4話 愛の形
ヘンリー・ギルバート伯爵は寝室で目覚めた後、大きく溜息を吐いた。
昨夜開かれたパーティが期待していたものではなかったせいだ。知り尽くした酒と料理の味、貴族達のくだらない水面下の攻防、全てがギルバートにとっては退屈なものだった。
こんな時はやはり『見せ物小屋』に限る。アレを見れば血湧き、肉踊る高揚が自分を待っているのだ。ギルバートはそう思い、窓の外を眺めた。
「なんだ?」
不意にギルバートは口から漏らす。外の景色に違和感を感じ取った。
そこへ部屋をノックする音が聞こえる。
「ヘンリー伯爵、もうお昼になりますよ。やっとお目覚めになられましたか?」
いつもの様に寝坊したギルバートは、日に日に物言いが厳しくなる側近の女に再び大きな溜め息を吐く。
顔がいいからといって、なんでもそばに置くものではないと、ギルバートは彼女のおかげで学んだ。
「今行くよ」
ギルバートは愛想良く返事をした。
廊下を歩く二人はいつも、決まった会話をしている。
「さて、朝食は?」
「伯爵の朝食は既にわたくしが頂きました」
「では昼食を」
「オートミール、ニシンとレンズ豆のスープ、燻製ソーセージ……」
「ブドウパイは?」
「ありません」
だろうな、とギルバートは思った。パイ作りはなかなか難しい様で、屋敷の料理人には手に余るのだろうし、作り手によって出来が大きく異なる。
暫く前に、当時の使用人がたまたま作って食卓に並んだブドウパイの美しさと味が忘れられず、今でも機嫌の悪い朝は毎度の様に尋ねてしまう。
アレを食べれば少しは、それからの一日が豊かになるとギルバートは考えていた。
パイ作りの職人でも本気で探そうかと考えていると、窓の外の景色が目に留まった。
やはり違和感がある。そしてその理由がやっと分かった。
「伯爵? 『見せ物小屋』がどうかしましたか?」
「おい君、女子共が見当たらんぞ?」
「はい?」
「会場の前にいつも群がってる、女子共がおらん」
ギルバートは窓の向こうの『見せ物小屋』を指差して言った。
「あぁ、隣の村で酷い殺しがあったとかで……。
もう街中朝からその噂で持ちきりですよ。当分は誰も『殺し合い』を見る気にならないのでは?」
淡々と述べる側近の女の『殺し合い』という表現に、ギルバートは不満な顔をした。
確かに何も知らぬ者からすれば、『見せ物小屋』で行われる『剣闘試合』は単なる『殺し合い』でしかないのだろう。しかし、自分にとっては他の何よりも人生を彩ってくれる。
男達が繰り広げる熾烈な闘いは美しい芸術であるというのがギルバートの考えだ。
それだけでなく、大金を生む。実際今日まで、剣闘士に熱狂する貴族の娘達から莫大な賭け金を巻き上げていた。
決してそこらの殺人事件等によって開催を左右される筋合いはないとギルバートは怒った。
「殺しだと? はっ、そんな事で試合を中止してたまるか!」
ギルバートは言い放ったが、現に金づるの女達の姿が『見せ物小屋』の周りから消えている。
以前の彼女達は入場を始める前から少しでも良い席を取るために、我先にと必ず行列を作るのだ。
それが今日は、自分の様な生粋の剣闘試合好きの連中がちらほら並んでいるだけだった。
「そんなに酷い殺しだったのか? うちの『見せ物小屋』で閑古鳥が鳴く程の惨劇なんて、大量殺戮でもあったのだろうな?」
「いえ、確かディーンス家で2体の死体があがっていて、夫婦だったと。妻は頭を割られていて、夫は首が抉られ、千切れかかった頭が垂れ下がっていたらしいですよ。犯人は夫の馬を奪い逃走中で……
まぁでも、最初に目撃したレビー少年の証言で犯人は息子のロート・ディーンスだという事が判明していますので、捕まるのは時間の問題かと」
それを聞いたギルバートの顔が青ざめていた。
「今すぐ、衛兵に金を払え。いくら出してもいい。こちらも部隊を編成しろ。一秒でも早く、ロート・ディーンスを私の前に連れてこい」
早口で捲し立て、側近の女にそう命じた。
♢♢♢
ミルカは背中に震える指先を感じた。体を小さく揺らして笑う。
「くすぐったいよ」
「ごっ、ごめん」
ロートは急いで手を離していた。そんな不安そうな顔をしなくても、嫌だなんて思わないとミルカは思う。何をされたって、今よりももっとロートを好きになれる自信があった。
「もう……洗ってくれないの?」
首だけ振り向いてそう言うと、ロートはもの欲しそうな目で見つめてくる。ミルカはその目が堪らなかった。
いくらでも自分を見ていやらしいことを想像して欲しかったし、我慢出来ずに襲って来て欲しかった。
それを口に出そうとしたが、尻軽な女だと軽蔑されそうで踏みとどまっていた。
「ミルカが……可愛過ぎて……指、震えるんだ。ごめん……」
額の髪を掻きむしりながら言うロートの言葉に、ミルカは耳まで熱くなるのを感じた。
可愛過ぎるのはそっちだと叫びたい衝動を抑えたが、もうこちらから襲いそうだった。
「嬉しい。ロート君……だいすき」
恥ずかしかったが、先に恥ずかしいことを言ったのはロートの方だと考える事にした。
すると、ロートは抱き締めてきた。筋肉質な硬い身体が隈なく背中に押し付けられ、ミルカは勝手に熱い吐息が漏れてしまう。
「ミルカ……」
喘ぐ様に自分の名を呼ぶロートの声が、電撃の様に身体中を駆け巡る。ミルカは自分の右肩に顎を乗せるロートの頬に手を当てて、彼を見つめた。
「ロート君……すき……」
薄く唇を開いてロートを誘った。ロートはまた物欲しそうに眉を顰める。
「ミルカ、もう俺、むりだ」
待ち侘びたロートの反応。唇の感触。大きな手が胸を覆い、下腹部へと流れていく。ミルカは夢心地だった。
身体をくねらせて喜びを表現すると、ロートの手つきは一層硬く、激しくなった。
二人は時が流れる事を忘れた。
互いが一つになる事に全ての思考を注いだ。
日が天に昇って少し経つ。
川辺に横になっていたミルカは跳ねる様に起き上がった。
馬の蹄の音と、男の声で目覚めた。ロートではない。
隣を見ると、ロートはナイフを握り締めている。そして鋭い眼光を宿している。
「止まれ! 馬の足跡だ。ここらで間違いない!」
「一番乗りだな! 賞金は貰ったも同然だぜ。伯爵様様だなこりゃ」
そんな声が確かに聞こえる。ミルカは胸が苦しくなった。ロートを失うという未来が見え隠れし、どうにかなりそうだった。
相手は馬だ。逃げ場は無い。
「ミルカ」
呼ばれた方を向くと、ロートにキスされ、頭を撫でられる。こんな時にも幸せを感じてしまい、もっとと欲しがる自分を呪った。
現状を打開する術を探せなくなってしまう。
「愛してるよ」
ふっと微笑むロートに見惚れた。行かないで、と言おうとして出たのは「あたしも」だった。
駆けて行く彼の背中を見ながら涙が流れた。
十数人の男達の声が、彼の向かった方角へと遠ざかって行く。
ミルカは跡を追っていた。揺れる視界と耳鳴りのする聴覚を頼りに、樹々の中を進んだ。
男達の声がする。もう少し近づかなければ今の自分には何も聞き取れない。そこの茂みの奥に、ロートがいる。その一心で足を動かした。
見えたのは死体だった。
急激に血の気が引いて行く。
だが、目を凝らさずにはいられない。彼なのかどうかを確かめなければ……
「なんだこいつ。バケモンか!?」
男の声で意識が覚醒した。
ミルカは死体を見る。彼では無い。見知らぬ男の顔がそこで死んでいる。無惨に首を切り裂かれている。そんな死体が三体転がっている。
数を数える内に死体が増えていく。ミルカは十まで数えて止めた。
「馬鹿な……なんなんだよこいつ」
ミルカの目に映ったのは血塗れのナイフを器用に指の中で回すロートの姿だった。
「ロート君……」
声にならない声で呼んだ。ロートはこちらに気付いていない。
「おい! 一人ずつじゃ駄目だ! 全員で畳み掛けろ!」
男が叫び、仲間達が後に続いて声を張り上げる。
「囲め! 五対一にするんだ!」
「畜生、餓鬼が舐めやがって……」
「相手はナイフだ! リーチを活かすんだ!」
しかし仲間の五人目はそれに続かなかった。後退りし、木の根に背をついて腰を抜かした。
「そんな……まさか……」
「おい! 何してる!?」
「無駄だ……俺達じゃ無理だ!」
「何言ってやがる! 餓鬼相手に怖気付いてんじゃ……」
「無理なんだよ!」
男の断言した口調の後、静寂が訪れる。男達の視線がへたり込んだ男へと向けられる。
「こいつ、どっかで見たと思ったんだ……
思い出した。こいつは、街の『見せ物小屋』史上、最強の剣闘士だ。今まで一太刀も受けた事がない化け物だ!
ロート・ディーンスって名前だったなんて知らなかった。伯爵に騙されたんだ! 勝てっこねぇよ!」
男達は一斉にロートを見た。そして確かな動揺を露わにする。
「嘘だろ……こいつがあの……」
「ひっ、やっぱバケモンだったんだっ」
口々に怯えた声を上げる男達に、ロートは言い放つ。
「もう二度と、あの地獄には戻らねえよ」
ナイフを片手に男達を斬り捨てていくロートを見て、ミルカはその場にくずおれた。
しかし、頬はいつにも増して紅くなっている。
「やっぱり、なんて強いの。ロート君……」
息荒げに、そう呟いた。
♢♢♢
ギルバートの娘、ジェリアンナは屋敷を走り回り、双子の妹シェルフィナの部屋の扉を無造作に開いた。
「シェル! まだ部屋にいたのね?」
おしゃべりなジェリアンナと違い、シェルフィナは頬杖をついたまま無言で窓の外をじっと見ている。
「お父様の機嫌の悪さったら本当に嫌になるわ! きっと昨日のパーティで『シェールゴウンター』が飲めなかったせいね!」
シェルフィナはまだ何も言わない。窓の景色から視線もぶれない。ジェリアンナは喋りながら彼女の隣に座る。
「それだけじゃないわ。きっとブドウパイが食べれなかったこともあるわね。
それも全部、あの酒場の娘がパーティをほっぽり出したせいよ。せっかく私がお父様の為に雇ってやってたのに! 違う?」
ジェリアンナはいつものお喋り口調で続けた。
「私はね、シェル。『シェールゴウンター』が盗まれたって聞いた時から、あの娘を怪しんでたのよ! 今度屋敷に来た時に問い詰めてやるんだから!」
「はぁ、ジェリィ。よくそんな元気でいられるわね。私達のナイト様が絞首刑になるって言うのに」
シェルフィナはようやく口を開いた。視線は未だ、窓の向こうに見える『見せ物小屋』から動いていない。
ジェリアンナは待っていたと言わんばかりに胸を張って笑い、シェルフィナの気を引いた。
「何よ?」
「さっきお父様とリアーヌの会話を盗み聞きしたんだけど、お父様は私達のナイト様を絞首刑から救って下さるわ!」
ジェリアンナの言葉で、シェルフィナの顔が見違える程明るくなった。
「本当なの!? ジェリィ、嘘だったら……」
「本当よ! 考えてもみて。ナイト様は今や『見せ物小屋』皆んなの憧れの的なのよ? 絞首刑なんかお父様が許す筈ない。そんな事したら『見せ物小屋』の人気は地に落ちるわ!
しかも、あの賤しい父親気取りの男が居なくなったの! この意味が分かる?」
「あぁ、ナイト様が遂に私達だけのものになるのね!」
シェルフィナは憧れのナイト様が、伯爵家に迎え入れられる想像をして空を仰いだ。
「これから皆んなに知らせに行くんだけど。シェル、あの酒場の娘には絶対内緒よ?」
「そうね! 身の程を弁えずに彼に随分入れ込んでたし、前から本当に気に入らなかったわ。それに、今回の件でもう自殺でもしてるんじゃないかしら」
伯爵の娘達は笑いながら、部屋の外へ出て行った。