押すなよ、絶対に押すなよ?
異世界に来て三日目の朝、この上ない達成感と安心感を得たためか、久々に爽快な目覚めを享受した。
窓を開けて煙草に火を点ける。昨日の夜も吸ったから残り3本か…
「うぅ、寒っ!」
外の空気もさぞ清々しいものだろうと思っていたが、考えが甘かった。めっちゃ寒い。昨日よりもだいぶ寒い。曇り空でお日さんも出てないしな。
さて、朝の一服の後は出すもん出しますか。
例の壺にアレをアレした後、そっと蓋を閉める。やっぱり落ち着かないな…
それに、いい加減風呂に入りたいんだがトイレがこれなら風呂なんて期待できないか。
こっちの言葉で風呂って何て言うのかな?
よし、今日の目標は煙草の調達と入浴だな。
俺は今日のブランチと晩餐の献立を考えながらサレアさんの娘のシリアちゃんが来るのを待つ。恐らく今日も壺の回収に来るハズだ。
しばらくあれやこれやとレシピを考えていると、お待ちかねのノックが聞こえて来た。
「はいはい。」
俺は寝室の扉を開けて来訪者の姿を確認する。案の定シリアちゃんが来た事にホッとしつつ、顔を見ると湧き上がって来る羞恥心と罪悪感をぐっと堪えた。
今度こそ伝えよう。なんせルーリ先生から優先的に教えてもらった言葉だからな。
「おはよう、シリア。昨日はありがとう。俺は自分で壺を片付ける。教えて欲しい。」
どうだろう、伝わったかな?
彼女はしばらくの間、愕然とした顔で俺を見上げていたが、唐突に我に返って何やらゴニョゴニョと呟いた。俺に向けての言葉なんだろうけど、早口で聞き取れないところもあったし、そもそも俺の言語理解能力はまだそれほど高くないもんだから、「ありがとう」と「美味しかった」と「了承」の三つしか分からなかった。
それでも俺が伝えたかった言葉が伝わったんだと思う。良かった。
じっと俺を見詰めて来る彼女の意図を察して、俺のアレが入った壺を抱えて彼女の後に続いた。
この館の構造は未だに分からない。まだ三日目でほとんど同じ場所にしか行っていないというのもあるが、単純に広過ぎる。正門からの外観しか見ていないから全容を把握していないが、学校の校舎くらいの大きさだったと思う。だからこうして誰かの案内がないと目的地に辿り着けない。絶対に迷う。
そんな巨大な建物に、俺を入れても七人しか住人がいないなんて掃除が大変だろうなと埒もない事を考えながら少女の背中を追って歩いていると、唐突に館の外へ繋がる扉を抜けた。
あ、ヤベェ。明日から独りで来ようと思っていたのに余計な事を考えていたせいで、道順が分からん。
仕方がない、この館で世話になるんだから近々ルーリ先生にでも館を案内してもらおう。
とまあそんなこんなで俺達は館の裏手にある肥溜め?に辿り着いた。直径5メートルくらいの沼って感じだな。手前には小さな井戸がある。
かなりの異臭がするんじゃないかと覚悟していたが、それほど気にならないのが不思議だ。
さて、ここに壺の中身を捨てれば良いのかな?
チラリとシリアちゃんの様子を伺うと、コクリと頷いてきた。
オーケーオーケー、じゃあチャッチャと済ませましょうか。押すなよ、絶対に押すなよ?
恐る恐る沼に近付いた俺は、壺の中身をペイっとぶちまける。所々に布のような物が浮いてるから拭く時に使った麻布も沼に捨てて良いんだな。確か麻って植物性の繊維だから、分解されて肥料になるんだろう。
ルーリ先生やシリアちゃんのアレもここに捨てられてるのか…。おっとイカン、ちょっとだけ想像しちゃったが、俺は異常性癖の変態ではない。
後ろを振り返るとシリアちゃんが井戸の水を汲んで待っている。あの水で壺を洗うのかな?
水桶と壺を交互に指差して首を傾げると、シリアちゃんがコクリと頷いた。
俺は桶の水で壺を濯いで沼に捨てる。三回ほど繰り返したから綺麗になっただろう。すると今度はシリアちゃんが俺の手をビシっと指差す。
ああなるほど、手も洗えって事ね?もちろんそうさせて頂きます。
念入りに手を洗った俺は、再びシリアちゃんの背を追って歩く。
館に戻るのかと思ったがそうではなく、館に隣接した小さな木造の小屋に向かっていた。
チラリと小屋の中を覗くと、農具や木箱などが所狭しと並べられている。
ああ、ここは倉庫になってるんだな。農具なんかは異世界でも俺の世界と似たような物を使ってるんだな。
そして小屋の横には太い木の杭がいくつも突き刺さっていて、俺が抱えている壺と同じ物が
逆さまに覆い被せてある。そうか、ここで壺を乾かすんだな。
案の定、シリアちゃんが木の杭を指差しているので、俺の壺も同じように逆さまに覆い被せる。そして奥の方から乾いた壺を抜き取り、壺の交換が完了した。
なるほどな、これがこの館のトイレ事情の全貌か。かなり面倒だし悪天候の時は苦労しそうだな。それでもここで生活する以上、慣れるしかないか…
さて、これで終わりかな?そろそろ館に戻ってブランチの準備をしないとなんだけど。
そんな事を考えながら振り返ると、俺の眼前に皺くちゃの般若のような顔がヌっと飛び出してきた。
「どわぁ!」
驚いて壺を抱えたまま尻もちをついた俺を般若顔の老人が、口元にニヤリとした表情を張り付けて見下ろしている。
なんなんだよこの爺さんは。恐らくこの館の使用人で、未だ顔を合わせていない警備員か庭師のどちらかだろう。背丈は俺より頭一つ分くらい小さいが、ガッチリとした体格で強そうだ。しかし作業着っぽい服装でシャベルのような物を持っているから庭師の方だろうか?
爺さんは禿げ上がった頭をペチペチと叩くと俺に手を差し出して来た。
爺さんの手を取って立ち上がると、横からシリアちゃんがもの凄い剣幕で爺さんに怒鳴りつけている。爺さんは小さくなってシリアちゃんに謝罪しているようだ。
俺を驚かせて面白がっている強面でお茶目な爺さんって認識で合ってるのかな?
まあちょっとだけイラついたが、この館で世話になるんだから挨拶はしておこう。
覚えたてだからカタコトで申し訳ないが…
「はじめまして。俺、名前、シュン・イワイ。あなた、名前、教える、了承?」
爺さんの名前はグラフゴート、グラフ爺さんと呼ぶ事にしよう。他にも自己紹介的な言葉を話していたと思うが分からなかった。ただ、仕切りに頭を下げていたので悪い人ではないのだろう。
と思ったのも束の間、突然般若顔をヌっと近付けて必死に何かを懇願し始めた。近い近い、それに唾が飛んでる。
どうやら食事が少ないから増やしてくれ的な事を言っているようだが、そんなのはルーリ先生かサレアさんに言ってくれよ。
いや、待てよ。昨日の晩餐は館の住人全員分を俺が作った。って事はグラフ爺さんも昨日の晩餐を食べたわけで…もしかしていつもより量が少なかったのか?そりゃあこの体格だから沢山食べるよな、申し訳ない事をした。でもサレアさんは何も言わなかったぞ?
とりあえず次からはもっと多めに作ろう。グラフ爺さんはともかく、ロラン君しか見た事ないけど警備員の人達は体を張って戦うんだから沢山食うよな。
シリアちゃんの協力を得て何とかグラフ爺さんを宥めすかした俺は、寝室に新しい壺をセットして調理場へと向かった。






