07.テニスコートの誓いⅢ ~ノブレス オブリージュ~
1789年5月6日──三部会開会式の翌日、貴族たちは彼らに宛がわれた議会室に初めて集合し、資格審査を貴族だけで行うよう命じられた。資格審査の方法が示されなかったので、第三身分は全体による審査を支持したのに対して、貴族と僧族は身分毎の審査を支持した。
翌日の投票では、貴族は188票対46票、僧族は134票対114票で身分毎の審査が可決される。
8日、第三身分の代表たちが貴族の議場を訪れて陳情書を渡した。第三身分代表の一人タルジェは貴族の陳情書を送って貰いたいと伝え、そして貴族たちに第三身分と共に新聞規制に対する抗議を行って欲しいと懇願した。
三部会開催と共に新聞規制が実施されていた。ミラボーは開会式翌日の5月6日から三部会新聞を出版したのだが、没収されてしまった。
貴族たちは、会議を一時中断した。
貴族たちの意見は分かれた。報道の自由は認められるべきか否か。2/3が認められるべきとした。続いて国王に抗議を行うべきか否か。こちらは否決。最終的に抗議自体は避けて、報道の自由について触れる陳情書を国王に提示することが決まり、第三身分に同様の陳情書を送ることが決まった。
9日、この日は三部会の議題を財政問題に向けて現状を精査すること、そして奴隷制廃止も議題に挙げることが決まった。
また貴族が誰からも尊敬されるべきだという議案が90対60で可決。貴族と平民の刑罰を罪状に基づいて平等にすべきという提議は78対75票の僅差で否決された。
貴族の議会は、僧族の議会とも連絡を取る。三つの身分の連帯は貴族を中心に各身分の代表同士で約束されたが、貴族の特権に関しての考えは貴族の中において割れていた。
10日は日曜日だが、貴族の会議は開催される。そして読み上げられた陳情書に基づいて新たに議題が追加された。つまり資本家への課税、相続権の悪用、異宗派との結婚、ユダヤ人の権利、教会の聖職禄、フランスで暮らす外国貴族の扱い、植民地行政の改革。
またある貴族はバスティーユを破壊して記念碑を建てることを提案する。第三身分への陳情書の使者たちも選定された。
11日、貴族の議会は、身分毎の審査を済ませる。第三身分に陳情書も送られた。
そして貴族の議会は第三身分の議員サンテティエンヌの提案により、三身分の調停役たる代表者と補欠20名の選出投票を始める。議会は選挙と投票に専心することになり、議題についての会合は当面保留された。
14日には、前日にパリの選挙で選出された貴族議員が合流。アドリアン・デュポール、クレルモン・トネール、ラリー・トレンダル、ルペルティエら10名である。
5月23日、調停委員会が発足。この日の貴族の議会では税制特権の放棄に関して議論が行われた。
貴族議員の一人カザレスは言う。
「今日、税金はとても多量に増加し、最も厳密な割り当ての助けを借りずには耐えられないが、貴族は彼の分担の費用を出すことを断るだろうか! 否! 諸君、こうした不正は彼の魂には無い。そしてあなた方が力を持っていたとしても、権力乱用の中で最も許し難い振舞いで自身の名誉を傷つけることを望まないでしょう!」
「あなた方の特権が正当であったとしても、それが不正に変わった今、公共の利益のためにそれらを犠牲にすることは、あなた方の寛大さと愛国心にふさわしいことでしょう!」
そして税制特権の放棄は、貴族の議会において可決された。
しかし三身分合同の調停委員会は資格審査の方法で対立し、立ち止まった。第三身分との亀裂は明らかになった。そして僧族は機能しない仲裁役として殆ど中立を取り続けていた。
5月28日の国王の介入は、一部の貴族議員にとってみれば彼らを代表として認めた国民に対する主権の侵害だった。その一方で三身分の連帯の必要性は理解されていた。第三身分もまた支持しなかった。ただ国王の介入を求めた僧族だけは全体として賛成した。
そして何より国王の調停もまた進展しなかった。
このどっちつかずの状態は貴族内部に潜在していた意見の対立を激化させ、少数派の離脱を導いた。
6月15日、国王の裁定を支持する多数派に対して、少数派の貴族議員クレルモン・トネールは言う。
「国王は行政権の唯一の預託者である。その地位のために彼は立法権に対して権限を行使することはできない。彼の権力は立法によって引き出される」
6月19日、クレルモン・トネールは議場をムニュ・プレジールに移す──第三身分との合流を意味する──動議を出し、これに同意した彼を含む46名の少数派貴族議員が議場で署名した。加えてオルレアン公は欠席ながら署名への同意を表明する。
貴族の多くは軍人出身だが、それが彼らの分裂の基準にはならない。パリ高等法院出身は3人いるが、その人数は高等法院出身の全貴族議員のうちの半数程度である。また47人のうち三十人委員会に所属している者は6名ほどで、数的に支配的ではない。
より顕著な傾向は選挙区に見られる。
彼ら貴族議員は多くの場合一度の選挙で選出される。未成年と女性も代理人を通して投票出来た。彼らは3万人前後の投票を巡って競い、数十から数百の得票数で当選した。彼らは第三身分同様、当選後は三部会開催まで陳情書に目を通し、整理する業務に追われた。開会後に当選したパリの貴族議員は三部会開催中に合間を縫って要望書の読書をしている。そしてパリで当選した貴族議員10名のうち8名がこの47名に含まれていた。またドーフィネ、フランシュコンテ、トゥールの代表議員もその殆どが47名に含まれている。
47人のうちにラファイエットやラメット弟は含まれない。
去る5月6日、ラファイエットに向けて将来のアメリカ大統領トマス・ジェファーソンが第三身分に加わるよう求める手紙を書いている。ジェファーソンはラファイエットとは独立戦争以来友好的な間柄だった。彼は当時駐仏大使としてパリに滞在していて、三部会の開会式にも顔を出していた。
手紙にはこうある。
「あなたの原則は明らかに第三身分にあるが、あなたへの投票者は第三身分に反するものだ」
単純に投票者が貴族であると読むこともできるが、ラファイエットの選挙区リオンでは彼以外の4人の当選者が国王の支持者だった。少数派のうちの47人が動きを見せたとき、ジェファーソンはラファイエットが彼の投票者たちに自身の主張の転向か辞任を求める書簡を送っていると記録している。
6月23日、国王による親臨会議が開催された。三部会議員が集まり、国王の改革案を謹聴する。税制改革、地方三部会の拡大、王室賦役などの廃止が挙げられる。5月8日に求められた報道の自由は検討され、貴族の特権は保持された。
貴族の多数派は特権が関わらなくとも王の裁定故に支持したかもしれないが、少数派は原則通りに反対した。
少数派の貴族議員ラリー・トレンダルが言う。
「さあ行こう、第三身分へ!」
2日後の6月25日、47人の貴族議員は第三身分へ合流し、その代表者8名が第三身分との会合を果たした。