大人になって泣く事なんてなかったのにな…
知らない石の天井が見える。目覚めたばかりでまだ頭が回らない。ここはどこだっけ?確か昨日は…
鈍く回る頭で昨日の出来事を振り返る。昨日も確か知らない山ん中で目覚めたんだったな…
奇怪で恐ろしいモンスター、飛び散る肉塊、青髪の美女、森の巨大な洋館、侍女のオバチャン、異国の料理…ああ、思い出した!
跳ねるように体を起こした俺は部屋の中を見回す。壺だ、急いで壺を探さなきゃならない。でないと大変な事になってしまう。
紐が解けたスニーカーをつっかけて、部屋の隅へ向かう。衝立の向こう、確かこの辺にあったハズ…
高さ50センチ程もある陶器の茶色い壺。分厚い木の蓋を掴み、勢い良く取り外す。中に入っているであろうものを想像して一瞬躊躇したが、俺に迷っている暇は無い。
中には何も入っておらず、特に異臭もしなかった事に安堵した俺は、すぐさまベルトを外しジーンズを下ろす。中腰で壺に跨り、いざ出航っ!
ふぅ…危なかった。トイレ以外で用を足すなんて、いつぶりだろうな?
さて、問題は次だ。どうやって拭き取るか、辺りを見回してもトイレットペーパーなんて気の利いたものは見当たらない。急いでたもんだから無策で特攻しちまったもんな。
ふと、足元に数枚重ねられた小さな麻布に目を向けた俺は、それを手に取りしげしげと観察する。恐らくこれを使えって事だろう。だが、使った後はどうする?そのまま部屋に置いておくのもどうかと思う。だが、決して豊かそうに思えないこの家では洗い回して使うのかもしれない。
しばし考えた俺は、結局使い終わった麻布を壺の中のアレにそっと被せ、分厚い木の板で壺を封印した。リアルで臭い物に蓋をしたのは初めてなのではなかろうか?
軽い賢者タイムに突入した俺は窓を開け、煙草に火を点ける。小さな引き出し付きのテーブルに無造作に置かれた俺の所持品。そろそろ充電が切れる携帯、7千円ちょっとの現金とカード類が入った財布、そして残り4本しかない煙草とオイルライター。
まずは電気のある場所で携帯を充電した方が良いだろう。もしかしたらそこで電波が拾えるかもしれんしな。携帯が繋がれば後はどうとでもなる。たぶん…
あと、できれば煙草も買い足したいな。売ってるかな?紙煙草。と言うか買うにしたってこの国で日本円が使えるのか?ルーリの情報では日本なんて聞いた事もないって事だったが…
まあ何にせよ今日もルーリから可能な限り情報を得ないとならんな。
とは言え、部屋を出て勝手に館の中をうろつくわけにもいかんし、どうしたもんか…
と、そこへタイミング良く部屋の扉をノックする音が聞こえて来た。
「はい、起きてますよ。どうぞ。」
日本語で答えたところで通じないのは分かっている俺は、返事をしながらそっと部屋の扉を開いた。
そこにいたのは頭2つ分も小さい少女。昨日の晩餐の時に初めて出会った侍女オバチャンの娘だと思われる少女だ。
「おはようございます。」
言葉が通じなくたって挨拶は必要だ。軽く愛想笑いを彼女に向けるが、彼女の表情は微動だにしない。鉄面皮と言うか昨日から一瞬たりとも表情を崩したところを見た事が無い。むしろ俺に対してどこかトゲトゲしさすら感じる。
なんだろうな、嫌われてるのか?俺、何もしてないぞ?
軽く頭を下げた彼女はズカズカと部屋に入り込み、室内を見回している。そしておもむろに部屋の隅に向かった彼女は、俺のアレが入った壺の蓋を開け、壺を抱えたまま廊下の先へと消えて行った。
なんだろうなこの気持ち…もの凄い羞恥心と罪悪感、でも生理現象だから仕方ない事だし、恐らく壺の回収は彼女の仕事なんだろうけど…
ああ、参ったな、早く日本に帰りたい。
悶々とした気持ちで唸っていると、今度は侍女のオバチャンが現れて昨日の食堂へと案内された。テーブルに並べられた食器は昨日と同じ2組。昨日と同じ席に腰を下ろした俺はルーリの到着を待つ。時間にして昼前ってところだから朝食になるんだろうか?
この国に来て二度目の食事、もう期待なんてものは無い。カルチャーショックに備えて心の平静を保つのに専念する。悟りが開けそうな勢いだな…
ほどなくルーリが到着すると配膳が始まった。
今日もオバチャンと少女がテキパキと配膳を進めている。その間少女の顔を見る事が出来ずに俯く俺。何か彼女に言葉をかけたいが、日本語は通じないし、そもそも何と言葉をかけるのかも分からない。せめて次から壺の処理は自分でするという意思を伝えたい。
が、結局何もできないまま本日最初の食事が始まった。
今回の食事も3品。昨晩と同じ麦っぽい穀物の粥と、謎の野菜が数種類盛られたサラダ、そしてブドウと同じくらいのサイズの赤い果実が10粒ほど。現時点では恐れていたカルチャーショックに見舞われる事も無さそうだ。
ルーリが動き出した事を確認した俺は、スプーンを手に取り食事を開始する。
「いただきます。」
粥は昨日とまったく同じだ。絶品というわけではないが、慣れてしまえば普通に旨い。
次に野菜サラダだが、鮮度がそれほど良くないのか、そもそもそういった野菜なのかは分からないが、しんなりしていてシャキシャキ感がほぼ皆無である。だが、申し訳程度にかけられたドレッシングの味は悪くない。恐らく植物性のオイルに塩と柑橘系の汁を加えたものだろう。
さて、最後は赤い果実だが、ルーリを盗み見ると皮を剥かずにそのまま噛り付いている。俺もルーリに倣い、一口に赤い実を頬張った。
薄皮を歯で突き破ると瑞々しくて甘酸っぱい果汁が口の中いっぱいに広がる。これはリンゴ?モモ?いや、サクランボに近い味わいだろうか。これは旨い!
クニクニとした小さな種が少しだけ食感を損ねるが、味は抜群に良い。
日本では高値で取引されるのではなかろうか?是非日本に持ち帰り、この果実の旨さを広めたいと思う。
この感動を伝えるべく俺はルーリに満面の笑みを向けるが、彼女は一瞬微笑を浮かべただけで、ただ黙々と食事を続けるばかりだった。
静かに食事をするのがこの国のテーブルマナーなのかもしれないし、俺も粛々と食事を続けよう。
後でルーリに、この果実の名前と生産地、生産量、価格なんかを聞いてみようか。
食事を終えた俺達は、早速ルーリと二人で昨日のザ・応接室へと足を運んだ。
旨からぬお茶を前に、今日の戦いを始めよう。
まず俺が最も聞いておかなければならない事、それは昨日のモンスターの正体である。もし都市伝説で噂されているような未確認生物、UMAの類であれば世界中からマスコミが押し寄せて来るだろう。
あの時彼女は、あの場所を離れたがっていたから、あの辺りには沢山生息しているハズだ。
そして、武器を手に襲い掛かって来るのだから、かなり危険な存在だと実感している。
銃火器を持った軍隊でもいなければ、一般人が近付くべきではないだろう。
俺は早速、額に触れたルーリの指に向かってイメージを念じる。
あのモンスターは何なのか、この付近にどの程度生息しているのか、意思の疎通や飼育は可能なのか、そして人間にとってどの程度の脅威なのか…
そして、ルーリから返って来た答えは驚くべきものだった。
あの生物はゴドリと呼ばれているらしい。狂暴で知能が高く、野生の動物や家畜、時には人間を襲って食べるそうだ。
分類的には人間の亜種、いわゆる亜人という扱いで、人間との意思疎通は不可能だそうだ。
因みに彼らは彼ら独自の言語で互いにコミュニケーションを取っているらしい。
最後に生息域だが、全世界に生息していると…
全世界?アメリカにもロシアにも中国にもヨーロッパにも、もちろん日本にだってあんなモンスターは存在しないぞ。
驚愕し、混乱する俺を憐れむような目で見つめていたルーリは、左手でテーブルの上にあった巻物を広げた。俺はまじまじと巻物に描かれたものを確認する。
それはどこかの地図。この国の言語で地名が記されているが、俺には理解できない。
これは何かとルーリに尋ねると、世界地図だと返って来た。
滅多に手に入れる事が出来ない、とても貴重なものだそうだ。
世界…地図…それほど地理に詳しくない俺だって世界の地形はだいたい分かる。
この巻物に描かれた地形を切り取って並べ替えたところで、俺の知っている世界地図にはならない。
俺の国、日本は…北海道はどこにもない。
ああ、気が付いていたさ。あの山を歩き回って植物を観察していた時に、ここが俺の知っている世界ではない可能性があるって事は。
でも、絶対に認めたくなかった。だって異世界転移なんてあるハズがないだろ?ファンタジーだぞ?創作物だぞ?非現実を楽しむための幻想だぞ?
それを、こんな…俺が…
気が付くと俺は涙を流して泣いていた。
大人になって泣く事なんてなかったのにな…
俺、帰れるのかな…俺が産まれて生きたあの世界に…
悲嘆に暮れる俺の意識にルーリの意思が流れ込んで来る。
今は俺を元の世界に送り届ける方法が分からない、必ず見付けてみせるから一緒に探そう。
彼女の初めて見せた優しい笑顔に、俺は泣き崩れた。