声をあげながら席につく。

 囲まれたエルオーシュは、ひとりで敵陣にいるような妙な孤独感と恐怖を味わっていた。 


「噂通り、可愛らしい姫君ですのね」


「殿下に愛されるのも納得しますわ」


 貴婦人達は可愛らしく微笑みながら、口々に話しはじめた。

 アーウェスに愛される、という言葉に気まずくなり、ローネリアを窺うが、彼女は「本当ね」と微笑んでいるだけだった。

 なぜかその微笑みは寒々としていて、エルオーシュの背中に悪寒が走る。


「噂も、いろいろ聞いておりますのよ」


「う、噂‥?」 


 なんだか、怖い。

 ふふ、とローネリアが赤い唇を歪めた。


「殿下は、王女さまをとても気に入っているのね。同じ部屋でお過ごしなのでしょう?どうやってあの殿下のお心を溶かしたのか、ぜひ知りたいわ」


 エルオーシュは今度こそ逃げたしたくなった。

 聞いてくるのは、アーウェスの側妃なのだ。

 この気まずさに、耐えられそうもないと思った。


「溶かしてなど‥‥」


 私はただのペットみたいなものだ。


「ふふ、やはり私たちには教えてくれないわよね。色仕掛けの仕方なんて」


 他の姫君たちも、嘲るような笑い声をたてる。

 まるで、売女を笑うようだった。


「それとも泣き落としかしら?国を失った哀れなお姫様だもの」


「でも、怖いわ。そんな顔をして、殿下を裏切るかも。だってあの国の、‥ねぇ」


 いたたまれなくなったエルオーシュは、うつむくことしかできなかった。


「まあ!王女さま、そのお手はどうなされたのです?」


 隣にいた姫君が、ティーカップを握るエルオーシュの手を見て絶句していた。

 エルオーシュも自分の手を見るが、別に変わったところなどなにもない。

 しかし、エルオーシュの手に注目した姫君たちは次々に驚きの声をあげた。


「まあ‥傷だらけ‥。まるで平民のような‥」


 汚いものでも見るかのように、姫君たちは眉をひそめる。

 確かに傷だらけだが、エルオーシュにとっては普通のことだった。子供の頃からこうなのだ。

 しかし、周囲の反応と他の貴婦人たちの手をあらためて目に映し、恥ずかしくなって手を引っ込めた。

 大切にされて育った証の、ふっくらとした綺麗な手。爪の先まで磨かれている。

 エルオーシュの手は、木登りでひっかいた傷、剣の握り過ぎでマメが潰れた痕や、剣の練習でつけた刀傷が腕にも広がっているのだ。


「よくそんな手で、恥ずかしげもなく殿下のお相手をなさっておいでね。さすが裏切った国アルライド。王女の育て方もきっと教養も品もなかった野蛮なものだったのでしょう」


 ローネリアは悪意を隠さず、軽蔑の眼差しをエルオーシュに向けた。

 ローネリアの手は、姫君の中でもひときわ美しい。

 くすくす、と他の姫君たちの笑い声が聞こえた。


 ―さすがは、ベルリオールを裏切った蛮国の王女


 ――城で畑仕事でもしていたのかしら


 コソコソと影で囁きあう。

 悪意と、嘲り、嫉妬。

 穏やかな庭に、うごめく感情。

 エルオーシュはテーブルの下で、傷だらけの手をぎゅっと握りしめた。





 *******





 ‥‥ここにも傷‥。


 ため息をつきながら、エルオーシュは腕に走る傷を確かめた。

 浴槽に浸かりながら、昼間のことを思い出したからだ。


 ここにも、と見つけたのは左の太ももと、右の足首だ。騎馬の模擬戦で、無茶をして落馬した時にできた昔の傷痕だった。

 こんな自分が、綺麗な体でいられるわけがない。


 再度ため息をつきながら、夜着を身に付けて浴室を出る。アーウェスの居住にある浴室は広く、これがお金持ちの大国かと絶句したほどだった。

 同じ王族だというのに、この差はなんなのだろう。弱小国の王女、と昼間にも陰口を叩かれた意味をこのような事で知る。馬鹿にされるのも当然かと、どこか腑に落ちてしまうのだ。


 髪を拭きながら寝室に戻ると、珍しくアーウェスが先に寝室にいた。

 いつもはもっと帰りが遅いのだ。

 緩くローブを羽織り、寝台の上で書類を眺めている。アーウェスはこの頃、書類とよく睨み合っていた。

 はだけたローブからのぞく肌は妖艶で、思わずどきりとしてしまう。そんな自分に戸惑ってしまい声をかけるタイミングを忘れた。


「ずいぶん長い風呂だったな」


 アーウェスがこちらを見もせずに、口を開いた。

 エルオーシュが寝室に戻ってきたことには気付いていたらしい。


「そ、そうかな‥」


 体のどこに傷があるか数えていたから、とは言えない。

 返事をしたとたん、昼間の会話をまた思い出してしまった。

 アーウェスは手の汚い女をどう思っているのだろう。 


「アーウェス、あの」


 聞いてどうするんだ、と思った。汚い、と言われても傷痕は消すことは出来ない。それでも男がどんな反応をするのかは、とてつもなく気になった。

 様子のおかしいエルオーシュを一瞥した彼は、枕元に書類を置いた後には身を起こし、なぜか寝台のはしに座った。

 エルオーシュと向き合うためだろう。そしてくすりと笑い、かるく首をかしげた。


「なにかご用でも?妃殿下」


「ええと‥‥」


 直接聞くのも勇気がいる。言おうか言わないかそわそわしていると、腕を引かれた。

 腰までも引き寄せられ、喉に噛みつくように熱い唇が触れた。


「ちょ、ちょっと待って‥!」


 抵抗するエルオーシュを無視し、胸元に口付けを落としてゆく。


『よくそんな手で、恥ずかしげもなく殿下のお相手をなさっておいでね』


 ローネリアの悪意にみちた瞳を思い出す。

 アーウェスも、エルオーシュの傷に気付いたら、あのような瞳をむけるのだろうか。

 軽蔑と、嘲りの瞳を。


「誘うのが悪いって言っただろう」 


 耳元で囁く声に、身がすくむ。

 いつ誘ったんだ、と小さな怒りが湧くが、服元の紐をほどいていく気配を感じたあとにはそれは焦りに変わった。


「いやだ‥!」


「嫌?おまえに拒む権利などない」


 さらに引き寄せられ、押し倒された。

 エルオーシュは必死に男の体の下からすり抜けて、追い詰められた子羊のようにはだけた胸元を隠して壁際で小さくなった。


「俺から逃げられると思っているのか」


 鼻で笑うアーウェスは、壁に手をついてエルオーシュを追い詰める。

 さらに小さくなるエルオーシュを見下ろす彼の瞳と出会い、かっと顔が熱くなる。どこか楽しんでいるような気がするのは気のせいだろうか。


「今日は‥ちょっと」


「月の触りでもないくせに、何が今日はちょっと、だ」


「な!なんで違うってわかる」


 思いもかけない言葉は恥ずかし過ぎて、逃げ出したくなる衝動にかられる。

 男に、男まさりな自分の、ずっと劣等感のようなものを感じていた現象を言われると恥ずかしくて情けなくて、泣きたくなってくる。


「そうなったときは、侍女が教えてくれる」


 エルオーシュはもう、声も出せなかった。唇が空回り、パクパクと動く。

 アーウェスは何事もなかったように再びエルオーシュの服に手をかける。


「待てって言っただろう‥!」


「無理」


 もういくら抵抗しても無駄らしい。


「‥せ、せめて明かりを消してから‥」


 赤々と燃える灯りは、鮮明に部屋を照らしているような気がした。

 きっと真っ暗なら、傷も見えない。


「明かり?いつもは文句を言わないくせに」


「こんなに明るくない!」


「気のせいだ。意味がわからない」 


 面倒くさそうにそう言って、強引にエルオーシュの夜着の前を開こうとする男の様子に、エルオーシュはたまらずに声を上げた。


「は、裸を見られるのが恥ずかしいから、早く消して‥!」


「は?」


 アーウェスはぴたりと、動作を止める。エルオーシュはその間にはだけた胸元をかきあわせた。

 しかし、かきあわせた手が目立つと気づき、その手を後ろに引っ込める。

 だが、それを不思議に思ったアーウェスが強引に手を掴んだ。


「はなせ‥!」


 振り払おうとするが、当然敵わない。有無を言わせずに、手首を握られ手をひきよせられる。


「手も恥ずかしいのか、おまえは」


 馬鹿にしたように、ふっと笑う男をエルオーシュは睨んだ。


「‥わ、笑いごとじゃないんだ、私の手は‥」 


 傷だらけだから‥。

 しかも、先ほどまた傷を増やしてしまった。

 ナーナに刺繍を教えて貰ったときに、何度も針で手を刺してしまったのだ。


 手?とアーウェスはエルオーシュの手を掲げてまじまじと見る。

 いたたまれなくなり、エルオーシュはぎゅっと目をつむってうつむいた。取り(つくろ)いようがない。


「なんでこんなに傷だらけなんだ」


 ほら、やっぱり‥。

 胸にずきりと痛みが走る。やっぱり、軽蔑される。


「針で刺したのか?」


「え?」


 アーウェスの顔を見ると、呆れたように、けれど少しおかしそうに口元を緩めていた。


「おまえ、まさか縫い物がヘタなのを隠したくてこんなに大騒ぎしたとか言わないよな?」


 縫い物?


「‥そうじゃない。アーウェス、気にならないのか?」


 針で刺した傷より、もとからある傷のほうが目立つのに。まさか、気付いていないわけがない。


「気になる?」


「だって私の手、‥傷だらけだから。普通の男は綺麗な手をした女が好きだろう?」


 アーウェスの答えが怖く、顔を見ることができなかった。


「それに、体にも少し傷があるし‥。私は醜い体だろう?だから見られたくない」


 ぐい、と手を引き寄せられた。

 そこに唇を押し付けられ、びっくりして顔をあげる。


「なにをいまさら」


 空いた手で、夜着をたくしあげようとまでする仕草にエルオーシュは抵抗した。 


「隠すな。もう全部知っている」 


 全部。

 その単語に卒倒しそうになった。

 全部。全部って。文字通り‥?

 赤くなるエルオーシュに見せつけるように、傷だらけの手に口付ける。傷のひとつひとつを辿るように。癒すように。指に、手の甲に、腕に。


 そして夜着も脱がせて、エルオーシュも知らなかった、消えかけた薄い傷痕にも唇を這わす。

 もちろん、足首にも、太ももにも、探る様子もなく、場所を最初から知っているように口付けた。

 さらりとエルオーシュの肌に落ちる黒髪がくすぐったく、身をよじる。


「‥っ。アーウェス‥」


 エルオーシュも知らない思いもよらないところに唇を這わされれば、体がすくんだ。

 アーウェスは、傷痕なんて気にしていないのかもしれないと、鈍いエルオーシュはようやく気づきはじめていた。


 優しく傷痕を辿る唇に、体が熱くなる。

 傷痕が癒されていくような心地に、目の奥がつんとした。


 しかし、背中にまわった手が、なぜか父に切られた傷を撫で、エルオーシュはまた怖くなった。

 この傷痕は、自分に価値がない証。父に愛されない証。醜い痕。


 体を震わせるエルオーシュに気づいたのか、アーウェスはそっと体を抱きしめてくる。

 そのままの自分を受け入れてくれるのだろうか、と心が震えた。


 醜い傷痕も、価値のないところも、エルオーシュのちっとも女らしくないところも、アーウェスは受け入れてくれているのだろうか。


 身のこなしも容貌も美しいあの姫君達に囲まれれば、みすぼらしい小娘になりさがる自分。さらにローネリアと引き比べると、エルオーシュはますますちっぽけな存在になるのだ。


 そんな貧相な自分でも、アーウェスは受け入れくれるのだろうか。


 気がつけば、エルオーシュからアーウェスの首に無意識にすがりついていた。冷たく引きはがされると思っていたのに、アーウェスはかすかに笑い、エルオーシュの頭をやわらかく抱きしめた。子ども扱いされているようだ。まるで、泣いている子どもをあやすような。

 そこに傷痕なんてないというのに、こめかみと瞼に優しく唇を這わす。

 そんなアーウェスの背に、エルオーシュはまた無意識に腕を伸ばしていた。


 距離を間違えてはいけない。

 傷ついてしまう。

 頭の中でそんな警告がよぎったが、今は何も考えられなかった。 







 ******






 とっくに軟禁は解けてはいたが、アーウェスになぜか外出を禁止されていたエルオーシュは、今日この日、ようやく散歩の許しをもらえた。ひとりで気ままに庭園のやわらかな風を楽しむ。やはり外は気分が良くなる。


「あら、王女さまではなくて?」 


 声に振り向くと、そこにはローネリアがいた。

 嫌な予感がする、と彼女の微笑みを見つめながら直感する。また傷つくと。

 しかし、その不安を心の中に押し込み、エルオーシュも微笑みを浮かべながら挨拶を口にした。


「日傘も差さずにおられると、お肌を痛めますわよ。せっかく美しい肌をお持ちなのだから、気を付けられたほうがよろしいわ」


「‥そのようなこと、初めて言われました。お気遣い、ありがとうございます、ローネリア様」


「初めて?では、最近ますます輝かしいほどに美しくなったのでしょう。殿下に夜通し、愛されているからかしら」


「あ、愛‥‥?」


 赤くなってうろたえるエルオーシュに、ローネリアは唇を歪めた。


 隠そうとしない憎悪をその瞳に見て、背筋が凍る。

 誰かにこのような激しい憎悪を向けられたことのないエルオーシュは、身がすくんだ。


「でもね、それもいつまで続くかしらね」


 どくん、と心臓が波打った。

 エルオーシュが薄々勘付いていたことだったからだ。


「王女さまがお可哀想だから言っているのよ。アーウェスが優しいからって誤解しないで。あの人、寝室の中じゃ、誰にでもやさしいのよ」


 まるで、アーウェスの何もかもを知っているような口ぶりだ。

 いや、実際そうなのだろう。


「あら、言葉も返さないのね。見かけどおりの気の弱いお方」


 ふふ、と口元に手をあてて笑うしぐさはエルオーシュにはない、成熟した女性らしさがあった。


「安心したわ。こんなに頼りなくか弱いお方なら、すぐ正妃の座は私のものになるもの。あなたには重荷だわ。早く手放したほうが身のためよ」


「正妃‥?」


「そうよ。もうすぐね。すでに決まっているもの」


 驚きに目を見張るエルオーシュに、ローネリアは楽しそうに笑った。

 嫌な予感は確信に変わり、エルオーシュの心を襲う。


「あなたは、たくさんいた殿下の気まぐれの女に過ぎないの」


 あの傷をたどる唇も、優しく抱きよせる腕も、一時の夢。自分だけに向けられたものではない。

 そんなことは知っている。


「殿下も、殿下の愛も、すぐ私のところに戻ってくるわ」


 それまでの虚しい時を過ごしてちょうだい。

 そのローネリアの声は、やけに遠く聞こえた。


 その静けさの中で、かすかなざわめきが耳に届く。エルオーシュの心の声ではない。確かに、人々の喧噪が聞こえた気がした。しばらくして、城が騒がしくなっていくことに気づく。


「何事なの?」


 ローネリアが慌ただしく走る衛士に、不快そうに聞いた。


「陛下が‥!」


 お倒れになりました!


 ローネリアの顔が、凍りついた。

 エルオーシュも呆然と立ち尽くした。


 この国王病臥の一報に、ベルリオールの王城が揺れ動くことになるとは、まだエルオーシュには予想もしていなかった。




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