ep13 蜜月
静かな夜だった。
時折、夜の鳥の鳴き声が、しんと静まりかえる闇夜に溶け込むようにこだましているだけだった。
エルオーシュは、毛布になげだされ、ぐったりと力を失った自分の腕をぼんやり見つめていた。
いつの間にか、室内の景色が浮かび上がるように見えきたことに気がつく。
おそらく、太陽がのぼり始めたのだろう。
規則正しい寝息が、背後から聞こえてきた。アーウェスは、まだ起きそうにない。
なぜ、このようにエルオーシュの隣で無防備に眠っているのかと、不思議に思う。一度は刃を向けた女の隣で。
しかし、そのようなことはどうでもいいと思った。なにも考えたくない。時間の流れるままに身を委ねる。
それでも、体は寒さを感じた。何も纏わぬ半身を、長く外気に晒していたせいだ。その事にようやく気がつき、乱れた毛布をかきあげる。ぶるりと悪寒に身を震わせ、体を丸める。少し、風邪をひいたのかもしれない。
くしゅん
エルオーシュは体を震わせてくしゃみをした。
一回では留まらず、立て続けにくしゃみをし、鼻をすする。
「ん‥」
傍らのアーウェスが身じろぎする。目が覚めたらしい。
エルオーシュがもう一度くしゃみをすると、けだるそうに起き出した。
アーウェスは何も着ていないらしく、上半身の、鍛えあげられた体を惜しげもなくさらしている。直視できずに顔だけではなく体ごと背けるが、後ろから伸びた腕に体を引き寄せられた。
後ろからすっぽりと抱き寄せられたエルオーシュは、ひどく動転しながら顔を赤くさせた。
しかし、アーウェスの目的は抱きよせることではなかったらしい。
アーウェスの手のひらが、荒々しくエルオーシュの額に触れた。
「‥‥熱はない。寒いのか?」
寝起きの声は少しかすれていて、妙に色っぽかった。そんなことを感じてしまった自分に、羞恥を覚える。
「へ、平気‥‥」
か細い声で答える自分が、自分ではないみたいだった。
体を抱き寄せるアーウェスの腕の力が、急に強まった。首の後ろに唇をくっつけられ、エルオーシュは硬直する。
太股を撫でる手に、昨夜のことを思い出し、体がかすかに震えた。
あんなに恥ずかしくて、あんなに痛い行為だったなんて知らなかった。
朝からふざけているつもりだろうかと思ったが、止める気配がちっともない。またあの行為をするつもりなのかと、エルオーシュは困惑した。
しかし、エルオーシュには拒めない。
『俺のためだけに生きればいい』
生きる価値のなくなったエルオーシュに、アーウェスは役目をくれたのだろうか。
アーウェスのために生きることが、私の生きる意味になったのなら、拒めば私に価値は無くなるのだろうか。
怖くなって身をまかせる。
なぜ、アーウェスは今になってこのようなことをするのだろう。
裏切り者の国の王女になった今になって。
『一番面倒くさいのは俺に愛情を求める女だ』
その言葉を唐突に思い出した。
面倒くさそうだから、エルオーシュには手を出さないと言っていた。
ああ、そうか。と、腑に落ちる。
後ろ楯となる国を失ったエルオーシュは、もうアーウェスの寵愛を望む価値もない。
愛情を望める立場ではないのだ。
だから、アーウェスはもう安心して手を出すのか、とエルオーシュは納得した。
すっきりしたような、しかし得体の知れない悲しみが胸に広がる。何を悲しがっているのかは、まだエルオーシュにはわからない。
ただ、虚しいと感じているということだけがわかる。
胸に空洞ができたような絶望感をもてあます。
私は、自分に触れてくるこの腕に、自分から抱きつける立場ではないのだ。
だから、命じられるままに身をゆだねる。
もう、何も考えたくなかった。
アーウェスの目的も、自分の気持ちも、自分の置かれている立場も、何も考えたくない。
あまりに、色々なことが起きすぎた。
思考を投げ出し、揺れる黒髪を見つめる。
思わず黒髪の先に手を伸ばすと、その手を捕われ、そこに口付けをされた。
情熱的なそのしぐさに、誤解してしまいそうになる。アーウェスが、エルオーシュを少しでも愛しいと思っているのではないかと。
心の中でそんな事を思った自分を笑いながら、手を引っ込める。
口付けされた感触が、なぜかいつまでもその手に残っていた。
*******
次に目が覚めたのは、正午も過ぎた頃だった。
気を失ってから丸一日以上眠っていたというのに、こんな時間まで眠っていたのかと自分に呆れる。
おそらく、体力的にも精神的にも疲労していたのだろう。未だに体は重く、頭も鈍いままだった。
はたと気づき、首を巡らせる。隣にいるはずのアーウェスの姿はなかった。
それはそうか、と当たり前のことに苦笑する。だらだらと惰眠を貪っていたのは自分ひとりだったらしい。
起こしてくれれば良かったのに。
そう思いながら、寝台を降りようと身を起こす。だが、腕ひとつ持ち上げるのでさえ大変だった。
なんとか身を起こすと、体の芯に鈍痛がはしり思わず動きを止める。
「‥‥いたい」
そんなことを訴えても聞いてくれる人なんていない、と黒髪の美形の顔を思い出しながらため息をついた。
しかたないと痛みを我慢して立ち上がり、床に落ちていた寝巻きのローブをはおる。
きっと、ロッソは心配しているだろう。
自分の部屋に戻らなければ、と寝室を出る。続き間の中で出口を探していた時、控えめに扉を叩く音がした。
「誰?」
「あ、あの。お目覚めになられましたか?お世話をするように、お、仰せつかりまして…」
扉の向こうから、年若い女の声が聞こえた。ああ‥、とエルオーシュは小さく答える。きっと、エルオーシュが目覚めるのをずっと待っていたに違いない。世話係の女官だろう。
「起きている。どうぞ」
「し、失礼します!妃殿下」
入ってきたのは幼い顔をした若い女官だった。くせの強い栗色の髪をまとめ、同じ色の瞳をおどおど泳がせている。
エルオーシュを雲の上の存在だとでも思っていそうなほど、ガチガチに緊張していた。
「し、しばらく妃殿下の侍女になるようにと命じられました。ナーナと申します」
「侍女?ロッソはどこに?」
「はい!あの‥‥ロッソさまは部屋から出てはいけないと言われているので‥」
裏切り者のアルライドの人間なら、侍女であっても疑いをかけられるのだろう。
ロッソまで、とエルオーシュは胸が苦しくなった。
その様子をナーナが心配そうに伺っている。
「そう。よろしく。‥‥ナーナはいくつ?」
話しかければ、緊張のためナーナは顔を赤くした。
「じゅ、十六です」
「私とそう変わらないな。だから、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
微笑むとナーナは過剰に反応した。
「し、失礼ながら、妃殿下はおいくつですか?」
「私?私は十七だよ」
ナーナはさらに驚いた顔する。
「そんなにお若いのですか!?」
「‥‥そんなにふけているかな」
苦笑すると、ナーナは首が飛んでしまうのではと心配するほど、ぶんぶんと首をふった。
「まさか!ただ、お見かけした姿が毅然としていて‥、アーウェス殿下と並んでもひけをとらないほどお美しくお似合いで、殿下とお歳が近いのだと思っていました。六歳も離れているなんて‥」
興奮気味に話すナーナに呆気にとられながら、アーウェスは六つ上か、とぼんやり思った。
「毅然?初めて言われた。そんなに、しっかりとした性格ではないけれど」
お似合いとも思えないし。
しっかりするどころか、流されっぱなしだ。
小川に揺蕩う魚のように、目的も意志なくただ泳いでいるだけの存在だ。
「そんなことは、ありません。わ、私は初めて高貴な方の侍女の役目を頂きました。慣れない異国に嫁がれ、それでもしっかりと王弟殿下の后を勤められる妃殿下に仕えることができ、光栄に思っております!」
力強く言われて、エルオーシュはたじろいだ。純粋無垢そうな娘だ。それに騙されやすそうだ。なんだか心配になる。
「‥ありがとう。そういえば、自分の部屋に行きたいのだけど」
「あの、それが‥。殿下が部屋を出ないようにとおっしゃっていました。それにまだ、軟禁が解かれてないのです」
よりにもよってなぜ、この部屋で軟禁なんだ。
「アーウェスは‥、殿下はどちらに?」
「陛下に呼ばれて、執務室においでになっています」
「執務?珍しい」
おそらく、アーウェスが帰ってくるまでは、どんなに駄々をこねたとしても、この部屋から出られないのだろう。
ため息をついて、質のいい長椅子に腰を下ろす。
「あの‥妃殿下」
「エルオーシュ、と名前で呼んでくれないかな?今は‥、そっちの方が良い」
妃殿下なんて仰々しい名前は、自分にはふさわしくないと思った。それに、そんな価値などもうない。苦笑して頼むと、ナーナは嬉しそうに頷いた。
「はい!エルオーシュさま、今日はどのようにお過ごしになられますか?お部屋の中であれば、自由に過ごしても良いとお許しが出ています」
何をするといっても、ここはアーウェスの部屋だ。勝手が分からない。
「とりあえず、‥湯あみがしたいかな」
エルオーシュは、疲れきった体を背もたれに投げ出しながら呟いた。
******
その日は、ほとんど寝て過ごした気がする。
きちんとしたドレスを着ようともせずに、楽な夜着のまま一日を過ごしていた。
うとうとしながら、大きな寝台をひとり占めしていると、寝室ではない部屋の扉が開く音がした。
アーウェスだ。とぱっと起き上がり勢いのままに寝室を出る。
予想どおり、入ってきたのはアーウェスだった。アーウェスは怪訝そうな顔をして、エルオーシュを見ている。
それはそうだろう。
いきなり、慌てて飛び込んでくるなんて何事だと思うだろう。
エルオーシュもなぜ慌てて出ていったのかわからない。
いや、本当はわかっている。
アーウェスが来るのを待ちわびていたのだ。胸にじんわりと安堵と嬉しさが広がる。
しかし、その感情に気付かないふりをする。
退屈しすぎたせいだ。そのせいで、話し相手がきたのが嬉しいだけだと自分に言い分をする。
「ええと、‥おかえり」
なんだか、恥ずかしくなってうつむく。
「もしかして、寂しかったのか?」
へえ、とからかうように笑って近づいてくるアーウェスに、ますます顔をあげられなくなる。
「違う!‥‥アルライドがどうなるのか気になるんだ」
「ああ、そう」
そっけなく言われ、アーウェスはもう興味がなくなったのかのようにエルオーシュから離れた。
その冷たさに胸が苦しくなる。
自分はいったいどうしたのだろう。やけに情緒不安定だ。
「アルライドは、とりあえずベルリオールの配下につく。ベルリオールの領地になったようなものだ。滅びはしない。まだ誰が王位につくかわからないが、おそらく、第三王子になるだろう。まだ幼いということで、ベルリオールの有能な大臣が国王代理として派遣させることになるだろうな」
疲れたように上着を脱ぎながら、アーウェスが淡々とそう言った。
「そうか‥」
エルオーシュはほっとする。国がなくなるわけではない。それにまだ幼い王子は、聡い子だと聞く。ベルリオールの下した慈悲に、まわりの者も国を守ろうと必死に立ち回るだろう。
「お前の父親は、今のところ幽閉するしかないが」
「‥本当に?」
処刑されるものだと思っていた。
「兄上がそう言うんだ。あとは知らない」
「陛下の慈悲深い処分に感謝する」
絞りだした声は、かすかに震えていた。
このとき、己の儚げな容姿がさらに消えてしまうように頼りなくなるのを、エルオーシュ自身は知らなかった。
再び近づいてきたアーウェスは、エルオーシュの膝の裏に手を入れ軽々しく抱え上げた。
「‥アーウェス!?なにを?」
真っ赤になって足をばたつかせる。
「おまえが誘うのが悪い」
「誘ってなんか‥!」
「寂しかったんだろう?期待どおりに可愛がってやる」
耳に唇が触れそうなほど近くで囁かれ、体がびくりと反応した。
アーウェスは満足そうな笑みを浮かべ、そのまま耳に唇をつける。
カチリとエルオーシュの耳を飾ったピアスの石がアーウェスの歯に当たった。甘く噛まれたのだ。
舌が耳の中に入り込み、水っぽい音が直接耳に届く。
「‥っ‥」
洩れそうになる声を唇を噛んで必死に耐えていると、今度は下唇に彼の唇が触れた。
「必死に我慢してるのに、たまに我慢しきれなくなった自分の声が、どんなふうに男に聞こえるのか知っているか?」
困惑して、アーウェスを見つめる。彼はめまいがするほどに、妖艶に笑った。
「誘っているとしか思えない」
囁く吐息を首筋に感じ、再びぞくりと体が震える。
「誘って、ない。だって‥、痛いだろう。起きた時つらかっ‥」
言葉はすぐに、唇で塞がれる。
「次は痛くない」
もはや一言も、話す余裕もなくなった。
昨日の行為とは違い、エルオーシュの体をゆっくりと確かめる指や唇はひどく優しいものだった。
それを心地良いと感じる自分に困惑する。
ぎゅっと目をつむると、闇が落ちた。その闇の中では、アーウェスの温もりしか感じられなかった。




