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20.ヴェルサイユへの行進Ⅲ ~国民衛兵の編成とフランドル連隊の動員~

 7月16日、バスティーユ事件の後、ラファイエットは国民衛兵の組織化を開始した。フランスの三色旗も彼の提案で国王の白を加えることで完成し、翌日の国王のパリ訪問のために準備された。

 17日、パリのオテル・ド・ヴィルで、軍権を与えられたラファイエットは言う。

「私はあなた方に、世界中で広く知られることであろう花形帽章と、市民制度と軍事制度を兼ね備えた体制を提供いたします。これはヨーロッパの古典的戦術に打ち勝つものであり、専制国家にはただ二つの選択肢が残されています。それは、彼らがそれを模倣しなければ敗北し、それを模倣しようとするならば転覆する、ということです」


 7月18日、所属連隊から離脱してパリの国民衛兵に合流することへの許可が出される。パリにいたフランス衛兵は国民衛兵に合流したが、ヴェルサイユのフランス衛兵は一旦留保させた。

 国王は前日にラファイエットに向けて直々に手紙を送って、パリのフランス衛兵がヴェルサイユに来ることを阻止するよう頼んでいた。パリのフランス衛兵がヴェルサイユに残るフランス衛兵を連れて行くかも知れないからだった。

 フランス衛兵の司令官だったシャトレ公は15日に辞職していて、彼らの軍紀は議会が懸念する程度に崩壊していた。

 21日には、国王は国民衛兵へ合流することを望む兵士たちへの認可、そして彼らへの給与と食料供給継続の容認、そしてフランス衛兵のヴェルサイユ在留を認める書簡をラファイエットに送っていた。合流許可は議会で確認された後、8月14日になってから公布されている。


 しかし7月31日、ヴェルサイユのフランス衛兵は、パリのフランス衛兵たちに褒章を与えるべきだというパリの世論を知ると、宮殿から撤収してパリに向かってしまう。実際、賞与は8月14日と27日に支払われた。

 フランス衛兵に代わって国王の護衛には傷痍兵と国民衛兵が割り当てられる。大臣に復任していたサンプリーストは傷痍兵を建物内の護衛に置き、国民衛兵を屋外に割り当てたが、国民衛兵が動揺したため議会がその指示を撤回させた。


 8月19日、ラファイエットは諸々の連隊から250名が国民衛兵に加わるためにパリに行くと報告した。議会は以前に連隊離脱の許可を与えたにもかかわらず、彼らに元の部隊へ戻るよう布告し、ラファイエットは彼らがパリに入ることを阻止することになった。

 同日、フランス衛兵に軍紀を回復するよう命令することを議会が承認。そして8月31日、国王はフランス衛兵の解体を承認し、フランス衛兵は国民衛兵に吸収された。



 一方、国民衛兵編成のための軍事委員会は、7月19日にオテル・ド・ヴィルに設置されていた。会議は翌日から三日間続き、31日の夜、ラファイエットは軍事委員会と共に、国民衛兵の軍制を議会で提案する。この軍制は8月6日にパリの43の地区で承認された。

 それにより、パリの60地区はそれぞれ100人からなる5個中隊──500人の大隊を配備することになる。国民衛兵は合計30000名。これに加えてフランス衛兵。全てラファイエットの指揮下に置かれる。

 20歳から50歳までの国民全てに国民衛兵に加わる権利が与えられ、仕事がある場合は免除対象だった。


 8月9日には議会で国民衛兵の制服を決定する委員会が設置される。制服は結果的にフランス衛兵の服装と似通ったデザインのものが採用され、帽子には三色の帽章を付けることが義務付けられた。彼らの武装はコミューンが負担することが決まる。このため国王は6000丁のライフルをパリ市に提供した。

 同日、ラファイエットは国民衛兵の将校たちを任命した。国民衛兵の士官は総勢1058名。ヴェルサイユの国民衛兵はデスタン伯の指揮下に置かれる。

 8月20日、国民衛兵は国家と憲法、そして国王とコミューンに対する忠誠を宣誓した。


 9月13日、議会はパリ以外の国民衛兵もラファイエットの傘下に置くことに決定する。

 27日、国民衛兵の兵士のうち選ばれた50人と全ての士官がオテル・ド・ヴィルの広場に集まった。この日、各地区の教会でミサが行われていた。行進はセーヌ側を挟んで南にあるノートルダム聖堂までの短い距離を進んだ。国民衛兵50人のうち40人が列を作って警備していた。

 ノートルダムに到着すると各大隊の軍旗が祝福され、歓声、太鼓とラッパ、そしてサーベルと大砲とライフルによって喜びが表された。




 フランドル連隊は1762年に士官候補生連隊から改称された部隊で、1776年に元々4つあった大隊のうち2つの大隊で新設された。主にノルマンディーからピカルディあたりの地方に駐屯し、リュニジャン侯の指揮下に置かれていた。

 指揮官のリュニジャン侯はパリ選出の貴族議員の一人で、6月25日、オルレアン公と共に第三身分に合流した47人の貴族のうちの一人だった。このことは議会からの信用を確保するものになろう。


 フランドル連隊の動員は、国王による8月4日宣言についての意見よりも先んじていた。

 9月14日以前の時点で、議員の一部がコンピエーニュへの移動を国王に勧めたが、国王は拒否した。そこで王室大臣サンプリーストが当時1800人しかいなかった国王護衛隊を憂慮し、かの連隊を招集したのだ。

 国王はヴェルサイユの秩序を守るために召還したということをデスタン伯に通達する。


 9月19日、フランドル連隊が駐屯地のドゥエーを出発した。

 22日には議会にフランドル連隊が移動していることが知らされる。23日、サンプリーストはフランドル連隊の到着が武装市民によって妨害された時、軍隊を運用すると答えた。翌日、陸軍大臣グヴェルネはフランドルの連隊以外の連隊はヴェルサイユに来ないことを保証した。

 9月27日、フランドル連隊がヴェルサイユに到着する。国民衛兵が彼らを迎え、大砲と弾薬が国民衛兵に引き渡された。


 10月1日、ヴェルサイユのオペラホール「サル・ド・ラ・コメディ」には、この日に着任した国王護衛隊長ギーシュ・ド・グラモン、フランドル連隊とモンモランシー竜騎兵連隊、スイス衛兵らの各士官、憲兵隊と警察隊、そしてヴェルサイユの国民衛兵の一部の将校、そして80名の国民衛兵が集まっていた。劇場での食事会は異例であり、王国で初めての出来事だった。

 このイベントは、彼らの国王への忠誠心を示すというよりも、彼らの忠誠心を鼓舞するために企画されたという。また国民衛兵とフランドル連隊の親交を取り持つという目的もあった。

 劇場のステージにテーブルが並べられ、衛兵とフランドル連隊の士官の席は交互に配置されていた。衛兵音楽隊とフランドル連隊の音楽隊はまず事実上の国歌Où peut-on être mieux qu’au sein de sa famille ? を演奏した後で、リチャード獅子心王の楽曲を奏で、「ああ、リシャール。ああ、我らのルイ、世界は貴方を見捨てもうた…」と人々は合唱する。ワインが振舞われ、みな国王、王妃、王太子、そして王室一家の健康に乾杯した。そして護衛隊は乾杯の合図に「国民nation」と呼ぶことをはっきりと拒否した。


 続いて狩猟から帰ってきてバルコニーに姿を現した国王に衛兵たちが歓声を上げた。

「国王万歳!」

 紙で折られたフルー・ド・リスが女官たちの手により人々に配布され、Le déserteurが演奏される。

 兵士たちの忠誠を確認した国王は、家族を連れてホールを離れる。

 その後も、ワインを飲み、国王を賛美し、踊り、歌う人々のうちで騒ぎと呼べるものも発生した。酔っぱらったフランドル衛兵の兵士の一部が柱をよじ登り始めたのだ。バルコニーに登って国王のいた場所に近づこうとしているようだった。


 マラーやカミーユ・デムーラン──9月に国王の拒否権vetoを新聞で煽り倒していた彼らは、兵士たちがフルー・ド・リスを付けると共に三色の帽章を床に叩きつけて踏みにじっていたと扇動する。この根拠は食事会を見に来ていた観衆の噂である。

 当事者の一人カンパン夫人はこの事件を否定し、参加していた国民衛兵の一部が帽章を裏返して白い裏地を表に向けていただけだと記述する。



 同日、議会は国王に対して人権宣言に対する承認を求め、国王はその返答を10月4日に行った。

 議会は翌5日に国王の答弁書を読み上げ、ミラボーが熱烈にその内容を批判する。そこにパリから数万人の人々がヴェルサイユに向かって行進しているという報告が舞い込んだ。

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