02.革命の始まりについて.上 ~高等法院の抵抗~
その日(12月11日)、元国王は7時に目覚めると、支度を済ませて45分ほど祈りを捧げた。8時、タンプル塔でパレードが始まり、そのラッパと太鼓の音は彼を不安にさせた。9時から10時まで家族で食事をして、王太子とボードゲーム(siam)で遊んだ。
2回負けた王太子は言う。
「16より先に進めない。16の数字は不運だ」
11時、王太子への教育中にパリ市の役員が来訪し、元国王は家族と別れることになる。それから2時間待たされ、午後1時にパリ市長やサンテールたちが迎えに来た。
「ルイ・カペーを国民公会の法廷に連れていくことになっている」
彼らの馬車は騎兵100名、歩兵600人、大砲6門の部隊に護衛され、タンプル通り、カプシーヌ通り、ヴァンドーム広場を経由してフイヤン修道院──国民公会の議場に到着する。
裁判は午後2時30分に始まった。
ここでフランス革命の諸事件を始点まで遡る。
革命の始まりの事件をパリ市民のバスティーユ襲撃だとすれば、その目的は市民の武装化にあり、市民の武装化はパリの無秩序化にある。無秩序化の原因はネッケルの罷免に対する市民の抵抗(※暴動)にあり、ネッケルの罷免はヴェルサイユにおいて国王が軍隊の示威行為を行ったことに対する第三身分の抗議によって導かれた。
全国三部会は、王国の財政難を理由に開催された議会である。これは高等法院・名士会議・僧族会議が融資や増税の代償として開催を要求したためだ。
そして王国の財政難の主な原因は、十八世紀に繰り返された戦争による浪費に求められる。
そこでまずフランスの財政状況から革命史を始める。
近世フランスの軍事支出は国家予算の大部分占めていた。平時は歳出の20~30%程度、戦時中は歳出の66%~75%が軍事費に宛てられていた。戦争をするたびに新たな税金を導入し、新たな融資を募り、新たな負債を抱えた。ルイ15世の頃は海軍費が抑えられる傾向にあったが、16世の代になると増大して財政を圧迫した。
他の主要な支出は返済と王室費だった。返済──戦時に調達された融資の返済である。
スペイン継承戦争の開戦時点で既に4億リーヴル以上あった債務は、戦後には少なくとも17億リーヴル以上になっていた。当時の歳入は大体1億~1億5000万リーヴル程度。そのうち何割かがその利子の付いた債務に充てられた。
オーストリア継承戦争、七年戦争、アメリカ独立戦争、いずれの戦争でも10億以上の戦費がかかる。債務はそのたび増加し、返済に充てる予算の割合も増大した。スペイン継承戦争直後の債務は50%近く。そして七年戦争後は30%、アメリカ独立戦争後は40%に到達する。
王室費は支出の15-20%を占める。ヴェルサイユの人件費、宮殿の建造費や購入費、気まぐれに振舞う慈悲、奢侈産業。残りは外交資金5%、年金支払い10%超などで、インフラ関連は少額。
予算捻出のために政府の出来ることは多い。金融業者からの融資、売官制度、年金制度、王室宝くじ(1700年)、通貨の切り下げ、徴税請負人組合からの間接税の前借りは、ルイ14世の頃から行われていた。
スペイン継承戦争後の財務総監ジョン・ローによる国立銀行設立の試みは、低利子での借入を実現させるはずだった。さらに紙幣を大量流通させてインフレを起こして貨幣価値を落とすことで、当時十数億あった負債が返済される予定だった。
加熱する投機に対するローの市場介入がいずれも彼や銀行に由来しない権限によって取り消されたことで、紙幣と正貨のギャップを修正できずにバブルが崩壊し、この計画は頓挫した。
税金で搾り取ることは最も単純で分かり易い。土地にかかるタイユのような直接税、塩税をはじめとした間接税各種があり、戦争が起きるたびに増税されてきた。
オランダ侵略戦争のときには煙草税(1674年)と印紙税(1675年)が制定された。
大同盟戦争のときに帽子税(1690年)、紅茶やコーヒーなどの税(1692年)、人頭税(1695~1698年。聖職者と貧困層、一部の貴族は免除)。
スペイン継承戦争には人頭税(※1701年再設置)、トランプ税(1702年)、氷税(1704年)、かつら税(1706年)、油税(1708年)など。そして1710年には10分の1税(ディズィエムdixième。所得税。聖職者は条件付き免除)が制定。これは臨時の税で、戦後(1717年)には解除される。
ポーランド継承戦争の時期には、タイユの増額、再び10分の1税(1733年)。(※タイユは庶民のみ対象)
オーストリア継承戦争でも10分の1税が一時的に採用(1741年)。
オーストリア継承戦争の後には、全階級に対する20分の1税(ヴィンティエムVingtième。所得税。聖職者は同上)も提案された(1749年)。
七年戦争中には、20分の1税の2度の追加(1756年、1759年)に加えて、人頭税の税率が2倍になる(1760年)。3つの20分の1税のうち1つは戦後に解除されるが、他の20分の1税については宣言を違えて永続化した。
ただアメリカ独立戦争では新たな税の追加は無かった。
しかし絶対王政下の政府も根拠無しに増税できたわけではない。新たな税が設けられる度にそれが正当かどうか審議する役割を、高等法院が担っている。
パリ高等法院──最高裁、出版の検閲、ギルドの労基、警察機構、学校や病院の運営、パリにおける薪やパンの供給監督まで広範な役割が任されていたこの機関には、王の定めた法令を承認して登録または抗議をする権利も与えられている。
法院の成員のうち九割が貴族である。この役職は、世襲または官職を買うことでのみ就くことができる。つまりここには世襲貴族もいるが、官職を買うとともに貴族になった新興貴族もいた。貴族の息子だけでなく金融家(※ブルジョワの中で最も豊かな層を占める)の息子が法律を学び、入試と研修期間を経て高等法院に入った。
貴族といっても近世において大金持ちから没落貴族まで幅がある。しかし比較的貧しい貴族でも彼らの財産の一部を犠牲にすることで法院のメンバーになることが出来た。
成員数は18世紀を通じて減少傾向にあり、1789年には150人前後。世襲のために二十代前半で議員になることもあった。
役職の購入価格は18世紀初頭に10万リーヴル、そこから半ばまでに3万4000リーヴルまで下がり、それから5万リーヴルまで上昇した。免職に払い戻しが必要になったため、容易には出来なかった。
最終的に国王は法院に対して法令の制定承認を強行する権利を持つ。逆説的に見ると、国王は法院に法律の制定承認を強制することは出来ても、法院の承認という過程無しに法律を制定することは出来ない。
例えば1741年、オーストリア継承戦争における10分の1税に対して、高等法院は全会一致で抗議することを決定し、最高議長を代表として王に書簡を渡した。
そこで法院は、現状において人々が困窮していること、徴税の期間の長さが不明であったり、法令の施行が早急であることを取り上げて、1733年に施行された10分の1税の先例と同じく施行まで3ヵ月間の猶予を要求した。
その後、最高議長は王政府に呼びつけられ、国王から返答を受けた。最高議長は法院で国王の返答を発表し、議会は議論なしに10分の1税を承認した。
同様に1756年、七年戦争に際して国王が20分の1税の追加設置、10分の1税の継続、パリ市関税の実施期間延長を宣言すると、高等法院は20分の1税の停止時期の設定やパリ市関税の撤回を求めた。国王が抗議を拒絶して今後の抗議を禁止にすると、議会は抗議して増税に反対する九箇条の意見を提示した。ただし最後の2条項は議会の不可侵権についての言及である。
その後、国王は法院に参内して先の三つの宣言を再び宣言する。最高議長は降伏し、法令は承認された。
1760年代には天然痘が流行した。高等法院は1763年に予防接種の有効性について調査をパリ医科大学に委任して、パリ市内での接種を一時的に停止する。正当性は医者に委ねられたものの論争が起きてしまい、結果的に自主判断に任されて義務化されなかった。
1770年、高等法院はエギヨン公を巡る裁判でその追及を政府に禁止されると、全会一致で抗議のボイコットを始めた。ときの実権を握っていたモプーは1771年に高等法院を廃止し、新規に少数の穏健派(※主に下位または地方の法務官)を集めてモプー法院を設置する。そして売官を禁止することで、払い戻しなしに自由に解任できるようになり、また解任された議員の補償も制定された。
免職された法院の議員たちがパンフレット戦術をはじめる一方、政府は法院の抵抗なしに20分の1税の実施期間の延長を行った。
1774年、ルイ16世が即位するとともに反オーストリアのエギヨン公は地位を失い、元の高等法院が再設置された。このとき市民は元議員たちを盛大に歓迎し、穏健派は地方に帰った。
高等法院は、それ自体がほぼ貴族で構成されていることから特に貴族の代表であり味方ではあったが、市民の味方にもなりうる立場だった。
例えば1763年に国王政府が3番目の20分の1税の停止と人頭税の半額化を宣言したとき、法院はそもそも20分の1税が戦時税であることから他の20分の1税についても停止のプランを建てるべきと表明した。
1766年にはタイユの免税枠縮小に抗議している。
テュルゴー時代(1774~1776年)において実施された穀物自由化に対しては、高等法院は穀物自由化には合意しつつも、最高議長はそれが市場が人々にパンを提供するために充分な在庫があることが前提であると布告した。
そしてパン価格の高騰に伴う市民の暴動を招くと、法院はそれが穀物自由化に責任があるものとし、国王にパン価格引き下げのためのあらゆる措置を求めた。
時折国王が税金の公平化を目指し、貴族特権を擁護する法院が抵抗したといわれる。
とはいえ聖職者が免除されがちな形で増税自体は実行された。
聖職者の免除は政府や庶民への奉仕を前提にする。聖職者による寄付は彼らの総資産と比べると少ないが、大きい収入源で、僧族会議は三部会開催を条件として融資を約束している。教会は衣食の提供をはじめ慈善事業も直接的に行っていたし、基礎教育はみな修道院で受けていた。
18世紀の年間経済成長率0.3~0.6%(※0.3%は人口増とほぼ同率)を考慮すれば、それに伴う歳出増のためにも歳入増自体は必要だったともいえる。だからといって増税は望まれていなかったし、累進性のない公平な割合の税も、その原因が貴族だけに由来しない地方ごとの不均衡な税率を改革出来ない政府の立場も、市民とほぼ貴族からなる高等法院とを分断する要素は無い。
とはいえ貴族特権──封建的諸権利の保護も必要な案件である。
例えば検閲対象になるものとして、百科全書やルソーで問題とされた神学に対するもの、政治的な風刺、ピエール=アントワーヌ・ボードワンのえっちな絵画など、そして封建的諸権利に対する批判があった。
法院の管轄する裁判において領主の封建的諸権利は合法だった。狩猟権、森林の占有、牧草地の三分の一取得権、相続税、葡萄酒専売権、通行税や鳩小屋、度量衡検定権など多くの権利は法院によって常に正当化されてきた。とはいえこれらを課された農民の役割はパリでは重要ではない。
テュルゴーの打ち立てた国王賦役の金納制に対する高等法院の態度はより特権意識を明瞭にする。
高等法院によれば、貴族は庶民と区別されるべきで、国防と国王への助言を任務としており、労役とタイユを免除されるのは当然だという。そして貴族が国王賦役免除の為の税金を支払わなければならないのは、実際のところ貴族に賦役を課しているのと同じことになるとして金納制度に反対した。
テュルゴーはこの年(1776年)には宮廷内の政争に敗れて退任し、金納制は間も無く撤回された。
高等法院は三部会開催の要求についても、増税に抵抗する形で提唱した。
1787年8月、印紙税4倍化の増税案を巡る抵抗において高等法院は、三部会だけが国家の傷口を調査し、税種と税額の議論を重ねることによって国家を救うことが出来ると表明する。
1788年5月には公債発行を巡って国王の封印状により議員2人が追放され、法院は軍隊が包囲される。法令は強制的に承認された。ここで法院は法律を承認する権限を失い、最高裁判権も失う。法院は再びボイコットを始め、市民は法院の味方をする。
1788年7月、国庫の枯渇に瀕した政府は、公債の信用を回復させるために三部会開催を承認した。