05.テニスコートの誓いⅠ
1792年12月11日の議場。
元・国王ルイの尋問を担当する国民公会の議長バレールは、その回想録で悲痛な心境であったと自己弁護している。彼の国王に対する措置について自己弁護する態度は一貫している。しかし望むにせよ望まぬにせよ、国民公会の議長である彼がその務めを果たさねばならない。
国民公会議長ベルトラン・バレール・ド・ヴィユザック。
元・貴族。トゥールーズ高等法院の弁護士で、セーヌ=エ=オワーズ選出の国民公会議員。革命期は中立的な派閥を取り纏めていた代表の一人だった。彼は雄弁家であり、一方では派閥を鞍替えする日和見主義者、他方は派閥より革命の成功に焦点を当てる愛国者と見做される。
是非はともかくその活動は精力的で、多くの報告書が残されている。彼はヴァンデの撃破のために雄弁を披露し、サンドニの王墓の略奪を建議し、テルミドール18日のクーデターにも関与し、反動の最中に逃亡した。
彼は回想録において国王への外見上の敬意を表したり責任を擦り付けたりしたが、何処までが本心かは不明である。
裁判の直前、バレールは議場に集まった観客たちに、審問中は静粛にするよう演説した。
「あなた方には王家の血筋を引く囚人と8月の不幸に敬意を払う義務があります。あなた方には全フランスの目が向けられているだけでなく、後世の裁定者や全ヨーロッパの注目が注がれています。これからの長い審問において、非難の兆候や騒めきが見られるようならば、私には観覧席を撤去する義務があります。国家的な正義は外部の影響に左右されてはならないのです」
そしてこれから始まる裁判において静寂は守られた。普段なら王党派に罵声を浴びせる観衆たちも、忠実に口を閉ざしていた。
半刻ほどで元・国王ルイが法廷に姿を現し、審議の幕が上がった。
誰もが座り沈黙する議場にルイ只一人が立ち尽くす中、バレールは委員会によって作成された質問書を朗読する。
「被告人ルイ。フランス国民はあなたを告発しています。国民公会は12月3日にあなたが公会によって裁かれるべきであると布告しました。そして公会は12月6日に、あなたが法廷で罪状認否を受けることを布告しました。私たちはあなたが告発した犯罪の宣言的行為を読む準備ができています。では座って頂いても構いません」
バレールはその回想録にて、質問書にルイではなく「ルイ・カペー」と記述されていたと告白する。
元・国王ルイはタンプル塔から法廷に連れて行かれるときに初めてその名で呼ばれた。議会場には裁判を見守る聴衆だけでなく、王の処刑を望む山岳派がいる。彼らが元・国王ルイだけでなくバレールをも監視していたにもかかわらず、バレールは質問書に書かれていたその名で呼ばなかった。裁判記録は確かにそれを示している。
元・国王ルイは腰掛椅子に腰を下ろす。本来、椅子は用意されていなかった。フェルモン司祭が裁判前に動議を出し、椅子を置くことが認められたのだ。
そしてジャン=バティスト・マイユが長々と国王の違法行為を告発した後、議長バレールは告発の一件一件について審問を始める。
「被告人ルイ。フランス国民はあなたが自由を破壊することによって専制政治を確立するために、多くの犯罪を犯したとあなたを非難します。第一に、あなたは1789年6月20日に代表者の集会を中断し、彼らの集会所から暴力をもって彼らを追い出すことによって人々の支配権を試みました。これはベルサイユのテニスコートに制憲議会議員Assemblée constituanteによって設置された議事録procès-verbalで証明されています」
「続く6月23日、あなたは国家に法律を指示することを望んでいました。2つの王室の宣言は、すべての自由を破壊し、そしてそれらを分離するように命じました。あなた自身の宣言と議会の議事録はこうした試みを証明しています。何か答えるべきことは無いでしょうか?」
元・国王ルイは動揺することもなく端的に答える。
「当時、朕の行動を制約する法律は無かった」
当時──即ち全国三部会開催中のヴェルサイユ。
三部会に集結した三つの身分は、議員資格の審査を全体でやるか身分毎にやるかでまず議論があり、開会後しばらくは身分毎の代表の選出に費やされた。第三身分は最初に選ばれたジャン=シルヴァン・バイイを含む20人の代表、さらに補欠20人を選ぶために2週間以上掛けることになる。
5月18日にはミラボーが僧族と結んで貴族と対立する方針を提起する演説を行った。第三身分はそれまで何度か貴族の代表と互いのカイエの交換を行っていたが、僧族とは何もして来なかった。
また僧族シェイエスを第三身分の代表として認めるか否かの議論に加えて、他の身分との協議する提案、第三身分の立場の正当性を示す宣言を行うという動議が出される。シェイエスは翌日、第三身分の代表の一人として認められた。
23日には各身分の代表から選ばれた委員による調停委員会が開催され、貴族と第三身分の三部会に対する考え方の違いが浮き彫りになった。
第三身分は僧族への説得工作を始める。
5月28日、国王が仲裁に乗り出して三つの身分に申し入れの書簡を送る。貴族はその日に三部会についての考え方に関する議決を取り、意見をまとめた。そしてそれを根拠にして第三身分の一部は貴族が王の申し入れを拒絶したと批判する。無価値な議論は国王の調停によって解決されたかもしれない。
しかし国王の調停は、予てより具合が悪くヴェルサイユの行進にも参加出来なかった王太子が病死したことにより先送りにされた。王太子ルイは1789年6月4日、8才で亡くなった。アントワネットの乳母兄弟ジョゼフ・ウェーバーは、このとき彼女の髪が白くなってしまったと記述している。
この頃から僧族からの第三身分への接触が増加していく。第三身分に合流する司祭も出て来た。彼らはパリの混乱と困窮の解決を理由にしていた。パリの動揺は既に始まっていたのだ。
10日には公に他の2身分に第三身分への合流を求める宣言をする。
17日、第三身分は国民議会を自称し、税制を廃止した。19日に僧族が第三身分への合流を決議する。
そして6月20日の朝、第三身分議員たち、そして多くの観覧希望者たちは議場──ムニュ・プレジールの閉ざされた扉の前で立ち往生していた。その扉は封施錠されていて、壁に幾つもの張り紙が貼られていた。
議場を閉ざす下士官sous lieutenantガブリエル・ミシェル・ド・ヴァッサンは張り紙の通りに告知する。
「国王の命により、ムニュ・プレジールは22日に開催する予定の国王会議séance royaleの準備のために閉鎖された」
議場がなければ国王会議が終了するまで国民議会は中断されなければならない。議員たちが開会する権利を要求して抗議すると、ド・ヴァッサンは抗議書類の作成の場を外庭に用意し、代表者たちを案内した。そしてその作業中、俄かに雨が降ってくると、彼はムニュ・プレジールの中に入るよう勧める。
そこで代表の議員たちは設備の解体された広間を目にした。続いて扉の前に留まっていた多くの議員たちも建物の中に入ろうと動き始めた。
騒動を察したド・ヴァッサンは剣を抜いて、事態を収めるように代表たちに要求する。
強引に入ろうとすれば血を流すことになっただろう。議員たちは議会は開催されるべきであるという意見を共有しつつも、それが賢明な方法に拠って行われることを望んでいた。
そこでギヨタン博士の提案。
「この近くにある屋内テニスコートjeu de paumeに移動するのはどうか」
代表の議員バイイが先頭に立ち、議員たちが続く。彼らは小雨に晒されながらテニスコートに向かった。
ヴェルサイユの屋内テニスコートは議員が集まるのには十分な広さだった。椅子は5,6席ほどが用意されたが、皆座ることを拒否した。
次いで衛兵たちが駆けつけ、今度は自らテニスコートの警備に名乗り出る。議員は勿論、会議の観覧を望む者たちは通行を許される。観覧席は一杯になり、集結した議員たちは議会の成立を互いに祝福した。
議会が始まり、まずバイイが三部会の中断に関する式部長官ド・ブレゼ侯からの書簡を読み上げた。議会はこの合意に関して国王からの手紙が必要であると結論する。
続いて議会をパリに移すかどうかの動議が出る。危険すぎる。否決。
それから議員ムーニエが宣誓すべきであると提案。こちらにはすぐに賛同の声が上がる。少々議論した後、議会宣誓が行われた。
「公序良俗の刷新を実行し、そして王国の真の原則を支える王国憲法の制定を検討する国民議会に対して、その審議の継続を妨げられることは何者にも出来ない。どのような場所であっても、あるいは強制的に確立されたにせよ、最終的にその構成員たちが集結する場所こそが国民議会である」
「この議会の全ての構成員は即座に厳粛な宣誓に同意し、決して解散することは無い。この王国憲法が確固たる基礎の上に確立されるまで、そして状況によってそうする必要があるならば、どこにでも集まる。そして当該の宣誓が誓約されたとき、議会の全ての構成員、その各自個人が彼らの署名によってこの揺るぎない決意を立証する」
即ちテニスコートの誓いである。
机の上に連判状が用意され、名前を呼ばれた議員は順番に一人一人手早くサインする。
ただ一人カステルノーダリ選出の議員マルティン・ドーシュが署名に反対opposantと書き加えた。この宣誓には国王の許可が必要である、と彼は言う。観覧席からは怒号が飛ぶ。そして説得も実らず全会一致とはならなかったが議会は再開された。