06.テニスコートの誓いⅡ~18世紀フランスのテニス事情~
ヴェルサイユのテニスコートjeu de paumeは、100年以上の歴史を持つテニスコートだが、その事績は殆ど知られていない。
この建物はルイ14世の時代、1686年11月30日に完成した。
長さ32メートル、幅12メートル、高さ10メートル。ホールの入り口の一つにはルイ14世の紋章が描かれていた。
ムニュ・プレジール(パリ通り22番地)からテニスコート(ヴェルサイユ通り1番地)まで地図上では1kmほど。三部会議員たちは徒歩で移動している。テニスコートは屋内にあったから雨を防げたし、数百人の議員が集まるのにギリギリの広さがあった。
ヴェルサイユのテニスコートは、療養中のルイ14世が医者に勧められて健康のためテニスをする目的で建設されたものだ。しかしテニスコートが完成した頃には彼はまだ病床にいた上に、回復した後にはビリヤードに夢中になっていてそこで遊ばなかったし、立ち入ることも殆ど無かった。
ここで最初にテニスをしたのは王太子ルイ(※ルイ14世の長男。15世の祖父)である。完成して間もない12月3日の夕食後には一日中テニスをしていたという。
テニスは一階ホールで行われ、観客は二階のテラスから観覧していた。二階には隣の建物から入ることが出来る。この建物はテニスの選手たちが休憩する場所だったという。スチームサウナがあり、選手たちは暖炉の前で体を拭いたり、少年たちからマッサージを受けた。
テニスコートはかつて庶民禁制にされていた時期もあったが、基本的に無視されていた。
テニスの観覧はその競技を楽しむことが本来の目的だが、現代の多くのスポーツと同様に賭博性もある。15世紀頃のテニスコートは賭博場tripotとも呼ばれていた。どちらが勝利するかという賭けに数千リーヴルが賭けられた。胴元は確実に儲かった。
18世紀には、アルトワ伯(※後のシャルル10世)とシャルトル伯(※フィリップ・エガリテ)のテニス対決が記録されている。ヴェルサイユで行われたこの試合においてアルトワ伯は最初の1セットを取るが、シャルトル伯に2セット取られて敗北した。アルトワ伯が弱かったのではなく、シャルトル伯が線審に賄賂を贈っていたのだという。
王妃マリー・アントワネットはヴェルサイユで時折アルトワ伯のテニス試合を観戦したこともあったというが、この試合を見たかどうかはわからない。
テニスはフランス語でジュ・ド・ポーム(※手の平ゲーム)と呼ぶだけあって中世の頃は手で掴んで投げるゲームだったが、16世紀頃からラケットが使用されるようになった。
一般的なラケットのサイズは長さ58cmで、そのうちグリップとシャフトを合わせて38cm。重さは400~450グラム。本体は木製。主にアッシュ材frêneを用いる。紐は縦に18本、横に33本張られていて、グリップには細長い羊皮紙が包帯のように巻かれていた。左右非対称であり、利き腕に持ったときに打ちやすくなるようフレームが曲がっていた。
ボールは毛織物や布の詰め物の芯を羊革と紐で縛り、仕上げに白い布で包まれた。重さは70グラム。直径は6cmほど。
どちらも製造工程の一部において熟練した職人の技術が必要だった。
また衣服もテニス用の服とストッキングが勧められる。汗だくになるのでシャツは替えが幾つも必要だった。選手は地味な帽子を被り、ヒールの無い靴を履いた。
テニスコートにはネットが張られていて、天井や観客にボールが当たらないようになっていた。観客用ネットが設置されたのは18世紀半ばのことで、それまでは無かったようだ。
テニスコート内で選手間を隔てるネットもあったが、代わりにロープが使われることもあった。選手は天井ネットにボールを乗せたり、境界のネットかロープにボールを当てたときポイントを失った。
周囲を壁で囲まれているのでラインアウトは無い。判定を見易くするため、建物の壁は黒く塗られていた。
当時のテニスは、よく知られるように15ポイントずつ入るスコア制で、60ポイント先取で1ゲームを制する。デュースもある。3つ目の得点は40ポイントではなく45ポイントだった。
ゲームは6ゲームか8ゲームで、タイブレークもある。シングルスとダブルスがあり、そして1対2で戦うこともあった。
古い時代の独特な非対称ルールとしてトワtoitとシャッセchasseがある。
一方が攻撃側、他方が防御側となり、最初は防御側がボールを持つ。そして最初の一打はコート側面にある屋根toitを伝って攻撃側の陣地にボールを落とす必要があった。
続いて攻撃側はベースラインを越えるようにショットを返し、防御側はそれを防いだ。ベースラインを越えれば攻撃側に15ポイント。
バウンドは1度まで。しかし後壁および横壁に当たって跳ね返ってもバウンドとは見なされない。2回バウンドした後にボールを停止させた場所にシャッセマークが置かれ、両者がシャッセマークより奥を狙ってプレイし、成功した側が15ポイントを取った。
線審はコートの両端に置かれる。少年が担当し、前述のように賄賂で判定を覆すことが出来た。
屋外で行うテニスはロングポームlongue paumeと呼ばれていて、パリのシャンゼリゼ通りにテニスコートがあった。
ボールの代わりにシャトルコックを使う類似したスポーツもあり、摂政時代のオルレアン公が好んだという。イングランドのバドミントンはそういったスポーツの一種だった。
アルトワ伯やシャルトル伯以外にも、コンデ公がシャンティイのテニスコートで週に一度テニスを楽しんでいた。三人とも自前のテニスコートを所有していて、自身が遊ぶだけでなく優れた選手たちを抱えていた。
1780年、アルトワ伯のテニスコートはパリのヴァンドーム通りに建設された。
彼のお気に入りはマザリーヌ通りのテニスコートだったが、そこでの試合で観客たちが自分ではなく対戦相手を称賛していたことに腹を立て、観客たちに出ていくように怒鳴り散らした。
その後、アルトワ伯は悩み、そして自分のテニスコートを建てることにした。彼のテニスコートで活躍したのはシャリエという強打者だった。
18世紀で最強とされるのは1740年生まれの王者レイモン・マッソン選手である。眼鏡を掛けた彼は、ルイ15世の前で強打者シャリエ及び元王者クレルジェと1対2の天覧試合を行い、正確かつ変幻自在の打法を繰り出して勝利を収めた。
彼は個人的なテニスコートを所有していて、彼の弟子たちも旧体制末期に活躍していた。他にも旧体制末期にはバレやバルセロンといった猛者たちがいた。
17世紀にはパリに110件以上あったテニスコートだが、そのブームは徐々に終息していき旧体制末期には10件にまで減少していて、他の都市でも1~5件残る程度だった。多くのテニスコートは流行りの劇場へと改装されてしまったようである。
ルイ16世はテニスに興味を持たなかった。彼はヴェルサイユのテニスコートは勿論、1776年に歴史あるフォンテーヌブローのテニスコートを訪れたときも関心を示さなかった。
フォンテーヌブローのテニスコートはフランスにおいて現存する最も古いテニスコートである。
ナポレオン・ボナパルトはここで初めてテニスを経験し、この言葉を口にした。
「これはゲームの王様だ!そのうち休養のために遊ぶことを計画したいものだ。いずれ…!」
帝国時代、ナポレオンだけでなく、ラサール将軍ほか名の知れた何人かの将軍がテニスを試みたが、テニス文化は根付かなかった。復古王政の頃にはベリー公つまり後のシャルル10世がマザリーヌ通りのテニスコートでテニスを愉しんでいたことが記録されているが、王位についた後は年齢のせいかテニスに興じなかったようである。
フランスにおけるテニスの再興は、イギリスのテニス文化が伝来し、皇帝ナポレオン3世がテニスを奨励する第二帝政期からになる。