23.幕間Ⅰ ~フランス財政の再建とその犠牲~
旧体制の厳しい財政状況と、その解決のために三部会招集が必要とされたことは書いた。そして議員たちがまだ十分な知識が無い為に財政問題を後回ししていたこともこれまでに書いた。
革命政府の財務委員会は7月14日に設立されるが、四度開催された会議は委員長の選定や財務資料の収集と報告に充てられていた。そして議会が財政問題に取り組み始めたのは、8月7日の第五回議会でジャック・ネッケルが復帰してからだった。
この日、ネッケルは今後2ヵ月間の資金のために、3000万リーヴルの融資の必要性を訴える。他にもネッケルは最近の騒動における国王財産の損失や、パリで徴税や債券回収が出来ないことに触れたが、この二つは却下された。
財務委員会で融資に関する2日間の議論が行われる。当然のように委員たちは融資そのものには同意していた。ノアイユ子爵の提案により、金利はネッケルの提案した5%から4.5%に引き下げることになる。最低金額は1000リーヴルに定められた。利息の支払い時期は定められたが、償還時期は定められず、何より債務が無くなるまで償還は強制されないと決められた。
「国家の公債、フランス議会名義の公債、高潔で感受性の強い国民に紹介する最初のそれは、二次的な財力で支える必要がなく、敢えて成功を疑うこともありません」
当然、この融資は失敗する。ネッケル個人への信用として260万リーヴルが融資されたが、議会の融資に関する判断は話にならなかった。
8月27日には、ネッケルは再び融資計画を打ち立てる。8000万リーヴルの融資を求めた。これは金利5%で提案される。そして、半分を証券で、もう半分を現金で返済することに決まる。今回議会はネッケルの決定を変更しなかった。
今回は4700万リーヴルの融資が集まったが、目標には大きく不足する。さらに証券の方はさっさと売却されたので、融資は実質的には半額になった。
9月24日、国庫には300万リーヴルしか残っておらず、年末までに8000万リーヴルが必要だった。そこでネッケルは国民に対して収入の1/4を供出させる強制的かつ愛国的な融資の実施を提案した。
26日、ミラボーはその雄弁でネッケルを擁護する。
「国家予算は無に帰し、国庫は空であり、公権力には権限が無い。諸君、そのような状況下では、財務大臣に計画を申し出ることも、彼が提案するものを検討することも不可能のように見えるでしょう。あなた方に判断する時間がない以上、保証することなしに提案を受け入れましょう」
「大臣を信頼しましょう。ネッケル氏は成功するでしょうか? 私たちは私たちの用意した彼の成功を祝福します」
「決してそのようなことがなかろうとも! 財務大臣が困難な計画に際して座礁したならば、疑いなく国家は親愛なる我々の舵取りが触れさせた暗礁によって大きな衝撃を被るでしょう。しかし衝突してもあなた方は落胆しないでしょう。諸君、あなた方の信用は無傷ですし、共和国も完全に残ります」
実施前に教会の銀製品を溶かそうという意見も出た。
10月1日、ネッケルは計画を変更し、年収400リーヴル以下の国民からは徴収しないことを決定する。当時のフランス国民の年収に関しては第13部分で書いた通りで、つまり貧困層以外が徴収対象となる。
12月21日にこの計画は、議会にとってより魅力的な計画に取って代わられるが、議会の決定が実行されずとも豊かな人々から貧しい人々に至るまで様々な愛国的寄付が実践された。議員たちは自発的に銀の装飾を供出し(11月20日)、聖職者たちに対しては銀器供出の法案が出された。こうした寄付の合計は1790年初頭の時点で1000万リーヴルにも満たず、必要な額には届かなかった。
融資に頼っても解決できない問題において何をすべきか。
支出の削減と増税だ。
王立図書館の年間購入冊数は真っ先に削減された。これまで6万3000冊が毎年購入されていたが、2万冊まで減らされた(9月29日)。
貨幣と鉱山委員会も施設閉鎖による削減案を提示し、70万リーヴルほどが賄われた(12月14日)。
年間支出3100万リーヴルの年金も削減ターゲットの一つだった。これより多い支出は軍事費や植民地の維持費くらいだ。
旧体制の年金は国民全員に提供されるものではなく、第4部分で触れた王室宝くじの賞品だった。それはルイ16世の時代に多く発行され、財政難真っ只中でその場凌ぎとして機能していたが、年金の支払いの方は国庫の負担になっていた。
早くも8月8日、ミラボーは彼の年金2000リーヴルを放棄した。
10月12日、年金委員会によって年金削減案が提示される。当初の提案は非常に累進性の高いもので高額受給者年金の8割を削減されることになっていたが変更された。300リーヴル以上の年金を全て廃止する案も出たが、これは却下。600リーヴル以下の年金受給者が1割を税金として支払い、それ以上の受給者は年金の2.5割を削減されることになる。年金の支払い上限は12000リーヴルに定められた。
国庫が空なので年金の支払いは滞った。3000リーヴル未満の年金だけが支払われ、それ以上の場合は3000リーヴルがひとまず支払われることになる。
1790年1月1日に年金の支払いは全て停止された。そして新たな年金制度が準備されることになる。
一方、革命政府にとって増税は論外だった。9月23日には議会で減税の宣言が行われる。この日は塩税が対象になる。塩の価格が暫定的に定められ、元々塩価格の安い地域でも価格の引き上げは禁止された。
塩税の廃止によって地域的理由で競争力を失うという企業の訴えもあったが却下された(12月3日)。
9月24日には既存の税金を新しい税制に置き換えるまで徴収することが宣言される。28日からは新規課税の為の目録作りが始まる。この新しい税制への転換は1790年から1791年にかけて行われた。ただし1789年においてパリでも地方でも情勢は安定しておらず徴税は困難だったし、1790年の徴税も旧体制の税制に基づいて支払われることが決まった。
8月10日に決定された教会への10分の1税の廃止は、以前書いたように教会から毎年政府へ贈られる利益6000万リーヴルを停止させた。10分の1税のうち教会の取り分の一部を政府に与えるべきというデュポン・ド・ヌムールの提案もあったが、10分の1税が放棄された時点でその選択は無かった。
1789年10月10日、一つの大きな提案があった。聖職者財産の国有化である。
この提案をしたのは僧族議員のオータン司教シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールだった。




