2話 奇跡の酒
目が覚めたロートはまず、胸に温もりを感じた。思い出したのは幼い頃。なかなか寝付けない夜に母親が抱き締めてくれた記憶だった。
次いで押し寄せるのは母親の恐ろしい顔だ。お前さえいなければと首を絞められた。
あの時初めて、ロートは死にたいと思った。
「ロート君? ロート君! 良かった……生きてる。生きてるロート君」
悲痛の中に喜びを見出した様な声はよく知る少女のものだった。返事をしようにも呻き声しか出ない。
「ロート君、あたしが分かる? ミルカだよ」
ぎゅっと胸が締め付けられる。酷く懐かしい感覚が、ロートにまた母親を思い起こさせた。
だが、その母親は間違いなく自分を殺そうとしていた。今思えば、貧しくとも幸せだった母親との思い出が嘘の様だった。
自分一人だけが馬鹿な幻想を見ている横で、母親は自分を憎んでいたのだ。殺したい程に。
「母さん、母さん……」
崩壊していく母親の幻想に縋り付く様に、ロートは胸の中の温もりを抱き締めた。
♢♢♢
その夜、ロートは村から逃げねばならなかった。朝になれば死体が見つかる。それも首の肉の殆どを刃物で抉り出された余りに惨い死体だ。
村中が騒ぎになる。人々は次に殺されるのは誰だと噂し、血眼で犯人を絞首台へと追い詰める。
ロートの服は血塗れだった。全ての状況証拠が彼を殺人鬼だと物語っている。
しかし逃げる気など毛頭無かった。生きる意味が、もう無かった。
「ロート君逃げないと、捕まったら殺されちゃう!」
「……」
ミルカがロートの肩を揺する。
ロートは母親の死体をじっと見つめているだけだった。大好きだった、今夜までは大好きだった母親は二度と返って来ない。
この瞬間に、現実でも、心の中でも、優しい母親は死んだのだ。
「俺が……死ねば……」
「ロート君?」
いきなり、ロートはミルカの白い頬を殴り付けた。なんの躊躇もない力でその小さな顔を床に叩きつけた。
「俺が死ねば良かったんだよ!」
ミルカは状況が飲み込めずに固まる。数々の疑問と恐怖、そして激痛がミルカの心と体を支配した。
「なんでだよお前……」
ロートが問う。混乱したミルカには何も理解出来ない。再び彼は憎悪を剥き出した声と共に彼女の胸ぐらを掴み上げた。
「なんでだ!?」
「わ、分からないよロート君。落ち着いて」
泣きながらも必死で応える。それが精一杯だった。ロートの瞳が恐ろしい光を宿し、ミルカはまた殴られると目を瞑った。
しかし、聞こえてきたのは悲痛な、絞り出される様な声だった。
「なんで……母さんが……」
なんで母さんが……。その先の言葉をミルカは二通り想像出来た。
一つは、何故母親が自分の首を絞めたのか。
もう一つはさっきまでのロートの言葉を思い出して分かった。何故自分ではなく、母親が死んでしまったのかと言う事だろう。
「だって、ロート君が死んじゃうと思って……あたし、どうにかしなきゃって……」
「俺なんて死ねば良かったんだ!」
再びミルカの思考が止まる。それでも目の前で涙し、顔を歪め、苦しんでいる少年の心を理解しようと、必死で頭を回転させた。
「俺が……母さんをずっと苦しめてたんだ。それをあいつのせいにして……。
母さんにとって何より大切だったあいつを殺して、俺は自分だけが幸せになろうとしてたんだ」
零れ落ちるように言葉を紡ぎながらロートの力が抜けていく。ミルカはそんなロートを体で受け止めた。
そしてミルカは思う。そんなの間違っていると。
先日、『シェールゴウンター』をロートが要求して来た時、絶対に無理だとミルカは思った。
酒場で一番高い酒だ。いくら実の娘であっても、盗めば親から勘当されるという程の認識だった。
だが、一応理由を聞いてみたその瞬間にはなんとかして用意しようと決意した。
その理由とは「父親が久々に帰ってくるから美味い酒でもてなしてやりたい」というものだった。
ミルカは時折、灰色の馬がロート達の家に繋がれている光景を目にしていた。
確かにそれは印象的だったが、はっきりと記憶しているのはその翌日に二人の顔や身体に必ず痣が出来ている事だった。それも一歩間違えれば命に関わるのではないかという酷さだった。
日々の会話の中で、ミルカはその灰色の馬の持ち主がロートの父親である事を彼の母親から上手く聞き出していた。
父親というものが少しでも話題に上がった時のロートのぎこちなさから、あの痣を付けている犯人は彼の父親で間違いないと確信していた。
その酒さえあれば、父親は二人を殴らないのではないか。もしかしたら、父親の機嫌が良くなって三人が仲直り出来るかも知れない。
ロートがそれを望んでいるとしたら『シェールゴウンター』は一つの家族を幸せに導く『奇跡の酒』だと、ミルカは思えてならなかった。
その日の夜、直ぐに酒場の蔵から『奇跡の酒』を盗み出した。次の日に大事件だと両親が騒いでも、何か知らないかと問い詰められてもミルカは罪悪感すら覚えなかった。
『奇跡の酒』を渡した時のロートの顔が、家族の幸せを夢見る様な彼の笑顔が、ミルカにとっては何より大切で護るべきものだと信じていたからだった。
「ロート君が死ぬべき人な訳ないよ!」
勝手に口が動いていた。その声にロートの目が見開かれる。驚きと、救いを求める様な目に見えた。
「おばさんのこと、守りたかったんでしょ? 酷い事するあの人から、守ってあげたかったんでしょ?」
ロートから返事は無い。それでもしっかりとこちらを見つめている。自分の声を聞いている。
「何も間違ってない。 酷いのはおばさんの方じゃない! そんな優しいロート君を殺そうとして! ロート君が今日までどんな気持ちだったか、家族じゃない私にだって痛い程わかるのに!」
「どうして……こんな俺に、優しくするんだよ」
再びロートはミルカに問う。ミルカも気付いている。目の前の少年が残忍な人殺しだと気付いて尚、抱き締め、共感し、正当化してくれている。ロートの疑問も最もだった。
その答えをミルカは直ぐに頭に思い描けた。
高級ワインを両親の酒場から盗んだのも、仕事が休みで暇さえあれば彼の家の前まであの馬が来ていないか確認していたのも、ジャーキーとブドウパイを届けに行ったのも全て、それで説明出来る。
ロートの母親の怒鳴り声が微かに聞こえ、引き返して家の扉を開いた時。
ロートの首を絞める母親を見て、このままでは彼が死んでしまうと思った時。
迷いなく、彼の大切な母親を殺すという決断を下せたのは即ち……
「すきだから……」
血の匂いと腐臭漂う中ミルカは、かつてない程の鼓動の高鳴りを感じた。ロートの顔が直視出来ない。
床に飛び散った強烈なアルコールの香りが自分にそう言わせたのかも知れないと、ミルカは言い訳の様に思った。
「他の誰よりも……君の事が、だいすきだからだよ」
ロートはさっきまでどうにか起こしていた身体の力を、再び抜いてしまった。
彼を救う為に砕け散った『シェールゴウンター』の瓶の破片が、エメラルド色の瞳に映し出されている。