03.革命の始まりについて.中 ~三部会と選挙戦~
1789年5月4日の朝7時、ややこしい選挙で選ばれた全国三部会議員がヴェルサイユのノートルダム教会に集う。
約800人の代表者──本来選出されるのは約1200名だが、まだパリの第三身分議員の一部をはじめ選挙が終わっていない地域があったし、ブルターニュでは貴族がボイコットしていた。(※ただし以下のテキストは一通り集合した際の人数を示し、行進に参加していない人物の名も挙げている)──は、階級ごとに統一された衣装で、ノートルダム教会からサンルイ教会までの2kmを順序付けて行進することになっている。
この行進に参加した貴族のフェリエール侯は煌びやかにその場面を描写する。そして見ていた筈がないミシュレやトマス・カーライルも情熱的に空想を思い描いた。
10時、国王が教会に到着すると、三部会議員が総出で拍手をする。教会の通路で身分毎に待機していた議員たちは蝋燭を片手に二列に並んで出発し、最後に国王一家が続いた。
先頭を行く(※フランス衛兵とスイス衛兵に後続する)第三身分議員は全員がシンプルな黒服ネクタイ。
彼らのうち裁判官や弁護士や書記など法律関係者は360名ほどで最も多い。ここにまだ無名だったアラス選挙区のロベスピエール、当時から名を知られている者にはバルナーヴ、ムーニエがいる。
シェイエスは僧族、ミラボー侯爵は貴族だが、第三身分として選挙に参加した。こうした第三身分枠で当選した貴族や僧族は他にサンテティエンヌやアルザスの代表者たちなど10数名いる。
商人層は100人ほどで銀行家は少数。他に市長、学校長、医師。天文学者バイイ、ギヨタン博士などの学者もいた。
最後に、国民の7割近くを占める農民の出身はミシェル・ジェラール、コランタン・ル・フロック、ピエール・フランソワ・ルプートルなど20~40人ほど。みな富農か大借地農であり、時には商人を兼任している。
レンヌ県の代表の一人である農民ジェラールは伝統的なブルターニュ農民の装いをしてカツラを被らなかったので特に目立っていた。
5月2日の夜、ルイ16世は寝室で第三身分議員に対して挨拶していたが、彼の順番が来ると親しみ深く「こんにちは、親爺さんBonjour, mon bonhomme」と声を掛けている。
第三身分を味方につけることで第一、第二身分の反対を制圧して税制改革は果たされ、王国は財政危機を乗り越えられるだろう。とはいえ他の第三身分には話し掛けなかったのだが。
その後を歩く貴族は羽付き帽子を被り、腰に帯剣している。一杯の観客は、数メートル間隔で配置された衛兵たち、そして同様にして太鼓やトランペットを奏でる楽隊の後ろで、彼らに対して沈黙の敬意を表した──と、フェリエールは回想する。
彼らの多くが軍隊経験者だった。最も名を知られているのはラファイエット。少数だが、高等法院の元判事も何名かいる。後者は革命後に立憲君主派になった例が複数ある。オルレアン公はその隊列から少し遅れるように歩いていて、とても目立っていた。
続く僧族のうち200人前後の司祭と40人前後の修道院長はそれぞれ黒服を着て歩いている。間に声楽隊を挟んで紫色の司教服を着た司教は40人ほど。特に書くことは無い。
そして国王一家。コートを羽織る国王、日傘をさす王妃、そして王子、王女、王妹、アルトワ伯とその夫人。大臣に侍女たち。
大衆は聖体の少し後ろを歩く国王に「国王万歳!Vive le Roi!」と叫んで敬礼するが、その後に続く王妃には拍手を送らない。
カンパン夫人はその回想録で、王妃マリー・アントワネットが通り過ぎるところで敢えて「オルレアン公万歳!」と叫ぶ女たちを描写する。窓から行列を眺めていたスタール夫人はヴェルサイユやパリから好奇心旺盛な市民が集まっていたと書き、そして隣にいたモンモラン夫人の発言を記録する。
「これからフランスと我々に大きな災いがやってくるでしょう!」
さて、全国三部会とは何だろうか。
この会議が1614年以来175年ぶりの開催であることは当時の人々も知っていた。
175年前の三部会開催の発端は、国王の従兄弟であるコンデ公アンリと摂政の王母マリー・ド・メディシスの対立にあった。1614年5月、コンデ公はアルデンヌの要塞に身を置き、権力の奪取を目論んで、ルイ13世の結婚の延期と三部会の開催を要求した。そしてマリー・ド・メディシスの摂政政府は反乱軍を全て買収した上で、結婚の延期に同意し、三部会の開催を決定した。
1614年10月27日、26年ぶりに開催された三部会の議員には、僧族140人(リシュリューを含む)、貴族132人(コンデ公を含む)、第三身分192人の合計464人が選出され、世襲売官制度(paulette)の廃止、貴族年金の削減、決闘の禁止、プロテスタントの禁止などいくつかの提案がなされた。そして三つの身分の代表者たちによってそれぞれの陳情がまとめられ、1615年2月23日の閉会日に国王に提出されたが、最終的に何も決定されることはなかった。コンデ公の反乱は今後も発生するが、三部会は一先ずその場凌ぎとして機能した。
以来、三部会は開催されなかった、とはいうものの三部会の開催計画自体は旧体制の間に幾度も練られてきた。
例えば1717年の三部会開催計画はスペイン継承戦争に伴う財政崩壊に際してであり、1789年の開催理由と似ているが、摂政時代である点で1614年の三部会にも似ている。
当時、摂政オルレアン公は、サンシモン公からルイ14世の抱えていた17億リーヴル以上の債務の解決に三部会の開催が提案されていた。三部会において財政状況を説明し、債務不履行の危機を乗り越える方法を討議するのだろう。
だが、その選択肢は取られなかった。このとき債権者の6割が国内の新興貴族から成っていたため、三つの身分の揃う議会で不利益を強いられることは望まれず、オルレアン公は国立銀行の設立を計画してジョン・ローを任用した。
他にフロンド、七年戦争の後にも開催の提案だけは行われている。
三部会の参加者は、国民投票に委ねられる。投票権は25歳以上で納税している男子に与えられた。選挙地区ごとに貴族は貴族の代表を、僧族は僧族の代表を、第三身分は第三身分の代表を選んだ。
第三身分では選挙人制度が採用される。パリや農村の人々は地区や地域の代議員を選出し、その代議員たちが三部会に赴く代表を選んだ。他の都市ではさらに1,2の段階を踏んで代表を選出した。
1789年の三部会議員定数は史料によってばらつきがある。20~30人ほどの振れ幅はあるが、大雑把に書くと第一身分、第二身分は300人前後、そして第三身分はほぼ2倍の600人前後だった。
この第三身分の定数2倍という状態は、財務総監ネッケルやその後任たちが各地に開設した地方三部会、そしてラングドックで古くから行われている伝統的な三部会と同じである。
1778年、ネッケルによってベリー州のブールジュ市で設立された地方三部会は、貴族12名、僧族12名、第三身分24名。国王が16名を選出し、彼らが残りの32名を指名した。第三身分は領主権を購入した者や地方官吏、裁判官で構成されていた。彼らの会議は封建的諸権利を承認しつつも、本来無償の奉仕とされていた道路整備を第三身分に対するタイユ増税を財源にして行った。
1787年にはドーフィネで無許可の地方三部会が開かれるが、このときの第三身分も定数が2倍だった。
元々地方三部会は百年戦争以来、フランス国王が地方に融資を募る際に開催されてきた。フランス各地に地方総監が設置されてからも、ブルターニュやラングドック、ブルゴーニュ、プロヴァンスなどでは地方総監の代わりに地方三部会が徴税と国王への融資を行ってきた。
ネッケルによる地方三部会の新規創設は、前任者であるテュルゴーおよびその弟子デュポンの影響にある。そして彼らの重農主義的な考えはオノレ・ミラボーの父親が書いた著作「地方の有用性l'utilité des etats provinciaux」で言及される地方三部会の国家財政に関する有用性(※特にラングドックの)に由来するだろう。
1789年の全国三部会の第三身分の定数倍化は、地方三部会の例に倣うならば当然の流れだった。
1788年9月25日、高等法院は第三身分の定数の倍化を支持せず、その為に世論の支持を失う。ただし彼らは「1614年の方式に従う」と表明しただけであり、11月には第三身分の定数倍化に合意している。
少し遅れて国王は12月27日の国王評議会で宣言する。
「公正な法廷において、国民の100分の98の利益が残りの100分の2の利益よりも多くの代表者と調査官と代弁者を必要ともしないと、朕と諸卿らは主張できるだろうか?」
「より厳密にいえば100分の99と100分の1の比較になる。そしてこの最後の1%の部分で、まだなお多くの人物が代表者の平等性の支持を表明して雄弁に発言していたと朕は信じる」
評議会では反対する者もいたが、国王の決断によって方針は決定された。
1789年1月1日、国王政府の代表ネッケルは選挙開始日と三部会開催日、財政が危機的であることを発表すると共に、第三身分の定数の倍化を正式に発表した。
(※三部会開催日までに選挙は終わっておらず、ヴェルサイユ宮殿の三部会会場ムニュ・プレジールも完成していなかったので、開会式は当初の予定の4月27日から5月5日に繰り下げられた)
高等法院や国王政府の方針転換にも拘らず、彼らを支持するか否かに関する世論は新たなメディアが構築するようになっていた。
1788年7月、広く意見を求めるという名目で検閲制度が停止され、出版の自由が決定される(※新聞を除く)。11月には結社の自由も許可された。
それから封建制を批判する多くのパンフレットが出版された。例えばシェイエスは彼の最初の書籍「特権に関するエッセイEssai sur les privilèges」で貴族による官職と富の独占を糾弾し、ヴォルネーは「国民の伝令係la Sentinelle du peuple」において庶民の無償奉仕義務や貴族の税制特権を批判する。
第三身分が財政難を把握していなかったというわけではなく、セリュッティの1788年の出版物「フランス人民の回想録Mémoire pour le peuple françois」では王国の破産とそれに伴う第三身分のリスクについて触れている。またギヨタン博士は「パリに住む市民たちの請願書Pétition des citoyens domiciliés à Paris」で、貴族特権が軍事的貢献によって認められているにも関わらず、国家財政が軍隊の維持費で圧迫されていると指摘する。
検閲制度は停止されていたものの1788年12月の時点で「フランス王国のすべての自治体において取り上げられる審議」は全て焚書にされた。
これらのうち最も有名な作品シェイエスの「第三身分とは何かQu'est-ce que le Tiers-État」である。匿名で書かれたこの書籍には、各身分ごとの審議投票制に反対して完全な多数決制──頭数制の支持、各身分の税の平等、憲法の制定が提起されている。
ギヨタン博士の本は数千冊が印刷され、シェイエスの本は数万冊印刷された。
18世紀末のフランスの識字率は男で47%、女では27%だが、一般に地方の農村では極端に少なく、都市部──特にパリでは男の90%、女の80%が文字を読むことが出来たのだ。
1789年1月24日に選挙制度が発表される。また国王政府への陳情書cahiers de doléancesの募集が始まった。
陳情書には、身分や職業毎に王政への要望が纏められた。
貴族は租税の平等、社会的自由、議会権力の強化を要求し、僧族は司教の選出制度の公平制、そして弱者のためのより良い救済や治療について嘆願する。
第三身分の都市ブルジョワは自由市場と租税の平等、また農民は基本的に減税と封建的諸権利の撤廃を要求した。こうした類型性は、オルレアン公のサークルや、また各身分の識者たちで構成される三十人委員会が各地に配布した陳情書のお手本にあった。
陳情書は地区ごとに三部会議員に選ばれた地区代表者たちが取りまとめてヴェルサイユに届けることになっていた。
この時期からパンフレットには封建制批判に加えて選挙区民をターゲットにしたものが現われる。
代表的なものとしてロベスピエールの「アルトワの民衆に告ぐA la nation artésienne」がある。彼はアラス代表の座を巡る選挙パンフレットにおいてアルトワの地域特有の義務や税金の負担、金で官職を買った役人たちの政治的腐敗を問題提起し、アラスの第三身分の中ではあまり高くない順位で当選した。
ミラボーも選挙区のプロヴァンス住民に向けてパンフレットを書いたが現存しない。
回想録作者のデュ・パンはこの時期に世論が国王や専制主義や憲法の話題から階級闘争に移ったと記す。
立候補者たちが選挙戦で勝つためには階級毎に異なるターゲットの支持を得る必要がある。そのパフォーマンスに煽られて世論が階級対立に移行するのも必然だろう。
ヴェルサイユの行進が始まってから2時間半。12時30分に三部会の行列はサンルイ教会に到着する。国王と王妃は紫色の天蓋の下、その周りに親族と高官たち。身廊前方の右側の席は聖職者の席、前方の左側の席は貴族の席、そして後方の席が第三身分の席だった。
聖体拝領のミサが始まり、O Salutaris Hostiaが歌われる中、聖体が祭壇に運ばれていく。
それからナンシー司教ラ・ファーレが説教を始めた。長いミサの間、国王は寝ていた。
ミサが終わると夕暮れだった。国王は拍手の中で宮殿へと去り、議員たちはそれぞれの借り宿に帰る。
──翌日、1789年5月5日は三部会開会式。