04.革命の始まりについて.下 ~旧体制の政府~
革命に至るまで国王政府が何もせず手を拱いていたわけではない。
1774年、国王ルイ16世は即位するとまずパリ高等法院を復帰させ、そして三頭政治の首謀者たちを追放することで、貴族や人々からの信頼を一時的に回復させた。
1774年8月にはモールパの勧めで海軍大臣ジャック・テュルゴーを財務総監に起用して財政改革を委任するが、先ずその前。テュルゴーの前任者テレーは三頭政治の一人だった。
国民から愛されなかった先王ルイ15世の頃から財務総監テレーは七年戦争後の困難な財政を支えてきた(※在任1769-1774)。彼は着任してすぐ軍事費の削減、官吏の削減、国債の金利の強制的な引き下げや支払いの一時停止を執り行う。また貸借定期金rentes(6-7%)や年金(10%)への新たな課税。先に触れたように無力化した高等法院に対して、二十分の一税の徴税期間延長を通すことにも成功した。経済学者でも銀行家でもない彼は他にやり方を知らなかったが、財政は比較的に見れば主に豊かな者たちの犠牲のもとに健全化された。
つまり三頭政治が崩れたとき多くの人々が喜んだ。
テュルゴーの示した複数の改革案の世論上の失敗は飢饉によるものだが、高等法院が利用したその事件は彼の更迭には十分ではない。高等法院は結局のところ問題点や憂慮すべき点を指摘しつつも、ブルジョワや領主に都合の良い穀物自由化を承認した。同様にギルド廃止や賦役の金納化でさえ承認された。
小麦粉紛争が起きると、テュルゴーは国王と共に暴動の首謀者を吊るし上げることで解決しようとした。
財政的には年金の支払い再開、土地台帳の作成、徴税請負人に投資して利益(※税収)の一部を受け取る慣習croupesの禁止、さらに1776年3月には銀行家アイザック・パンショーを支援して割引銀行Caissed'Escompteを設立した。資本金は1500万リーヴルで、1株あたり3000リーヴル。無担保で低金利(4%)融資するための基金で、個人からの預金と返済を保証するが、通貨価値の維持や物価の安定は目的としない民間銀行である。
この銀行は今後多用されることになるが、テュルゴー自身はそれを利用する機会が無かった。
間も無くテュルゴーは外交問題においてアメリカ独立戦争への不介入を主張したために大臣や王妃の信用を失う。
植民地防衛のコストによって植民地の利益以上の損失があるという彼の訴えは、植民地の保護のためにアメリカとの同盟は必要という論説に敗れた。
1776年5月、テュルゴーは解任された。
続く財務総監クリュニーの就任した短い期間、ギルド改革や穀物自由化などは全て取り消された。
他の事業として宝くじ融資がある。この王室宝くじは、他の全ての宝くじを廃止した上で実施された。最初のくじ券は一枚1200リーヴルで20000枚売られた。年金加入によって抽選参加権が得られ、4人が大当たりを引き当てた。こうして2400万リーヴルが国庫に入った。
1777年、財務長官(※外国人、平民、そしてプロテスタントであるという理由で、総監Contrôleur généralではなく長官Directeur généralという肩書きが与えられた)ジャック・ネッケルは融資を中心とした財政計画により、信用からなる王国の再建を試みた。
前項で触れた地方三部会も融資を受けるための措置である。多数決、第三身分の定数二倍、そして国王の指名による選任という様式において、伝統的三部会地域以外の地方有力者からの信用を得ることを目指された。
1780年2月、ネッケルは二十分の一税の一つを5年間延長した。高等法院はこの期限延長について積極的な反対をしない。2000万リーヴルを確保したこの戦時税はアメリカ独立戦争の終戦と共に停止を求められるだろう。
これ以上に重要な収入源として、ネッケルは割引銀行Caissed'Escompteから5億3000万リーヴルを無担保で借り入れる。これは年金や宝くじなどの形で借り入れられ、戦費に使われた。割引銀行自体の金利は4%に固定されていたが、仲介を経由した支払いは平均6%で、年間の利払いは4000~5000万リーヴル増加した。
官公庁の再編と管理の削減も積極的に行われた。収入役、王室や軍事の会計監査役など406の役職が廃止・統合された。
そして最終的に、徴税請負人の廃止も計画された。
民間委託していた業務を政府が吸収すれば政府の負担は増えるし、徴税請負人が得ていた利鞘や不正な利益を除けば税収自体に極端な変化はない。徴税請負人が行っていた税収の前貸しによる融資も得られなくなる。また一時的な負担とはいえ彼らを解雇することでさらに補償が必要になる。
しかし国家財政の統合を目的とすれば将来的には必要な措置だった。ただ最終的な実現には大きな強制力が必要で、旧体制で果たすことは出来なかった。
1781年には信用獲得のために王国の健全な財政状況を異例にも公開した。この「国王への1781年報告書compte rendu au roi 1781」は1781年初頭に公開された1781年の財務予想であり、結果とはズレが生じることになる。特に海軍・植民地費は実際のものより明らかに少ないが、少なくとも平時における財政黒字の可能性は好意的あるいは神話的に受け止められた。
1779年、海軍費に充てられた1億2000万リーヴルを不服とした海軍大臣サルティーヌは私的に2100万リーヴルを借入する。ネッケルが財政規律を乱したとしてサルティーヌを辞任させ、縁故あるカストリーズを海軍大臣に置き換えたことで権力を巡る政争を引き起こした。
ネッケルは国王評議会への参加と軍事支出の管理を国王に要求するが、支持を得られず辞任した。
しかしネッケルが得た信用は、7年後に王妃アントワネットからの招待を引き出すことになる。
後任の財務総監フルーリーは税制改革を提案する。彼はネッケルの報告書が実態と異なり、1500万リーヴルの赤字と莫大な借入があることを指摘した。自ずから融資に頼ることになり、信用を確保するためにネッケルによって人員削減された官公庁は、収入役など一部を除いてすべて元に戻された。
1782年にはアメリカ独立戦争の長期化に伴い、七年戦争以来の3つ目の二十分の一税が提案された。
1783年2月、国王や諸々の大臣を含む財務委員会を結成し、財政の責任は政府によって共有された。今まで財務を担う委員会自体は17世紀からあったが、政府全体で担当することは無かった。
3月には委員会において継戦派だった海軍大臣カストリーズとの海軍支出を巡る争いに敗れてフルーリーは辞任した。
ここに挙げる中で最も無能とされるドルメソンがこの後の財務総監である。彼の取り柄は歴史ある家柄、道徳的な人格、そして半年で辞めたことだった。
1783年4月、彼は債務返済のために宝くじ実施を試み、割引銀行から2400万リーヴルを借り入れた。これは年利4%、8年間で返済する計画で、毎年350万ほど返済することになる。
4ヵ月後、再び財政難に陥り、今度は割引銀行に毎月600万リーヴルの融資を4ヵ月間秘密裡に前払いして貰うことを計画した。
9月、アメリカ独立戦争の終結と共に通貨流出が起きた。そしてパリの債権者たちが現金の確保のために引き落としを求めたとき、政府への秘密の融資が発覚する。
ドルメソンは割引銀行に現金支払いを停止して手形と現金の交換を不可能にさせると、紙幣に法的価値を与えて発行を義務付けさせた。
信用が急落して割引銀行の株価は5000リーヴルから3500リーヴルまで下落する。今度は金銀の流出を禁止する法案が出された。金銀を外国に輸送することで正貨の価値を吊り上げて利益を得ている投機家がいる、といつものように仮想の敵を作りあげた。そしてデモが発生し、銀行の窓に石が投げられた。
最終的に紙幣の発行を停止させ、限度額を定めた払い戻しが再開された。
先の毎月600万リーヴルの融資は取り止めになった。そしてこの損失のために、再び宝くじが実施された。賞金の底上げの結果、実質9%の金利に相当した。
彼はフルーリーが撤回した税徴収の官営化への移行に彼も着手した。
10月、徴税請負人へ徴税権のリース期間(※6年ごとに契約する)と、二十分の一税の一つの徴税期間が終了が迫っていた。そこで彼は以前ネッケルが手掛けようとした徴税請負人の官営化という改革を試みようとして失脚した。
前払いした融資についての徴税請負人の返済要求に対応できなかったためだった。
1783年11月3日、カロンヌは財務総監に任命された。
カロンヌの政策は放漫財政で知られ、宮廷貴族へのばら撒きが積極的に行われた。アルトワ伯には1400万リーヴルの借金の肩代わり、
王妃アントワネットにはサンクルー城の購入費600万リーヴル、プロヴァンス伯やポリニャック夫人の借金、ゲメネ家とショワズール家の救済にも対応した。
これらの財源は割引銀行からの4億4000万の融資である。25年債と年金、宝くじなどからなり、金利は7-8%。年間3300万リーヴルの利払いが追加された。他方、減債基金caisse d'amortissementを設立し、負債返済の期限を延長した。
国王が1786年に行幸したことで知られるシェルブールの軍港の整備コストもここから供出された。
1784年からはラヴォアジェの提案に基づき、徴税を厳格化するためにパリ市周囲の城壁建設を開始した。ラヴォアジェは義理の父が徴税請負人で、その伝手で徴税請負人になった。徴税請負人は大抵コネでなる。
1784年から1785年にかけて割引銀行の利息引き下げが進められる。手形の利回りは投機に左右されず前期の業績のみに依存することになった。この引き下げは投資家比率が1717年の状況から様変わりし海外投資家が政府への融資の四分の一を占めていたためだった。
またカロンヌが投資を嫌っていたわけではなく彼自身、インド会社やパリ水道会社、ル・クルーゾ鋳造所などに積極的な投資を行っていた。
こうした浪費が経済を活性化させることは証明されなかったが、産業投資や技術投資、ささやかな公共事業投資は近世フランスにおいて産業革命の芽が出るかのような幻想を与えた。例えば気球、ガス灯、馬車の改良にパリ水道網。
勿論、起きない。起きたのは今後小規模な崩壊を繰り返すことになる投機ブームだった。そして1787年初頭から半年で5社の有力な金融家が立て続けに破産することになる。彼らの破産は、金融家に頼るフランス財政に負担を負わせた。
1786年、年間赤字は1億1200万リーヴルと予想され、3年前の二十分の一税の期限が翌年に迫るとカロンヌは税制改革プランを立てる。
二十分の一税に代わる現物の土地税である。土地は貴族や僧族が所有し、またブルジョワが投資の対象にしていた。今後新設される各地の地方三部会がこの納税者たちによって運営され徴税されることが期待された。
このプランを実行するために、カロンヌは1626年以来開催されていなかった名士会議の召集を提案する。三身分を招集する議会だが、議員は公選ではなく指名によって選ばれた。高等法院にならば議決を強いることは出来ただろうが、法案承認までの長い議論による遅延戦術が嫌われたのだろう。
1787年2月18日、カロンヌは二十分の一税の期間満了を受けて、1787年2月に割引銀行の資本金を1億リーヴルに増やし、紙幣1000万枚の発行を認め、7000万リーヴルを国庫に貸付する。
2月22日には第一回名士会議が開催された。144名の名士の多くは有力貴族と裁判官と上級官吏で、ラファイエットもいた。貴族でない者は5人だけだった。
そこでカロンヌは、ルイ14世の時代から財政難が続いていたと訴えた。
カロンヌの提案は、土地税およびその納税に関わる地方三部会の設置、国内における穀物の自由化、そして国外へは農作物の保護関税を掛けて輸出する制度、また道路賦役と塩税とタイユの削減あるいは減額、印紙税。
多くの提案は好意的に受け止められたが、土地税と印紙税は反対された。
土地税はブルジョワが多くの土地を所有することにより地方三部会での指導力を失うことを貴族が嫌ったことが理由だった。印紙税は契約書からパンフレットまであらゆる印刷物にかけられ、また昇進や昇格のための任命状にもその地位に応じた額が課されることになる。法院はそれが穀物の自由取引に反対する関税と見做して反対した。
1787年4月、カロンヌは名士会議の失敗によって失脚した。最終的に借入6億3500万リーヴル。毎年4500万リーヴルの利払いが残る。
大司教ブリエンヌは財務総監ではなくモールパと同じ国務大臣で、カロンヌの失敗した第一回名士会議の議長でもあった。国務大臣は前任者のヴェルジェンヌが2月に急死してから空席であり、ブリエンヌはカロンヌの失脚の後、王妃アントワネットの強い支持によって国務大臣に就任した。
1787年8月、ブリエンヌは現物土地税を改めて土地上納金として印紙税と共に、二十分の一税に代わる永続的な税金として高等法院に法令の承認を求めた。
法院が反対したので、法院をトロワに追放する。
9月には土地上納金と印紙税は撤回され、二十分の一税の実施期間は5年間延長されることになり、5年後の1792年に三部会が開催されることが決まって高等法院はパリに戻った。
11月には、王室会議において三部会開催を条件として5カ年分割4億2000万リーヴルの融資の保証を得た。
1788年1月、宮廷に対して緊縮財政が展開され、国王の贅沢は制限された。厩舎係、猟犬係、そしておまる椅子運び係の廃止など、王妃の人員も173の役職が削減された。
8月、国庫が危機に瀕して、ブリエンヌは割引銀行によって1億リーヴルの融資を確保する。紙幣を強制流通させるために、債務の現金支払いを停止、また500リーヴルを超える給与はその一部を紙幣で支払うことになる。
8月25日、三部会開催が決定したとき、ブリエンヌはその地位を辞任した。ただし彼の立ち上げた財務省は今後も存続することになる。
スイスに亡命していたネッケルは、王妃アントワネットの使者に呼ばれて再びフランスに現れる。
パレ・ロワイヤルでは爆竹が鳴り、歓声が上がった。人々は彼を待っていたのだ。彼らの為の働いたことは無かったが、少なくとも嫌われるようなことをしなかった数少ない政治家として、最も大きな信用を持っていた。
彼自身は乗り気ではなかったが、それでも財政立て直しに関わるプランは存在した。
ネッケルにはひとまず三部会開催まで財政を維持することだけが求められ、国王評議会への参加も認められた。
9月、彼はまず最初に、債務の一部を紙幣で払うことを禁止して信用を取り戻した。
そして国庫には自らの資金200万リーヴル、聖職者の寄付180万リーヴル、さらに割引銀行からの前払い金が2500万リーヴル、パリ公証人協会の融資数千万リーヴルが加わった。
1788年11月からの第二回名士会議においては、三部会の開催方法に関する議論が行われた。
そして1789年5月5日、三部会開会式の日。
正午、国王と王妃がヴェルサイユのメニュ・プレジールに現れる。
「国王万歳!」の声がここでも上がる。4時間席で待っていた議員たちは全員起立し、拍手した。
国王は席に着くと短い演説をする。
「我が臣民諸君よ、予てより朕の心が待ち望んでいたこの日がついに到来した。そして朕は、朕自らが指導することを誇りに思う国家の代表者たちに囲まれている」
「全国三部会の最後の開催から、長い時間が経ってしまった。そして、こうした会議の開催は廃れたように見えるにも拘らず、朕は王国が新たな力を呼び込み、幸福の新たな源を開放することのできる慣習を蘇らせることを躊躇わなかった。
「政府の負債は、朕が王位についたとき既に莫大であり、これはまだなお朕の治世の間に更なる膨張を遂げている。それは費用の嵩む、しかし名誉ある戦争が原因である。増税は必然的な帰結であり、そしてそれらの分配の不平等も明白になった」
「もしも朕たちが賢く、そして節度ある意見の結集を急がなければ、漠然とした不安や過度な改革への欲求が精神を襲い、そして結局のところ全く見解を見失うだろう」
「この信頼に基づいて朕が諸君等を集めた。我が忠節なる臣民諸君。そして朕は、第一・第二身分が金銭的な特権を放棄するという意向を示したことから、それが正しかったと深く感銘を受けている。朕の思い描いた希望は、意識を団結させた全身分が、一般的な公益を重んじて朕と共に協力することであり、欺くことは無いだろう」
「朕は支出の相当な削減を命じた。この点に関して、諸君等はさらなる意見を提案していただきたい。朕は熱意と共に受け止めよう。しかし、最も厳しい倹約が提案できる可能性にも拘らず、朕は恐れている。我が臣民諸君よ。朕が望む通りに、朕の臣民を直ちに援助することが出来ない可能性があることを。朕は財政の正確な状況を諸君等の目の前に示す。そして諸君等がそれを検討した際に、最も効果的な手段を提案し、恒久的な秩序を確立し、公的信用を強固にすることを、朕は予め保証する。諸君等が主として取り組む、この偉大で有益な仕事は、国内の幸福と国外の尊敬を保証するのである」
「人々は騒然としているが、しかし国家の代表者の会議は疑いなく、良識と分別のある助言に耳を傾けるだろう。臣民諸君よ。最近のいくつかの事案においてそれから逸脱していることについて、諸君等は自らで判断するだろう。しかし諸君等の討議における優位な洞察力は、寛大な国民による国王たちのための愛が独特な特徴を絶えず作り出してきた真の感情に応えるだろう。朕はそれ以外の全ての思い出を遠ざける」
「朕は王国の原則に愛着を持つ忠実な人々の中にいて、公正な君主としての権威と権力を熟知している。彼らはフランスを輝かせ、栄光を齎してきた。朕は支援しなければならず、そして常に彼らの擁護者になるだろう。しかし公衆の幸福の最大限の利益を期待できる全て、民衆の第一の友である君主に要求できる全てについて、諸君等は朕の思いやりを期待しなければならない」
「臣民諸君よ、この会議の中を幸福な一致が支配し、そしてこの時代が王国の幸福と繁栄のために永遠に記憶されるべきものとなりますように! これは朕の心からの望みであり、これこそが朕の最も熱い願いである。そして最後に、朕の臣民に対する愛と、そして朕の使命の正直さへの真摯な対価を待ち望んでいるのである」
拍手が沸いた。国王が帽子を脱ぎ、再び被ると、貴族と第三身分もそれに倣う。第三身分の一部が帽子脱ぎ始めると、国王も帽子を脱いだ。国王は王妃に一言。それから貴族も第三身分もちらほらと帽子を脱ぎ始める。
それから王璽尚書ヴァランタンの演説が続き、次いで朗読係が財務長官ネッケルの演説文を長々と演説する。
財政についての演説は2時間以上続いた。
貴族は既にネッケルによって解決された財政問題で三部会が開かれたことに不満を持ち、第三身分は税制と債務に関する演説を受けて地方の行政官のように扱われたことを不満に思った。
確かに彼の財政問題に関する演説は三部会開催の主要な理由と合致している。しかし国王政府が募集した陳情書に見られる要望とはかけ離れていた。