電車
月曜の朝、しわを伸ばしたスーツに身を包んで会社へと向かう。その夜、ちょっぴりよれてしまった裾を直すこともなく、スーツのようにくたびれた身体で帰途へつく。
火曜も、水曜も、木曜も金曜も、時には土日に至るまで。社会人になったその日から同じ電車に揺られて自宅と会社を往復する。そんな生活も気付けば二十年が経つが、私の環境はさして変化していない。大学の同期はみな結婚をして子を持ち、よくありそうな円満な家庭生活をしているさなかで、私は目立った昇進をすることもなく、これといったライフイベントを迎えるでもなく、郊外の賃貸物件で一人暮らしを続けている。
好きな仕事をしているでもない。かといって嫌いでもない。ひたすらに変わり映えのしない事務仕事を続ける日々は、変化を嫌う私にとってはちょうどいい仕事だった。相応の賃金を得て、不自由なく暮らせる"いま"に特段の不満もない。独り身であることも自ら望んだことだ。飲み会で若手や野心家の上司と言葉を交わせば「生きてて楽しいか」と尋ねられるが、楽しくもなく辛くもなく、それがちょうどいいのだと私は答える。一年ずつ歳をとっていくように、順当に少しずつ変わっていくぐらいが良いのだ。
そんな日々を生きる中で最も変化に富む身近なものは通勤電車の様相だ。大半を眠って過ごす帰りの電車はさておいて、朝の電車で見かける乗客の面々はいつしか見慣れた顔ぶれになってくる。来る日も来る日も同じ時間、ほぼ同じ乗車口に並ぶ客は私だけではない。挨拶の一つを交わすこともなければ視線を合わせることすらないが、そのうちに一人や二人は見知った顔になってしまうのだ。
「次は~……」
今日もまた同じ、スーツを身にまとう男性が乗車口脇に身を寄せて本を読んでいる。二年前から新入社員らしき風貌で現れた彼は、それからほとんど通勤時間帯を変えることなく私と同じ車両に居合わせている。最初はスマートフォンを片手にしている光景ばかりだったが、ここ最近になって本を手にするようになった。背表紙を見る限り自己啓発などでなく、純文学に親しんでいるのがうかがえる。会社での影響かそれ以外の要因か、何かしら彼の中に変化が生まれたのは確かだろう。そこに感慨を抱くことなどないが、月日が滞りなく過ぎていくのを間接的に味わうことで私は確かに生きているのだと感じる。
そんな生活も、不況の煽りでじきにお終いだ。
あくる月曜からの私はいったい、どうして生きていくのだろうか。