1話 共犯者
目の前にいる男を殺そうと決意したのはもう何度目だろうか。
ロート・ディーンスはふと、そう頭に過った。いいや、今度こそやり遂げるのだと唇を結ぶと、服の袖に隠したナイフを持つ右手がじんわり汗ばむのを感じた。
「ロート、酒はもうねぇのか」
男が自分の名を呼ぶ度に、お前に名前を呼ばれる筋合いはないと心で唾を吐いていた。だが今はそんな事はどうでも良い。酔わせて意識を鈍らせる必要がある。眠らせられるなら最高だった。
「また酔って暴れるなよ、父さん。身体にも悪い」
それを聞いた男はロートを殴ろうと腕を振り上げたところで、彼の左手に握られた酒瓶が目に留まる。
「早く寄越せ」と言って瓶を奪い取るや否や、太い髭で覆われた唇をつけた。
男が酒を飲んでいるのを横目にロートは、古い木の床に倒れている母親の肩を揺すった。返事は無いが、さっき息をしているのを確認している。
母親の腫れ上がった横顔を見て、右手に強く力が入った。絶対に許さない。そう思った。
「ほう。うめぇ酒だ。やっぱお前は気が利くな。稼ぎもいい。そこの糞と違ってよ」
ロートは無言で返した。
ロートと母親の二人が住むこの家は側から見れば家畜小屋同然だった。実際、村に伝染病が流行って大量の家畜が死んだ時に格安で貰い受けた小屋だった。
壁に打ち付けられた無数の釘を見る度に、ロートは母親と二人で何日もかけて我が家を作った記憶が蘇る。
あの時はまだ、母さんは笑顔だった。そう思うと涙が込み上がった。
今は涙に暮れている暇はない。ロートは椅子にふんぞり返った男をそっと睨みつける。
その手に握られた瓶の中身はただの酒では無い。『シェールゴウンター』は村の酒場にある酒の中で最もアルコールが強い。
先日、この時の為に酒場の娘に頼み込んでようやく手に入れた代物だった。普通の酒ではこの男は酔い潰れない。これがどうしても必要だった。
「今日くらい泊まってけば?」
「ばぁか。こんな汚ねえ豚小屋で寝られるかってんだ」
寝込みを襲うのはやはり不可能だとロートは思った。この男はいつも、時折帰ってきては母親を殴り、二人の生活費を無尻取り、酒を飲んで何処かへ消える。
酔い潰す他に道は無い。
再びナイフを持つ手に力を入れた。その時だった。
「ごめんくださーい」
玄関口から聞こえる少女の声で、ロートの力はどっと抜けた。その声は先日、『シェールゴウンター』入手に協力してくれた酒場の娘のものだった。
どうしてここへ? とロートは考える。
「ロート、さっさと出ろ」
「う、うん」
乱れる呼吸と爆動する心臓の音を聞きながら、自分がどれだけ冷静さを失っていたかを認識した。こんな事ではいけない。今日の失敗は許されないのだ。ロートは玄関口の方へ歩きながら、気付かれぬ様に深呼吸をする。
扉を開けると、夕陽が差し込んで目を細めた。
そこに立っていたのは薄金色の髪を肩の高さで切った少女だった。彼女の緑色の瞳がゆっくりとロートを見上げる。
陽の光のせいか、頬が紅くなって見えた。
「どうしたんだよ、ミルカ。もう日が暮れるぞ」
「お父さんさ、帰ってきたんでしょ?」
ロートの問いに、ミルカは家の隅に繋がれた馬を指差して微笑んだ。男がここへ来る為にいつも、足として利用している馬だ。
「お父さん」という言葉に詰まっているロートを見て、ミルカは焦った様に言葉を紡いだ。
「こ、これ……お酒と一緒にどうかなって思ってさ」
真っ白な細い手でミルカは籠を差し出した。中には大きなジャーキーが数枚とブドウパイが入っている。パイはミルカの得意料理で酒場でも評判の味だった。肉と葡萄は高級品である。
ちらりと見ただけで、自分達との経済的格差にロートは感嘆した程だった。
「こんなの、貰えない」
遠慮するロートにミルカは表情を崩して上目遣いになり、ふふっと笑う。
「ドロボーさせた癖に、今更そんなこと言うんだ」
囁く様な声だったが、万一男に聞かれていないかロートは後ろへ振り向いた。男は酒を飲んでいる。
「じゃ、じゃあさ、一緒に食べない? あたし、ロート君のお父さんにも会ってみたい」
それを聞いたロートは焦る。ミルカを家に入れることは出来ない。中へ一歩踏み入れれば母親が倒れていて、男が酒を浴びる様に飲んでいる。
ミルカが異常を察知するのは明らかだった。計画に支障が出る可能性が極めて高い。
「いや……む、無理だ。いきなり来られても……」
芝居などした事がないロートはぎこちなくなった。身体中が強張っていた。そのせいか、余りにも無慈悲にミルカの申し出を断ったという自覚がない。
「あ……その……ごめん。せっかく家族水入らずなのにね。そんなつもりないの。忘れて。ごめんね」
実際、ミルカの方が慌てふためいており、籠をロートに押し付けるなり去って行った。顔が真っ赤になって目が潤んでいた事にもロートは気付かなかった。
ほっと一息ついて扉を閉め、男の方へ向き直る。
「父さん、これも食べていいよ」
ロートが籠を見せても男は反応しなかった。顔を覗き込むと何やらぶつぶつと呟いている。一気に呑んだ強い酒が体に周り、ほぼ泥酔しかけているのだろう。
「父さん?」
今だ、とロートは思った。血流が早くなり、息が上がるのを感じた。
籠をそっと卓に置く。その音すら爆音に聞こえるほど聴覚が研ぎ澄まされている。
右手のナイフを握りしめ、振り上げ、そのまま男の首へと……
ガッ
「あぁ?」
男の意識が一瞬覚醒する。ロートの頭は真っ白になった。
男が床を見ている。その視線を追う。
見えたのは、この日の為に毎日の様に研いだ愛用のナイフが床に突き刺さっている光景だった。
滑った。汗で。落としたんだ。
「おいロート……」
さっきまであんなに鋭かった聴覚が、男の声を拾わなかった。ロートはナイフに手を伸ばしていた。
凄まじい速度で床から引き抜き、身体を起こす勢いをそのまま利用して男の首へと迷いなく突き刺す。
「死ね、死ね、死ねっ」
首に刺せたのはこの場所以外に狙わないと決めていたからだった。
逃げられぬ様、男の髪の毛を掴んでいたがぶちぶちと抜ける。ロートは男の頭を抱え込む様にして固定した。加齢臭が鼻を刺した。
男の口からゴボゴボと音がする。まだ死んでいない。ナイフを持つ手の手首を右に捻り、左に捻り、上に返した。肉と骨が鈍い音を立てている。
やがて音が聞こえなくなっても、ロートはナイフを持つ手を動かし続けた。
右手が異常に熱い。どろどろしたものが包み込んで焼ける様な感覚を覚える。
まだだ。男が抵抗しているんだ。ロートは手を緩めなかった。
暫くして右手の熱が消えた時、男が遂に死んだと確信してナイフを引き抜いた。どれだけ時間が経ったのかロートは分からなかった。
「うぅ、あなた……?」
母親の声が聞こえる。大好きな母親の声だ。
もう暴力を振われることはない。痛みに苦しむことも、自分の為に食事を抜くことも無い。母を守り切ったのだ。
ロートは笑っていた。この先の2人の平和な生活が、ロートにだけは見えていた。
「母さん。終わったよ」
「ロート?」
「うん。俺やったよ。母さん。もう誰も、母さんを傷付ける奴はいないんだ」
ロートは笑ったまま母親に歩み寄り、膝をついて目を合わせる。酷く動揺している母親の顔にそっと左手を伸ばす。
「あいつはもういない。俺達自由だよ」
母親の視線は男の死体へ注がれている。みるみるうちにその顔が変形していった。
「母さん?」
「あなた……なんて事……」
ロートは母親に抱き締められたと感じた。
ロートは床に背中をついた。目の前には母親の顔が見える。
「なんてことお!」
母親が叫んだ。ロートは何かを言おうとしたが声が出なかった。そこで初めて気付く違和感。何故、抱き締められているというのに母親の顔が目の前にあるのか。
そうではなかった。母親の両手は自分の首へと伸びているのだ。
「な……んで……?」
「私の大切な……。あの人がいないと駄目なのに……。よくも、よくもお!」
意味が分からなかった。皺でぐちゃぐちゃになった母親の悪魔の様な形相が怖かった。苦しくて仕方がなかった。
「お前さえ……お前さえ生まれて来なければ! あの人に捨てられなかった! お前さえ産まなければ! お前さえええ!」
意識が遠のいていく。苦しい。だがそれよりも、悲しかった。
どうして?
俺は母さんが大好きだよ。母さんが苦しむ姿を見たくなかったんだ。
なのにどうして?
いなくなった方が良かったのは俺だったの?
大事なのはあいつの方だったの?
俺さえ産まれて来なければ、あいつと母さんは幸せだったの?
「お前は金を稼いでくるだけで良かったのに! その為に私がどれだけの苦労をしてきたと!」
母親が絶え間なく何かを叫んでいるがロートにはもう聞こえていなかった。脳が認識を拒んだ。これ以上は限界だった。
視界は水中にいるみたいに歪んでいる。目と鼻の奥がツンとする。
死の間際に彼が思ったことは一つだった。
俺が死ねば……良かったんだ。
「ロート君を離して! おばさん! ロート君死んじゃうよ! ねぇ! ……ロート君から……離れろ!」
そんな少女の声と、ガラスが割れる様な音が微かに聞こえた気がした。
日曜までに完結致します。