11.バスティーユ襲撃Ⅱ ~銃を取るブルジョワ~
7月13日。一年前のこの日、雹が降った。小麦は大規模な不作になり、今年の穀物価格の高騰に繋がった。
元々国民衛兵の編成は、国王による軍隊の動員を受けて制憲議会において議論されていた。
ネッケルは7月1日に、公共の自由を維持するためにブルジョワによる民兵が必要だと議員たちに伝え、また7月8日には国王の軍隊動員に対するものとしてミラボーが提議する。しかしこれらは却下され、先送りにされた。
一方パリでは 7月11日には選挙人の集会が行われ、軍隊が信用できない際の民兵の設立が決定されていた。
その計画は今日実行される。
朝6時の選挙人会議で、4万8000人からなる国民衛兵の設立が決定された。軍隊からパリを守ること、そしてパリの暴徒を統制すること。この二つの目的を果たすために必要なのはやはり武器である。
群衆は市庁舎の前庭であるグレーヴ広場に集まっていた。
朝8時、選挙人の代表者が彼らに向けて国民衛兵の結成──すなわち全ての成人男性のうちから各地区800人を兵役に就けることを宣言した。納得した群衆は散っていった。
パリ商人長官Prévôt des marchands de Parisフレッセルは勝手な武装を禁止して、銃器やサーベル、槍その他の武器を既に持っている者はパリの全60区の各地区に戻り、各々が教区教会に武器を集積することを指示した。
各教会に集積された武器は地区民兵団の結成後、分配される予定になっている。民兵団は20人前後ごとに中隊を作り、共同で活動することが決められる。地区によっては民兵による銃器の携行を禁止することもあった。
フレッセルはとにかく武器を要求する一部の地区代表に対して、カルトジオ会やフランス衛兵の詰め所に武器があるといって黙らせた。
この時点で民兵の目的はブルジョワによる自己防衛である。前日のようにドイツ近衛連隊と戦うわけでもなければ、軍事的威圧によって政治家への圧力を加える組織でもなかった。
9時には市役所地下に保管されていた360挺の銃器が分配され、10時には選挙人議会の常設化と議員の増員が決定される。また警鐘と太鼓が鳴り、各地区の広場で国民衛兵が集合した。
市庁舎のグレーヴ広場には多くの物資が集積される。ここにはパリの正規軍に供給されるはずの火薬や食糧も横流しされていた。ランべスク公の馬車がその中に発見されると人々はそれに火をつけて燃やした。しかし武器の類は殆ど無かった。
武器を手にすることの出来なかった多くの人々は再び略奪に走るか、または女子供と共にバリケードの設置に従事した。
午後1時半、フレッセルが銃の供給を発表する。シャルトルの銃器業者ド・プレソールが12000挺のマスケット銃を約束し、さらに数日以内に30000挺を持ってくると約束したためだ。
2時、国民衛兵の指揮官にオーモン公、副指揮官にラ・サール侯が選ばれる。増員分の議員の名前も公表された。
国民衛兵の編成について、60地区を16地区に再編し、16個大隊とする。各大隊は4個中隊から編成され、それぞれ成人男性200人から構成された。それぞれに司令官、副司令官、准士官以下の役職が与えられ、地区の司令官らによる参謀本部も設けられた。
またここで緑色はアルトワ伯の色だということで、パリ市の色である赤と青に取り換えられた。回想録作家の一部はこの2色がオルレアン公の色だと主張する。この帽章を許可なしに使用してはならないと決められた。
5時、各地区の教会で武器が配布される予定だったが、地区どころか市庁舎にすら配布されるための武器はまだ無かった。銃器業者ド・プレソールへの注文は取り消されていた。6時に届いた武器入りの箱には亜麻布と小石しか入っていなかった。
7時頃、武器を目当てに市庁舎に集まった地区の代表者たちが「裏切りだ」と叫ぶ。しかしオーモン公とラ・サール侯がこのとき正式にその地位を受領すると、夜間には国民衛兵の警備が行われるようになって先日のような略奪は取り締まられた。パリにはバリケードが設けられ、市内外の出入りも禁止される。この日も幾つかの関税用の門が焼かれ、略奪者との乱闘が展開された。
シャルトルに行って見てきたが何も無かったという者まで現れ、銃器が届く可能性が無くなったのでフレッセルは衛兵の人数分のパイクとハルバード、サーベルの鋳造を依頼した。この鋳造工程は非常に早く、2日後には国民衛兵の武装を充足させた。
また今朝の議会で裏切りを告発されたパリ警察長官ド・クロヌスは群衆によって追い立てられ、這う這うの体で逃げ延びた。後の国民公会議員である選挙人デュソーは彼を助けてヴェルサイユへと送った。
一方、廃兵院で、武器譲渡に関する交渉が始められていた。
廃兵院──今ではナポレオン・ボナパルトの眠る棺が置かれているこの建物は、当時は負傷兵のための病院だった。
ここの守備隊長はド・ソンブルイユといい、コルドリエ地区の代表者2人が交渉するが、ソンブルイユはヴェルサイユからの指示無しに譲渡できないとして、ひとまず連絡することを約束した。
コルドリエ地区の代表者は帰還後、武器譲渡が成らない場合、武力に訴えることを決定する。
深夜にごく一部が先にバスティーユに向かった。彼らはバスティーユの堀の周りを歩き、城壁の歩哨を確認した。守備兵はこれを怪しんで発砲し、この周辺地区フォーブール・サン・タントワーヌの人々を動揺させた。
同じ頃、14日から15日にかけてのパリへの攻撃命令と称した文書がパリで出回る。この攻撃の指揮官はド・ブロイ将軍。捏造されたものだろう。少なくともこの時点ではどの軍勢も攻撃する意思はなかった。
とはいえ防備の準備は進められる。
バスティーユの守備隊長ロウネは1万5000発の弾丸の準備を終えて、火薬250樽をバスティーユに輸送する。まずは中庭に置かれ、その後多くは地下室に保管され、一部はバスティーユの塔内に輸送された。
一方、ベザンヴァル男爵はセーヴル橋とサン・クルー橋を占領し、パリとヴェルサイユの連絡を断った。
また廃兵院のソンブルイユは30000挺あるマスケットの槊杖Baguetteとハンマーを壊そうとしていたが、最終的に破壊できたのは20挺だけだった。




