心を飾る余計な言葉を知らないからそう思えるのかもしれない
調理場に着くと既にサレアさんが種火を起こして俺の到着を待っていた。
どうやら、今後俺が食事を作るという話はルーリ先生から聞いているようだな。
俺をここまで送り届けてくれたシリアちゃんにお礼を言おうと思ったが、既に彼女の姿は消えていた。朝は色々と忙しいんだろう。俺もすぐに仕事を始めないと。
まずは料理人の命である包丁…いや、ナイフの手入れから始めたいところだが、今日は諦める事にする。ロラン君に頼めば旨い飯を食うために張り切って砥石を持って来てくれるだろうが、彼にも仕事があるだろうから気安く頼むのも申し訳ない。と言うか、彼にはゴドリから俺達を守ってもらわなきゃならないから、彼の仕事の邪魔だけは絶対に避けるべきだ。頼むよロラン君、旨い飯を用意するから頑張ってくれたまえ。
さて、早速だが料理を始めよう。本日のブランチメニューは既に考えてある。
まず主食だが、これはいつもの粥が良いだろう。食べ慣れた主食じゃないと物足りないだろうし、何より消化に良いからな。そう思ってサレアさんにお願いしようと、ジェスチャーを交えて頼み込んでみるが、一向に首を縦に振ってくれない。それどころか昨日の炊きオーヌを作れと言っているようだ。
うーむ、俺は一向に構わんのだが不満とか苦情が出たら困るのだよ。このままでは埒が明かないので今回も炊きオーヌを作るとして、後でルーリ先生に相談してみよう。
皆の総意を聞いた方が良いだろうし、可能であれば好き嫌いやアレルギーなんかも知っておきたいからな。
じゃあ、まずはオーヌを炊いてしまいますか。
今回から10人前の量を作る事にする。グラフ爺さんと警備員2人が2人前ずつ食べる計算だ。1人前0.5合ちょいとして、だいたい11合くらい必要かな?
炊きオーヌに関しては計量と火加減さえしてしまえば後はサレアさんに任せられる。昨日一日で研ぎ方や炊き方を概ねマスターしたようだ。さすが今までこの館の食を支えてきた熟練の料理人だな、呑み込みが早いし研究熱心で助かるよ。
さて、俺は今日の主菜を作って行こう。まずはシュートの実…トマトもどきを湯剥きして細かく刻む。同じく玉ねぎもどきも細かく刻んだら、鍋に油を敷いて玉ねぎもどきを炒めて行く。飴色になるまでじっくり炒めたら水とトマトもどきを加え、ハーブ類を入れる。今回はタイム、バジル、オレガノっぽいのを選んだ。
あとはこれを煮詰めて塩で味を調えればトマトソースの出来上がりだ。
次に各種野菜を適当に選んで1口大にカットし、軽く火が通るまで湯引きする。今回は人参、玉ねぎ、ゆり根、ほうれん草、マッシュルームに近い野菜を選ばせてもらった。
たっぷりの溶き卵に湯引きした野菜を混ぜ合わせ、油を敷いたフライパンに流し入れて蓋をし、弱火でじっくり焼いて行く。
表面が固まったらヘラで底の方をフライパンから剥がし、温めたもう一枚のフライパンを重ねて、ほいやっと裏返す。気合が大切だ。
中まで卵に火が通ったらケーキのようにカットして皿に盛り付け、トマトソースをかければ異世界風スパニッシュオムレツの完成だ。
最後の一品は昨日のブランチで食べたサクランボっぽい赤い実だ。昨日ルーリ先生に聞いた話ではヒールの実と言うらしい。癒されそうな名前でニヤリとしてしまったが、こちらの世界では全く別の意味や由来なのだろう。
このヒールの実だが、この館が所有する近くの果樹園で栽培されていて、丁度収穫の時期を迎えた旬の果物だそうだ。市場には卸していないので値段までは分からないが、高級品として高値で取引されているらしい。
今が旬と言うのならば食わないわけにはいかない。俺は毎日だって食いたいけどな。
俺は今日のブランチを作りながら、仕込みや簡単な試作をこなしてゆく。調理の仕事をしているとマルチタスクが当たり前になってくる。異世界に来たってそれは変わらない。試験的なものがほとんどで、失敗する可能性もあるから何を仕込んだのかはヒミツだ。
10人前のブランチが完成したところで、例の如くサレアさんに食堂の席まで連行された。疾風の如く配膳が進む中、少し遅れてルーリ先生がやって来る。少し眠そうな顔をしているな。昨日は遅くまで読書でもしていたんだろうか?
「おはよう、ルーリ。」
覚えたての言葉で挨拶をすると、いつもの怜悧な表情の口元をほんの少しだけ緩めて「おはよう、シュン。」と彼女の挨拶が返って来た。やっぱり挨拶って大事だよな。あっちの世界にいた頃は礼儀として最低限必要な事だと思ってきたが、今は違う。たった独りで異世界に放り出されて、何も分からない、言葉も通じない、そんな俺を受け入れて居場所をくれる。そんな繋がりとか感謝の気持ちをたった一言で伝える事ができるんだ。心を飾る余計な言葉を知らないからそう思えるのかもしれない。けれど、この気持ちは忘れないようにしよう。
ルーリ先生が席に着くと、すぐに食事が始まった。ルーリ先生はゆっくりと咀嚼しながら炊きオーヌを口に運んで、異世界風スパニッシュオムレツを観察している。
黄色い卵の中に色とりどりの野菜が顔を覗かせ、鮮やかな赤いソースが食欲をそそる。
フォークで卵を切り取り、ソースを絡めて口に運んだ彼女の顔が輝いた。
こっちの世界の卵は味が濃いからトマトソースと合わせると格別に旨いんだよな。
そしてルーリ先生は俺の方をチラチラと盗み見て、意を決したのか、おもむろにオムレツの皿を手に取り、炊きオーヌの上にオムレツをリフトオフ。そのままモリモリと食べ始めた。
ああ、うん。俺の世界の料理は何でもかんでも飯の上に乗せるってわけじゃないんだけど、テーブルマナー的に大丈夫なら好きにすれば良いさ。
言ってみれば変則的なオムライスみたいなもんだから旨いんじゃないか?
それよりも俺はやっぱりヒールの実だよ。旨いなぁ、癒されるぅ。
食事が終わるとルーリ先生は昨日のように俺の隣に座って光殺法のヤツでそっと俺の額に触れるとオムレツの感想を伝えてきた。
「今日の料理も素晴らしいものでした、感謝します。」
「ありがとうございます。」
「あの花のように美しい料理は何と言うのですか?」
「えーと、異世界風スパニッシュオムレツです。」
「すぱにしゅー?何だか恐ろしい響きの名前ですね。」
「恐ろしいかは分からないですけど、俺の居た世界の地名と言いますか…」
「そうですか。卵の風味と野菜の旨味、それをあの真っ赤なソースが一つにまとめていて、そこにオーヌの甘さと香ばしさが加わると、まるで天上の花畑にいるような心地になりました。」
「お褒めに預かり光栄です。あの、つかぬ事を伺いますが、こちらの世界に風呂というのはありますか?」
「風呂ですか?帝都の大貴族が所有しているという話は聞いたことがあります。」
「そうですか。体を洗いたいんですが、どうしたら良いでしょう?」
「それでしたらシリアに案内させます。いつでもご自由にお使い下さい。では、後ほど。」
ルーリ先生は恍惚とした表情を浮かべたまま後片付けをしているシリアちゃんを呼び寄せて何やら指示を出している。俺を風呂的な場所に案内するように言っているのだろう。
指示を聞き終わったシリアちゃんはルーリ先生に一礼し、俺に流し目を送って食堂の出口に向かって歩き出した。付いて来いって事だな。
俺もルーリ先生に軽く一礼してシリアちゃんの背中を追いかける。
この世界の風呂ってどんなだろうな?




