俺にはそれしか取り柄が無い
異世界転移、あまりにも荒唐無稽で常識では考えられない事態に巻き込まれた俺は、この世界の事を知る必要がある。もちろん俺が異世界転移に巻き込まれた理由や原因、元の世界に帰る方法を探すのが最優先だが、そう簡単に真実に辿り着けるものでもないだろう。
現にこの異世界での唯一の協力者、ルーリが先ほどから頭を抱えている。
この世界での常識と身を立てる手段を考えなければ、この異世界で生きて行く事すら出来ないだろうからな。
まず、俺が知っておかなければならない、この世界での常識だが、中々に難しい。
例えば、俺の居た日本で目の前に異世界人が現れたとする。その異世界人に日本での常識を尋ねられた時、俺は何と答えれば良いのだろうか?
通貨の単位や価値か?都道府県の場所や県庁所在地の名前か?生活するうえで必要な法律や義務か?確かにどれも必要で過不足が多過ぎる。
では今の俺にとって最も必要な常識とは何か、それは…
「俺に、この国の言葉を教えて欲しい!」
叫ぶように捻り出した俺の声にルーリは少し驚いていたが、やはりルーリは首を傾げるだけだった。そうだよな、必死になり過ぎて忘れていた。気を取り直して光殺法のポーズを繰り返す。いやもう、いい加減恥ずかしいから少しは察して欲しいものだ。
再び額に触れられたルーリの淡く光る指先に、この国の言葉を教えて欲しいと念じると、ルーリは表情も変えずコクリと頷いた。
英語もロクに喋れない、今年で36歳になる俺が、いまさら外国語を一から学ぶ事になるとは夢にも思わなかった。
日本にいる限り外国語はあまり必要にならない。たまに店に来ていた外国人観光客の接客も若い子達が携帯の翻訳機能的なものを使って対処していた。そこまで必要でないものに力を入れられるほど暇を持て余していたわけでもないし、やる気がなかったのも事実だ。
だが、今の俺にとって最も重要な事であり、無理やりにでもやる気を出さなきゃならない。幸い、俺は物覚えが良い方だと自負している。
何より言葉を学ぶ過程で、ある程度の一般常識も身に着ける事ができるだろう。まさに一石二鳥の良策だな。
ルーリ先生、よろしくお願いします。
さて、そこから始まったルーリ先生との国語の勉強は斬新で驚くべきものだった。
まず言語を教わるうえで最も重要な事は、教える側が両方の国の言葉を理解できる事である。もしくは教わる側がカタコトでも教わる言語を理解していなければならない。まあ、要するにお互いにある程度のコミュニケーションが成立しないとならないって事だが、ルーリ先生の手段は素晴らしかった。そう、あの光殺法のヤツを取り入れた画期的な方法だ。
まずお互いのイメージを共有し、ルーリ先生の口からイメージを表す言語が発声される。
先生の意思と声が俺の脳内で結び付いて、覚えたばかりの言葉とは思えないような自然な感覚で扱う事が出来るようになった。
とは言え、半日で習得できる言葉なんてたかが知れている。生活に最低限必要な事や挨拶くらいなものだろう。
それでも俺にとっては大きな一歩と言っても良い。この感謝の気持ちと多大な恩をルーリ先生に返したい。
だが、今の俺に何が出来るだろうか?せいぜい家事を手伝うくらいしか…いや、そうだな、俺には料理しか出来ないんだ。だったら彼女に旨い飯を食わせてやれば良い。それが今の俺に出来る最大の恩返しなんだから。まあ、異世界人の彼女の口に合うかどうかは別の話だがな…
「俺、今日、晩餐、作る、可能?」
覚えたばかりで文法もへったくれもないカタコトの言葉でルーリ先生にそう伝えると、彼女は一瞬驚いた顔を見せ、快く了承してくれた。
正直な話、断られるだろうと思っていた。どう見ても彼女はこの館の主人か、その家系の人間で間違いない。この大きな館を所有しているという事は、それなりの地位や財力を持っているって事だ。そんな人間の口に入るものを得体の知れない俺なんかが用意するなんてのは普通に考えたら有り得ないだろう。ここで断られても少しずつ信頼関係を築いていけば、いつかは聞き入れてくれるのではないかと思っていたが、まさかこんなあっさり了承してもらえるとは思わなかった。
よし、そうと決まれば早速準備に取り掛かろう。
まだ日は高く、晩餐までにはかなり時間があるが、慣れない環境で使ったことのない食材を使うんだから時間に余裕があった方が良い。
ちなみに、この国では朝昼兼用のブランチと晩餐の一日二食が一般的だそうだ。
ルーリ先生とザ・応接室を出た俺達は調理場へ向かった。途中、侍女のオバチャンに遭遇し、ルーリ先生が事情を話すと有無を言わさずオバチャンも俺達のパーティーに加わった。
あ、そうそう侍女のオバチャンの名前はサレアと言うらしい。これからはサレアさんと呼ぶ事にしよう。
なんて事を考えていたら新たな館の住人に遭遇した。スラリと背が高く、と言うか高すぎるな…2メートル近くあるんじゃなかろうか?
恐らく20代後半くらいだろうか、精悍な顔立ちの青年で頬からアゴにかけて深い傷跡が刻まれているのが特徴的だ。
背筋をピンと伸ばし、廊下の脇に控えていた彼はルーリ先生の紹介を受けると軽く頭を下げて来た。
彼の名はロラン、主にこの館の警護をしているそうだ。彼がいる限りこの館がゴドリに襲撃される事は無いらしい。凄いなロラン君、か弱い俺のために頑張ってくれたまえよ。
ついでにルーリ先生に尋ねてみると、この館にはあと二人使用人がいるそうだ。
一人はロラン君と同じ警護担当で、もう一人は庭師兼雑用係らしい。挨拶と自己紹介は出会った時にでもするとしよう。
と、調理場への行軍を再開した俺達だったが、何食わぬ顔でロラン君までパーティーに加わってしまった。俺に対する警戒心なのか興味なのか、はたまた仕事なのかは分からないが四人パーティーになった俺達は調理場へと辿り着いた。
さて、戦闘開始だ!
この館の調理場は館の大きさに似つかわしい広々とした部屋だった。ほかの部屋と同様に壁も床も天井も石造りで、俺達が入って来た入口の他に、二つの扉がある。
一つは倉庫に繋がっていて、そこには食材が保管されているそうだ。
もう一つは中庭に繋がっていて、すぐそばに井戸があるそうだ。水はそこから汲んで使うらしい。
調理場の中央には大きくて年季の入った作業台、一面の壁にズラリと並んだ食器棚には色とりどりの食器や調理器具が収められていた。
そして肝心のかまどはかなり原始的なものが三台連なっている。ドーム状に組まれたレンガの下部で薪を燃やして、上部の火口で熱を受け止めて調理するタイプだ。薪の直火か…火加減が凄く難しいんだよな。
かまどの上は排煙用の煙突に繋がっているらしく壁から少しせり出している。
オーブンらしきものは見当たらない。設備的にはこんなものか。
次は食材の確認だ。調理場に併設された倉庫に向かった俺は、その広さに圧倒された。体育館ほどの広さを持つ倉庫に麻の袋や樽がビッチリと積み重ねられている。今日一日で全ての食材を見るのはさすがに無理があるので、目に付いたものをいくつか確認させてもらった。カタコトの会話で食材の味や用途を知るのは無理なので、時折ルーリ先生に例の光殺法のヤツを使ってもらいつつ、今日の晩餐のメニューを検討してゆく。
念のため確認してみたが、食材を無駄にしない限りは何をどれだけ使っても構わないそうだ。少しばかり試作する必要はあるが、これなら何とかなりそうだな。
調理場に戻った俺は水を汲んであった桶で念入りに手を洗い、まな板と包丁をお借りする。まな板は少し歪んでいるが清潔そうだ、問題ない。
それと包丁…というかナイフだな、やや大振りで重い両刃の刃物で、細かい作業には向かないな。あ、両刃と言っても握った時に上と下の両面に刃があるわけじゃなくて、研ぎ方の違いって言えば良いのかな?刃の部分がVの字になっているのが両刃で、レの字になっているのが片刃って事だ。
和食なんかで使われる和包丁の一部は片刃で、あとはだいたい両刃かな?一般家庭で使われている万能包丁なんかはもちろん両刃だ。
話が逸れたがこのナイフはこのままでは使えない。刃が欠けているわけではないし、汚れやサビがあるわけでもないが、極端に刃が潰れているのだ。
切れない包丁は怪我のもと。それに食材を切った時に繊維を痛めてしまうから、味や食感を損ねてしまう事もある。これは調理の前に手入れが必要だな。
ルーリ先生に砥石があるのか聞いたところ、ロラン君がダッシュで取りに行ってくれた。
ロラン君の持って来た砥石は細長く、普段剣の手入れをする時に使っているものだそうだ。
ん?ロラン君の剣って、あのゴドリを退治する時に使ったりするんだよね?って事はこの砥石にもゴドリ汁が着いてるって事だよな…
正直、使うべきか凄く悩んだが、他に方法がないのなら仕方がない。
俺は大きな寸胴にたっぷりの水を入れ、かまどで沸騰させた。
重曹や高度数のアルコールなんかがあれば良いんだけど、無いものは無いから仕方がない。
グラグラと沸騰した熱湯に砥石をブチ込んでしばし待つ。その間、異世界人の方々が向けて来る奇異の視線が突き刺さったが気にしない。
雑菌とかマジで怖いからな。異世界人の方々は知らなそうだが、これは俺の世界の殺菌手段の代表、煮沸消毒なんだよ!
煮沸消毒が異世界の雑菌にも有効なのか若干の不安はあるが、ここはこれで良しとしよう。
さてと、砥石に取り付けられた取っ手が若干邪魔だが、ナイフを研いでしまおう。
俺が料理人を志してから毎日のように行って来た包丁研ぎ。ある種の儀式のようでもあり、俺の精神も同時に研ぎ澄まされているような感覚に陥る。
異世界人の方々は俺の奇行に始終目を白黒させていたが、俺の精神が研ぎ澄まされて行くにつれ真剣な眼差しを向けて来るようになった。
同僚にも良く言われていたが、俺は包丁を握ると顔つきが変わるらしい。何をバカなと笑っていたが、正直自覚している部分もある。
目の前の料理に全神経を集中したい。たったそれだけの事だし、俺にはそれしか取り柄が無い。それが俺だ。
研いだ刃に爪を当ててじっくりと確認して行く。歪み無く真っ直ぐで、繊細で鋭い。俺の心も常にこう在りたいものだな…
心とナイフの準備を終えた俺は、食材を並べ調理を開始する。いつの間にかルーリ先生の姿が調理場から消えていたが、今日の晩餐に期待していて欲しいものだな。