19.ヴェルサイユへの行進Ⅱ ~封建制終了のお知らせ~
8月4日、議会は封建的特権や売官制の廃止、年金の削減などを宣言した。聖職者は10分の一税の廃止を提案した。15箇条からなる急進的な計画は貴族議員であるノワイユ伯とエギヨン公とを中心に行われたという。
ノワイユ伯は宣言する。
「諸君。どのようにして地方の狂乱を止め、公共の自由を保障し、そして彼らの真の権利を立証することが出来るのか? 王国内において一目瞭然な反乱の原因を知ること無しに、彼らを扇動する悪意に対してどのような救済策を適用して改善するのか? 地方の共同体は要求している。それは彼らの望んだ憲法ではなく、バイイ裁判所管区の誓願を形作っただけである、と」
「それでは彼らは何を要求したのか? それは間接税aidesの廃止、地方総監補佐subdéléguésの廃止、封建的権利les droits féodauxの縮小または変更である。共同体は三か月以上、彼らの代表者が私たちが共和制と呼び、そして確かに共和制であるそれを担当しているのを見てきた。しかし彼らにとって共和制は、彼らが熱心に手に入れることを望み、そして何よりも欲している事物であるように見える。国家の代表の中に存在する多くの差異によると、地方では彼らによって認められた彼らの幸福を求める代理人と、そしてその妨げとなる有力者たちだけを知っていた。この状況に直面して何が起きたのか? 彼らは武力に対抗して武装しなければならないと考えた。そして今や、彼らは止まることを知らない」
「またこの措置の結果、王国は社会崩壊するか、ヨーロッパ全土から賞賛される政府かのどちらかになるだろう。では、どうすれば賞賛される政府を樹立できるのか? それは公衆の平穏によってだ。ならば、どうすれば平穏を望むことが出来るのか? 人々を落ち着かせるために、彼らにとって有益なものを保持するときには、彼らに対抗しないことを彼らに示すのだ」
「平穏を成し遂げるために必要であれば、私は以下のように提案する。国家の代表者たちは王国の全ての人々は彼らの収入の割合によって税金を支払うようになることを決定した。将来的には全ての公共の負担は、全ての人々によって等しく負担される。全ての封建的諸権利は、共同体によって金銭で償還されるか、または公正な評価額で交換される。そして領主による賦役、死手譲渡、そしてその他の個人的隷属は、償還なしに破壊されるだろう、と」
前部分で触れたように、この日の熱狂的な決議はパリの事件や7月20日より発生した各地の反乱に由来する。各地の領主所有地で連鎖的に発生した農民の暴動は、貴族特権に強く敵対していた。
この反乱は封建的権利の書かれた証書、あるいは諸権利の象徴そのもの──つまり城や鳩小屋を焼くことを目的としている。ルフェーブルはこの暴動に人的被害が殆ど無かったことに触れる。
フュレはこの暴動の発生と国王の軍隊召集を結び付ける。国王の軍隊は各地方の駐屯地からパリとヴェルサイユに向かったためだ。そして7月14日の事件や宮廷貴族の亡命を受けて彼らの陰謀を恐れた農民が、農民にとっての敵だった領主の特権を攻撃したという。
シャーマはバスティーユの事件によって領主権が喪失したと信じ込んでいた人々の証言について言及する。が、これは言い訳だろう。
ブルジョワの第三身分議員はこうした地方暴動に対する弾圧を支持するが、ノワイユ伯ら貴族議員たちは別の選択肢を取った。
議会は8月4日以降、その一つ一つの権利放棄に関しての議論を展開していく。そこには国王の狩猟権も含まれていた。8月7日には、国王に向けて彼の趣味である狩猟での問題によって裁かれて追放された人々の召還、同問題によって投獄された囚人の釈放、そして今後のこうした裁きの廃止を求めた。
この農民反乱は8月11日まで続くことになる。
また前部分で触れたフロンの事件のように、パリで起きた騒動は穀物不足に由来する。
収穫が始まるのは9月からで、その後は脱穀作業が待っている。脱穀された小麦が順次パリに届けられるとしてもそれはまだ先のことで、当分穀物価格は下がりそうになかった。各地の都市では穀物の略奪が展開され、穀物買い占め人とパン屋がターゲットにされた。
こちらには貴族の権利放棄とは別の措置が必要だった。
7月6日に結成された王国生活委員会は、7月21日にパン価格の値下げを議会で提案する。委員会は14.5スーから12スーへの引き下げを提案したが、議会は13.5スーへの引き下げとパン屋への補償を議決した。
8月、生活委員会はルーアンやプロヴァンスに派遣され、余剰の穀物を取りつけた。小麦粉の販売はパリ選挙人によって管理され、パン屋の店先には警備員が置かれることになった。29日には国内における穀物輸送の自由と国外輸出を支援するための法案が公布された。
9月になると、地方からの小麦粉の供給が減少し始めた。ここでネッケルは海外からの穀物輸入を提案する。しかし実際に海外からの穀物が届いたのは11月になってからだった。
8月10日の議会で発表された人権宣言は、都市部の騒動を助長した。
この宣言は、国民主権、法の下の平等、所有権の不可侵、参政権、身体の自由、思想信条の自由、税収使途と行政の透明化、権力の分立といった内容の17条からなる宣言であり、前述したように憲法の前文であって将来的に完成するだろう憲法の綱領である。
ここに生存権の類は無く、信教の自由は言論に限られ、言論と出版には制限付きの自由が設定された。
そしてこの日、議会は、国王が公共の自由の復興者であると宣言した。
8月17日には、この権利宣言の検討のために委員会が設置される。
8月21日、人権宣言の最初の条項が議会で可決する。すなわち「全ての人々は生まれながらにして自由であり、そして平等な権利を持つ。社会的区別は、公共の有用性にのみ根拠がある」
22日には身体の自由について、23日には信教の自由について、24日には報道の自由について議論が行われた。
人権宣言において自由は得られた。しかし宣言に込められた自由と、大衆の求めていた自由は異なっていた。
8月18日には昇給を求めるボイコットが生じ、26日にはパン不足に伴ってパンの略奪が発生した。そして8月末のパレ・ロワイヤルでは国王の権限や議員の罷免に関する訴えを掲げ、ヴェルサイユに向かおうとする動きさえ見せていた。
憲法の原則が成立した後、議会では国王の権限、今後の議会制度についての議題が多く上がった。
9月1日からは、法案に対する国王の拒否権vetoについての議論が行われる。ミラボーやムーニエは国王に絶対的な拒否権を支持し、ラメットやペチヨン、パルナーヴは法案を一時的に留保する権限としての制限的な拒否権を支持し、シェイエスは拒否権の廃止を支持した。
議論は11日まで続き、留保する権限を持つ拒否権が公布された。つまり国王は議会の法案を拒否することは可能だが、その議会が解散して新しい議会が成立した後に同じ法案が提出された場合、国王は拒否権を行使できない、と定められた。
9月9日、議会では二院制が提起された。貴族院と庶民院からなるイギリス議会の模倣案である。ラリー・トレンダルは、200人からなる上院と、600人からなる下院を設定し、法案制定に両院の合意を必要とする制度を提案した。
そして上院が国民の信任を得た人々で構成される可能性が無い──つまりイギリスのように貴族のみで構成されることが懸念され、9月10日の議会で否決された。
9月15日には、国王の地位について議論され、国王の継承権や不可分性、不可侵性が認められた。
そして9月18日、国王は書面で8月4日の宣言についての返答を行う。多くの案件に同意する一方で、国際的理由つまりすでに条約で認められていたアルザス地方のドイツ領主や教皇の権利のために一定の留保を求めた。
そして10分の一税廃止についてはその利益の一部が国庫に入っていることを指摘し、穀物の自由化の厳格な適用には危険が伴うことを警告する。
議会の反応は悪かった。
19日、ミラボーとパルナーヴは8月4日の宣言が原則的なものだとして国王の認可は不要だと訴える。
また立法議会の選出が提案される。ミラボーがこれに現職議員が選出されるべきではないと付け加えて、採用された。彼ら三部会議員が旧体制の方法に基づいて選出されたため、立憲議会が定めた新たな枠組みにおいて法律制定のための正式な代表を選ぶ必要があるという。
9月21日、議会の反動によって、国王の制限的な拒否権は一時的に停止されることが決定する。
フランドル連隊がヴェルサイユへと向かっていることを議会が知らされたのは、その日の翌日だった。




