うん、マジで怖かった
昼間でも薄暗い石造りの廊下を少女に従って歩く。何か特殊な建築方法なのか、外はあんなに肌寒かったのに館の中は快適な温度が保たれている。不思議なもんだな。
さて、そんな事を考えているうちに目的の場所に辿り着いたようだ。
シリアちゃんが開け放った扉の先に、浴場らしき空間が広がっていた。
正面の壁には四角い大きな浴槽があり、壁に埋め込まれた獅子っぽい角の生えた動物の彫像の口から水がサラサラと吐き出されている。
側面の床には排水用の溝が彫られており、壁の奥へと続いている。
天井も高く、摺りガラスが半球状の幾何学模様に組まれており、幻想的な光で浴場を満たしている。
手前の壁際には脱衣用と思われる籠や、折り畳まれた麻布の詰まった棚が設えられている。あの布で体を拭くのかな?
もちろん入口の扉には閂が掛けられるようになっていて、誰かとバッティングして気まずい事にならずに済みそうだ。
入口の部分は一段低くなっているので、ここで靴を脱げって事だろう。
俺が浴場に入ると、シリアちゃんは一礼して外に出てしまった。特に説明は無しか。まあ言葉が通じないから入浴のルールを知るにも骨が折れそうだが、そこは風呂好きな日本人だから何とかしてみせましょう。
と、意気込んでみたは良いものの、扉に閂を掛け素っ裸になって浴槽に近付いた俺は頭を悩ませる事になる。それは浴槽の位置が思ったよりも高いのだ。だいたい俺の腰くらいの高さで、子供やお年寄りが入るにはちょっと無理があるように思う。
確かルーリ先生に聞いた時も風呂は無いような事を言っていたような気がするので、恐らくこれは浴槽ではないのではなかろうか?
それに、風呂にしては湯気が立っていない。試しに手を突っ込んでみると、お湯ではなく冷たい水だった。これは何の準備もなく飛び込んだら心臓発作で死んじゃうな。
以上の事から推察すると、これはどうやら浴槽ではないらしい。周りに置かれている桶で水を掬って、その水で体を拭うって事で良いのかな?
俺は棚から短めの麻布を持って来て、早速体を拭ってゆく。
心臓に悪い冷たさだが、慣れれば清々しくて気持ち良い。あちこち探してみても石鹸やシャンプーの類は見当たらなかったので、水だけで頭も体も清めて行く。うん、さっぱりした。湯に浸かれないのは残念だけど、仕方がない。とりあえず道順は覚えたから、ここには毎朝来よう。
久々の入浴を終えた俺は、大き目の麻布で体を拭き、ワシワシと頭を拭っていると、ノックの音が聞こえてきた。ん?閂は掛けたから誰かが入っているって事には気付くハズだし、誰かが入っているのにノックをして急かすのも変な話だ。
俺は麻布を腰に巻き、閂を外して恐る恐る扉を開けてみる。
扉の外には俯いてなるべくこちらを見ないようにしたシリアちゃんが、畳まれた衣服をこちらに突き出していた。ああ、これに着替えろって事ね。
「ありがとう。」
こっちの言葉でお礼を言って衣服を受け取り、早速こっちの服に袖を通してみる。胸元にフリルの付いたボタンのないシャツ、緑色のダボっとしたズボンと長袖のチョッキ…ボロボロってわけじゃないが、全体的に古ぼけていて少し黄ばんでいる気がする。誰かのお下がりかな?
下着はトランクスっぽいものがあったから、それを履いた。
ふむ、悪くはない。悪くはないが、剣を振り回す謎解き多めのアクションRPGに出て来る勇者っぽい感じがするな。コスプレっぽくてちょっと恥ずかしい。
着替えが終わって扉の外に出てみると、シリアちゃんがまじまじと俺の姿を見てコクリと頷いた。似合ってるって事で良いのかな?
シリアちゃんは無言のまま、俺の着ていた俺の世界の服と体を拭うのに使った麻布を籠にまとめて、そそくさと持ち去って行ってしまった。
あ、洗濯してくれるって事かな?洗濯もできれば自分でやりたいが今日のところはお願いしようかな。それよりも、この広い館で独りぼっちにしないで欲しいものだ。道順を覚えてなかったら絶対に迷ってたよ?
仕方なく独りで食堂までの道を引き返して、ザ・応接室の方へ行ってみる事にする。今日も楽しいルーリ先生の国語の授業が待っているからな。
ザ・応接室に到着した俺は、とりあえず扉をノックしてみる。もしここにルーリ先生がいなければ調理場に行ってサレアさんを探すか、寝室に戻って待機するしかない。館を勝手にうろつくのは失礼だし、下手に歩き回って迷子になったら困るからな。
ノックに応えたのは聞いたことが無い男の声。うーむ、ニュアンス的には入っても構わないと受け取って良い言葉だと思うが…まあ良い、この世界の風習というか言語さえ分からないんだから、何か失礼があってもワタシ異世界語ワカリマセーンでごまかすしかない。
扉を開けてみると、いつもの席にルーリ先生がいたのでホッとした。だが、その対面のソファで見知らぬ大男がドッカと腰を下ろして、俺に鋭い視線を送って来た。
顔にも腕にも肌が露出している部分には深い傷跡がいくつも刻まれており、鷲鼻に三白眼、口元からアゴにかけての無精髭がゴロツキのボスっぽさを感じさせる。うん、正直に言って怖い。
白髪がポニーテールに結われているが、年齢的には俺よりも少し上といったところで老人というわけではなさそうだ。
うーむ、どうしたものか。この人はルーリ先生に何か用事があったのに、俺が邪魔しちゃったとかじゃないと良いけれども…
ルーリ先生が手招きしてくれたので、ルーリ先生の隣に腰を下ろす。その間、ルーリ先生とこの男が何事かを話しているが、話の内容が全く理解できない。気まずいぞ…
ハッと何かに気付いたルーリ先生は、例の光殺法のヤツで同時通訳的な事をやってのけた。素晴らしいです、ルーリ先生。
「テメェはどこのモンだ?」
「はい、異世界から来ました。」
「異世界だぁ?」
この男の太い眉と三白眼が吊り上がり、眉間にシワが寄る。うん、マジで怖い。でも真実だから信じてもらうしかない。
「突拍子もない事をぬかして煙に巻くつもりだろうが、俺は騙されんぞ。おおかたトラビア公国の回し者ってところだろうがな。」
「信じてもらえないでしょうが、本当です。俺は異世界の日本という国から来ました。俺自身もどうしてこんな事になったのか分からなくて…」
そこでルーリ先生がこの男に何事かを話してフォローしてくれたようだ。ルーリ先生の話に、この男は渋々といった感じで鼻を鳴らして納得してくれたようだ。
「賢者様がそう言うならば信じる他ないが、俺はテメェを信じちゃいない。もし賢者様やこの館の人間に何かあったら、その時は素っ首叩き切ってやるから覚悟しておけ。話はそれだけだ、じゃあな。」
そう言って彼はズカズカとこの部屋を後にした。うん、マジで怖かった。
気になったので彼の事をルーリ先生に尋ねてみると、どうやら彼も館の警備を担当しているようで、主に夜間の警備を任されているらしく、昼間はだいたい寝ているそうだ。名前はベインルーコングラハムと言うらしい。
彼が俺の事を疑うのは最もな話だ。いままで出会って来たこの館の他の住人が、お人好しなだけだと思う。山に突然現れた異世界人なんて怪しさ満点だもんな。他国間者だと疑われるのも当然の事だ。
さて、それともう一つ。彼が去り際に言っていた賢者様というのも気になるのでルーリ先生に聞いてみた。
代々強い力を受け継いできた血統で、一族の中でも最も力の強い者が名乗る事を許された称号らしい。という事は王族や貴族みたいなものなのか?
それもどうやら認識的には間違っていないが、それよりももっと上位の存在らしいのだ。
世界の在り様を変えうる力を持つ存在。人々に大いなる繁栄を、そして時には全てを滅ぼす破壊の力を…
いや、俺も何となくだが気付いていた。彼女と出会った時、あの恐ろしいゴドリを一瞬でミンチにしたのは彼女の力だ。今この時も使っているこの光殺法のヤツだってそうだ。やはりこれは魔法ってヤツなんだろうな。
全てを滅ぼすほどの魔法の力なんて持ってる奴がゴロゴロいたら世の中大変な事になるんじゃないかと思ったが、賢者と呼ばれる人間は世界に11人しか存在せず、各々が自らの血族を統治し、他の血族を監視しているそうだ。
とはいえ、過去には幾つかの血族同士が結託して他の血族と敵対し世界を巻き込む大戦に発展した事もあったそうだ。どこの世界でも戦争の歴史ってのは必ずあるもんなんだな。
それにしても、ルーリ先生って世界に11人しかいない賢者の1人って事だろ?実は凄い人だったんだな。良いのかな、そんな凄い人の世話になんかなっちゃって…でも、他に頼れる人もいなければ知り合いもいないし、ご厚意に甘えるしかないんだよな。
さて、これで俺は魔法が存在する世界に転移してきたって事が分かったわけだが、果たして俺にも魔法が使えるのだろうか。魔法ってどうやって使うんだろうね?一度で良いから使ってみたいな。
とまあ、そんなわけで色々あったが今日の授業もハイペースで進んで行った。文法なんかも随分と覚えられたのではなかろうか?
というのも、英語に似て動詞から始まる文法だから少しは馴染みがある。何より中国語のように発音が難しい言語ではなく、日本語に慣れ切った俺でも無理なく発音できるから助かっている部分も大きい。
このペースならば1週間もあれば日常会話に困らないだけの語学が身に付くのではなかろうか?




