ep15 正妃と妾妃②
いつもは練武場にいるか、そうでなければ女に誘われて城にいないはずの王弟殿下の日常が、しばらく城を離れているうちに、様変わりしていた。
それを知ったローネリアは戸惑っていた。
なにしろ、この頃の王弟殿下の一日の大半は執務だったからだ。
あれほど嫌っていた政務だというのに、いったい何が起こったというのか。
「お待ち下さい。殿下」
ローネリアは回廊を歩くアーウェスを呼び止めた。
「ローネリア」
鬱陶しそうにこちらを見つめてくるが、ローネリアはいっこうにかまわなかった。いつもの事だからだ。そんな顔をしてても、誘えば情を交わす事もある。この男は自分を無視することは出来ない。
しかし、城に帰ってきてどのくらいの日数が過ぎただろう。
久しぶりに会った夫は、一度もローネリアを訪ねることはない。
しかも、小国からきた王女を自分の部屋に囲っているというのだから、当然ローネリアの心中は穏やかではなかった。
「冷たいのね。わたくしも殿下の妻よ」
「優しくしたことがあったか?」
おかしそうに笑い、冷たく見下ろされるが、それはいつものことだ。
「ふふ、あるわ。あなたが覚えていなくても。もう三年も前からそばにいるのよ」
上目使いでアーウェスを見つめながら、ローネリアは思い出していた。
三年前、ローネリアは十八歳になったばかりだった。
宰相である叔父の権力にすがってでも手に入れたいものがあった。見目麗しく、誰もが羨む王弟殿下の正妃の座だ。
妃の立場は手に入れた。王族であるからには、婚姻は義務だ。アーウェスが嫌がっていても、その運命からは逃れられない。叔父の権力を使い、強引に妃の座におさまったローネリアを、アーウェスが面倒に思っていることは知っていた。
いや、ローネリアだけではなく、この男は女に執着されることをことさら嫌う。
そのため、妃となった女はローネリアしかいない。アーウェスの唯一の妃だ。いずれ、この立場は盤石なものになるだろう。
しかし、いつかと願っていたその野望は、アルライドとの同盟が決まったときに奪われたのだ。
いきなり現れたあの王女によって。
かすかにローネリアの瞳に火がともる。
「‥知ってる?国を亡くした王女さまは正妃にふさわしくないからって、私か、別の新しい女を正妃に据える話があるのよ。叔父上が言っていたわ」
アーウェスは目を細め、無言でローネリアを見下ろしている。
「後ろ楯のなくなった王女さまを、可哀想に思って傍に置いているの?らしくはないわね。でも、そんなことをしていたら、この私のように愛情を求める面倒くさい女になるわよ。あなたの嫌いなね」
アーウェスの肩に、扇情的に手を這わせる。
そのとき、アーウェスの肩越しに、噂の王女が立ち尽くしながらこちらを見ているのに気づいた。
ああ…、お可哀想なご正妃様。裏切った国の王女。立場のない身の上のせいで、すがるのは夫しかいない哀れな妃。その寵愛も、いつまで続くか。
ローネリアは笑った。エルオーシュを見つめながら。
哀れな正妃は呆然としている。まだ青くささの残る小娘だ。あの子が、私に勝てるものか。気まぐれな寵愛は、そう長くは続かない。暗い感情を、胸から吐き出す。
ローネリアは背伸びをし、アーウェスに顔を近付けた。
唇が触れ合う。
はっと顔を強張らせたエルオーシュが、やがて逃げるように走って行くのを見たローネリアは、微笑みを浮かべながらアーウェスから離れる。
アーウェスは心底不快そうな顔をしていた。
「次はどんな思惑が?宰相閣下に何を言われている」
「久しぶりに会った私を、慰める気はないの?私を大人しくさせたいのなら、お抱きにくれば良いのに。いつも使う手でしょう?しばらく静かにして欲しいのでなくて?」
「誘いにのれば、お前を正妃にしたい者たちの思うつぼか?気分が悪いことこの上ない。そうでなければ、遊んでやるつもりだったがな」
本当につれない男。
ローネリアをひきはがし、遠ざかっていく長身の後ろ姿を、ため息とともにローネリアは見送った。
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大人しく部屋にいろ、と言ったアーウェスを待ちきれずに、探してしまったからいけないんだ、と飛びはねそうな心臓を押さえてエルオーシュは回廊を走った。
軟禁の命が解けたとカルロスからの報告を受け、浮かれてしまっていたのだ。部屋でじっと待つことなく、次は自由に会えるだろうと。兵士の訓練場に行けば、姿を見られるだろうと愚かな行動をしてしまった。
ローネリアとアーウェス。
口づけをしていた。
その場面が脳裏に浮かび、ずきりと胸に痛みが走った。
久しぶりに会った妃なのだから当然だ、と自分に言い聞かせる。
最初から側妃がいると知っていたのに、なぜこんなに動揺してしまうのか。自分の感情が不可解でしかたがない。
乱れた気持ちを抱えたまま、アーウェスの部屋へと戻る。
「エルオーシュさま?何かあったのですか?」
ナーナが驚いた様子で、部屋に突然駆け込んできたエルオーシュに声をかけた。
「‥なんでもないんだ」
ただ、殿下と側妃が口付けをしてただけ。
「あの‥御髪が乱れています」
沈みこんだエルオーシュの表情に、ナーナは戸惑っているようだった。
鏡の前に立つと、髪をぐちゃぐちゃに乱し、蒼白になっているひどい顔をした自分が映っている。
そんな自分に、ひどくがっかりする。
もう少し唇がぽってりと赤く、目が大きく、まつ毛ももっと長かったら女らしかったのに。
しかし、今さら自分の容姿に後悔してもどうにもならない。
アルライドにいたときには、自ら鏡をのぞいてため息をつくことなどなかったのに。男まさりだった自分は、どこに消えてしまったのだろう。
ふと、そんな自分に恐怖を覚えた。少しずつ変わっていく恐怖。どんどん自分は弱くなっていくようだ。
「ねえ、ナーナ。女らしくなるには、どうしたらいいんだろう」
エルオーシュの髪を直す侍女を、鏡越しに見上げた。
「女らしく、ですか?エルオーシュさまは充分お美しいではありませんか」
聞いた自分が愚かだったと反省する。侍女たちは主人の機嫌をとるのが仕事なのだ。はっきりと言ってくれるわけがない。
それにナーナはまだ少女だ。女らしさを聞くのには成熟していない。
「‥だったら、他の姫君たちは普段はどのようにして毎日を過ごしているのかな?」
エルオーシュがそう聞くのは、アルライドにいたころは一日中剣に励んだり、乗馬をして過ごしていたためだ。そのせいで、高貴な女性の過ごし方がわからないのだ。
嫁いでばかりの頃も、一日中アーウェスを追うことにしか時間を使っていない。
しかし、そんな必要もなくなった今、エルオーシュはどのように過ごしていいかわからなかった。
ただ一日中ぼんやりと過ごし、アーウェスを待ちわびることしかできないのだ。
「おそらく‥、爪を磨いたりお化粧をしたり、刺繍をして過ごしていらっしゃると思います」
‥‥全部苦手だ。
けれどアーウェスは、剣を使えるだけの、色気のない女を望んでいるわけはないだろう。やはり普通の女らしい女を望むに違いない。
「‥ナーナ、刺繍はできるか?」
「はい。母に教えてもらいました」
嬉しそうに語る彼女は、故郷の母を思い出しているのだろうか。
「今度‥‥私にも教えてくれないか?」
「ええ、喜んで!」
刺繍が得意なのか、ナーナはやる気満々に頷いた。
そのとき、扉が開いた。
アーウェスが帰ってきたのだ。
端正な顔を見ると、先ほど見た情景が頭をよぎり、思わず顔を背けた。
ナーナは慌てて挨拶をして出ていく。ふたりの邪魔をしてはいけないと、気をきかせているらしい。
「‥‥おかえり」
どうにか絞り出した声は震え、目を見られずにエルオーシュはうつむいた。
「ご機嫌ななめだな」
茶化すように言ったアーウェスに、いつもならむっとするのに、今は可愛げのない自分に落ち込まされた。アーウェスも、ローネリアと比べてうんざりしているかもしれない。
「せっかく軟禁がとけたのに、閉じこめていたから機嫌が悪いのか」
少し笑いの含んだ声音に、子供扱いされている、と苛立ちがつのった。
アーウェスではなく、自分に苛立つのだ。ローネリアの存在に心を乱されている自分に。彼女からしてみれば、エルオーシュの存在ははいきなり現れた邪魔者みたいなものだろう。アーウェスの気まぐれはエルオーシュの方なのに、動揺している自分が腹立たしい。
「遠乗りにでも連れて行ってやろうか」
心が弾む思ってもみない言葉に、エルオーシュは暗雲たる気持ちを一瞬忘れ、顔をあげてしまった。
「え?」
行きたい。すごく行きたい。
勢いのまま、行く!、と返事をしようとして、はたと気付いた。
普通の姫君たちは遠乗りなんて行かないのでは。
遠乗りに行ったら、ますますエルオーシュは『女』に遠ざかっていくような気がした。
そしてもうひとつ、素直に頷けない理由があった。一番胸につかえているのは祖国のことだ。父が幽閉されたというのに、エルオーシュだけが好きな事をして暮らすのは気が引けた。
「‥‥いかない」
断腸の思いで呟くと、アーウェスは怪訝そうに片眉をあげた。
「もしかして、まだ父親のことを気にしているのか」
エルオーシュが父のことを思うとき、決まって同じ顔をするのを、本人は気付かなかった。
そのため、アーウェスが父のことに触れたことに驚いて、顔をあげる。
「おまえは犬のようだな」
「犬?」
何を言われたのか、意味をはかりかねた。
困惑して眉をひそめると、苛立った表情を浮かべたアーウェスがそんなエルオーシュを見下ろしていた。
「一度飼われたら、おまえをどうでもよく思っていた主人にだって、殺されかけようとも忠義を尽くすのか」
そうだ。
その生き方しか知らない。それなのになぜ、責められるように言われているのか。
「‥‥そうやって教育されたから」
力なく吐き捨てる。
「もうそんな男、忘れればいい」
父親も、国も。
だから言っただろう、とアーウェスは囁くように続けた。
「俺だけのために生きればいいと」
扇情的な眼差しを注がれ、頬をなぞるように触れてくる手に恐怖を覚えた。
先ほど感じた、自分が少しずつ変わっていくような、弱くなってしまうような恐怖。
「アーウェスのためだけに‥?」
消え入りそうなエルオーシュの声に、そうだ、とアーウェスが耳元でささやく。
そのまま首筋に唇を押し付けられた。
その証のように、ひとつ赤い痕をつけられたのにエルオーシュは気付かなかった。
ただ、放心したようにアーウェスの肩越しに見える壁を見つめていた。
犬のようだ、とアーウェスは言った。
ならば、次の飼い主はアーウェスなのだろう。
昔の飼い主など忘れ、今の主人に尽くせ、ということなのだ。
ああ、本当に犬のようだ。
その言葉が一番似合うと自分で心底思う。そして、アーウェスにとって自分は犬程度の存在なのだろう。
自分の部屋で飼い、帰りを待ちわびている犬を可愛がる。
今の自分の置かれた立場に、ぴったりだと思った。
その的確すぎる表現の発見に、少し感動めいたものを感じながら、少し安心した。
自分の置かれた立場が、はっきりとわかったから。もう変に誤解しそうにはならない。
距離を間違ったりしないで、傷つかずにいられる。
心の中でそう思いながら、ふと気づく。
いったい何の距離だろう。何に、傷つくのだろうと。
自分は何を恐れているのだろう。胸の奥でうごめくこの痛みは何という感情なのか、まだエルオーシュにはわからなかった。




