表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/24

16.バスティーユ襲撃Ⅶ ~立憲議会のファーストステップ~

 6月27日、三部会議会が一つにまとまったその日、国王はヴェルサイユ宮殿のバルコニーに現れる。

「国王万歳!」

 人々は彼らの象徴的な父である国王に対して喝采を送った。



 さて、国民議会は6月30日から正式に稼働した。その最初の議題は、全議員の資格審査、そして三つの身分の会議における議長を決定することだった。

 翌日の7月1日にはパリからの連絡が来て、アベイ監獄から釈放されたフランス衛兵の処遇について議論することになる。それから数日間、資格審査と議長選が行われた。


 資格審査と議長選を終えると、議会は当初挙げられていた課題についての討議を始めた。

 3日にはサントドミンゴの奴隷制に関する議論が行われた。人口に応じて20人の議員を選出すべきという主張に対して、ミラボーは彼らが有色人種を代表しないという理由で削減を主張した。4日、議会はこの植民地に6人の議員枠を与えた。

 また穀物不足の解消と、供給システムの改革も議論され、6日に王国生活委員会comité des subsistances royaumeが設立され、穀物確保のための6000万リーヴルの融資、また国外輸出の禁止が決定された。

 7日には、憲法制定を担当する中央委員会が結成。中央委員会に選出されたメンバーの中に僧族が含まれていなかったため、その翌日に6名の僧族が追加された。

 8日の夕方には中央委員会でムーニエらによって書かれた四つの憲法草案が読み上げられ、10日に国民議会を立憲議会に改称した。

 11日にラファイエットが人権宣言の草案を読み上げ、憲法の前文に設置すべきと提案する。この草案はバージニア権利章典、アメリカ独立宣言、そして彼の友人ジェファーソンとの文通を典拠とした。

 11日にはまた財政委員会の設置が検討された。大抵の議員は財政問題に及び腰だったものの、現状は打開される必要があった。そして議員たちはまず必要な知識を確保することになった。

 立憲議会議員からなる委員会は他にもあり、年金委員会など合わせて30個が設置された。


 パリの情勢も時々ヴェルサイユの議会に影響した。

 7月1日にはフランス衛兵脱獄問題に応対し、2日には国王からのこれに関する書簡を受け取る。早速対策委員会が設立される。そして7月6日、議会は国王の書簡を根拠にしてフランス衛兵への恩赦を布告した。

 7月8日にはミラボーがパリとヴェルサイユに迫る国王の軍隊に対して警鐘を鳴らし、ブルジョワ衛兵の設立を提案。ラファイエットはこの動議に賛成して投票を促すが、議会はこれを否決し、議会は代表を送って国王に軍隊の解散を求める進言をすることに決定した。



 一方、国王は7月1日から4日まで毎日狩りに出かけていた。第三身分が国民議会を称した6月17日からの一週間で2回しか行ってなかった狩りだが、6月25日からは毎日のように行っていた。国王はもはやムードンには足を向けない。ポートロワイヤルが気に入っていたようで、行事の無い日は頻繁に赴いて鹿狩りをしていた。


 7月2日には、国王は議会の要請を受けてフランス得兵の措置に関する書簡を送っていた。

「諸君らの決定が極めて賢明である故に、朕は三部会議会の措置に承認を与える。そしてその決定が朕に信頼の証を与え続ける限り、朕はこれによって望ましい結果が訪れることをを祈念している」


 7月8日の夜6時、国王は議会から送り込まれた代表の求めに応じ、パリとヴェルサイユに向かっている軍隊について説明する。

「彼らは三部会の自由に対して、どんな侵害も決してしない。彼らの目的は治安を回復させることである。そして彼らの滞在は、公共の安全を保障するのに必要なだけ続くであろう」

 そして国王は議会が国王の軍隊について審議していることを知ると、代理人を通じて議会に公的な説明をすると付け加えた。


 7月10日の夜、国王は代理人を通じて議会に向けた説明を行った。

「パリとヴェルサイユにおいて朕の視界の前で、また三部会の前で展開された無秩序と非常識な出来事は周知の通りであろう」


「朕は、首都及びその周縁の秩序を再建し維持するために、朕の権限に基づく手段を取らざるを得ないと考えている。公共の安寧を図ることは、朕の最も重要な使命である。これこそが朕がパリ周辺に軍隊を動員する動機である」


「諸君は、この措置が単なる抑圧を意図したものではなく、むしろ新たなる混乱を防ぎ、より良き秩序と法の執行を維持し、諸君の討論において自由に君臨すべき権利を保護し、確保するための手段であることを、三部会に対して保証出来る。一切の制約は一掃されるべきであり、同様に、喧騒と暴力の一切の懸念は排除されねばならない」


「朕の予防的措置の正当な動機について、国民を誤解させる事が出来るのは悪意を持った人々だけであろう。

朕は常に彼らの幸福のために提供できること全てを探し求めて来た。そして朕は絶えず、彼らの愛と彼らの忠誠を確信してきたのだ」


「しかしながら、もしパリ周辺の軍隊が何らかの疑念を引き起こすのであれば、朕は三部会にノワイヨンかソワソンへ移転することを要請し、そしてその際、朕自らは朕と議会の間の綿密な連絡を維持すべく、コンピエーニュへと赴くであろう」



 11日の夕方、議会は軍隊がパリのシャンドマルスに集まっているという報告を受ける。議会は国王の返答によって動揺しており、ミラボーの提案を採用することを決めた。つまりブルジョワ民兵を出来る限り早く結成するようパリに指示することが決定された。

 議長のヴァレンヌ司教は16日まで議会を休会することを提案したが、議員の一人は中止しない方が賢明であると主張。議会は今後も開催されることになる。


 この日、国王会議が行われ、ネッケルが本人不在の中で密かに解任された。

 ネッケルの解任を薦めたのはアルトワ伯である。彼は予てよりネッケルを嫌っていた。4月30日にも、6月23日にもアルトワ伯はネッケルを誹謗していた。そしてフェリエ―ルによれば7月10日───解任前日にも行われていたという会議の前に、アルトワ伯は彼を外国人の裏切り者、ブルジョワのイカサマ師と直接罵倒していた。



 アルトワ伯は革命が起きてすぐ──7月16日の夜中に真っ先にフランスから逃亡した。彼の亡命にはコンデ公、コンティ公、ブルボン公、アンギャン公、ポリニャック家やギーシュ家が続いた。アルトワ伯はまずブリュッセルに行き、三ヶ月で帰国できると宣言したものの、オーストリア皇帝によって退去を求められる。その後、義父のいるトリノの宮廷に滞在し、国王脱出や反革命の計画を練ることになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ