贖罪の時間
四年経っても、靴を履き慣れた様子はなかった。
彼女が転びそうになるたび、ガウナは彼女の体を引き寄せ、ゆっくりステップを踏んだ。彼女は頬を赤くしながら、それでも、一所懸命にガウナについてきた。
ああ、なんて幸せな時間!
四年前の記憶を無くした彼女は、ガウナにとても好意的だった。あんな最悪な出会い方をしていなければ、僕たちは恋人になれたのかもしれない……そう思うガウナだが。
ーーいや。
あんな出会いをしたからこそ、彼女はガウナの“良心”となり得たのだ。彼女にとっては非日常の、けれど、ガウナにとっては日常の世界で。
音楽が鳴り止んだ。周囲の人々の視線は、銀髪の公爵と、金髪の少女へと注がれている。
赤面する彼女はガウナの服の袖をつまみ、ある一点を指さした。そう、バルコニーである。
少し肌寒い夜だった。無数の星が、空に散りばめられている。
ガウナと彼女は並んで星を見た。
「もう、君には会えないと思ってた。君は死んだと思っていたからね」
「……」
不思議なことを言うのね、そんな顔をしている。当然だ、彼女に記憶はない。
「君はどの星だろうとずっと思っていた。強い輝きを持つ星でも、ぼうっと光る星でも、君には当てはまりそうな気がしてね」
くすりと彼女が笑う。ガウナも釣られて笑った。
「もしかしたら、月かもしれないと思ったりして。でも、月だったらダメだね、一つしかないから、皆欲しがるかもしれない」
触れた彼女の頬は熱かった。たぶん、ガウナの頬も熱いのだろう。その証拠に、柄にもなく心臓が音を立てている。
「僕は君が欲しい。僕の“運命”は、ろくでもなくて、君を地獄に落とすことになる。けれど、君を不幸にしてでも、愛したいと思うんだ」
彼女の瞳が、ガウナを映していた。慈愛の瞳。まっさらになって、全てを許してくれそうな、穢れなき瞳。
お互いの吐息が感じられる距離ーー両開きの窓が開く。
煌めく白刃。それを避けたガウナは、襲撃者の顔を拝んだ。
「よう、怪物。一丁前にヒトの真似事か?」
白刃の持ち主は、くすんだ金髪の子爵だった。礼服を着こなした彼は、小刀を器用に回して遊んでいる。
ガウナは、彼女からそっと離れた。彼女はぺたりと座り込んでいる。腰が抜けたのだろうか。
ルクレールは、そんな彼女に視線を送る。
「お嬢ちゃんは逃げな。俺が用があるのは、この公爵だけだから」
それでも、彼女は動けない。座り込んだまま、左手で緑色のドレスを掴み、ルクレールを睨みつけた。
「おうおう、怖い怖い。そんな顔するなよ。いくら獲物が獲られたからってさあ?」
「……」
煽るようなルクレールの言葉に、彼女は今度は悲しそうな顔をした。どうして? そんな表情だ。
「まだお前はこいつに勝てないからだよ。無謀も無謀。だから俺が、利用されるんだ」
ルクレールもまた、彼女に対して優しげな声を掛ける。ミラ・ウィトメールの客人だったはずの彼女を、知ったような口ぶりで。
「だから、行け。お前が助けなきゃならねえのは、もっと違う奴だ。大丈夫、俺は死なねえから」
彼女は頷き、勢いよく立ち上がった。バルコニーの柵に手をかけ、跳ぶ。
「待っ……」
「お前のお相手は俺なんだよ」
静止しようとしたガウナへの、再びの突き。
ルクレールの動きは、動作へのつなぎがスムーズで、隙がない。決してキレがあるわけでもない、だが、付け入る隙が見つからない。
そう、ガウナ一人であればの話だが。
「ギャラリーどもが集まって来やがった」
舌打ちするルクレールは、だが、どこか余裕そうだった。
ルクレールを取り押さえようとする人々を躱し、彼は優雅に暇を告げた。
「それじゃ、俺はここで」
彼女と同じように、バルコニーの柵から飛び降りた子爵は、暗い夜へと消えた。
「あ、アウグスト公爵……一体、今のは」
「さあ、私にもわからないな」
瞬時に平静になったガウナは、集まった人々を安心させるように笑みをつくる。
……座り込んだ彼女の右手は見えなかった。だが、ルクレールに向けていた視線から、察することはできた。
ーー彼女は、僕のことを覚えている。
きっと、見えない右手には、凶器が握られていた。僕を殺すための凶器が!
記憶を失ってなどいない。僕を殺すために、僕を愛しているフリをして、近づいたんだ。
ーーまったく、ずるいところも可愛いな。
恋は盲目なのである。ガウナは嘘をつかれたことよりも、自分を殺そうとする彼女の殺意を喜んだ。
四年間、彼女はガウナのことだけを考えて生きてきてくれたのだ。こんなに喜ばしいことはない。
殺意を持ってなお、あの穢れなき瞳ができるのは、きっと、彼女だけだ。
「君にはどんな場所でも、綺麗に見えるんだろうね」
「え?」
「いや、なんでもないよ。ヘッジ子爵、彼はどんな気持ちで、私を殺そうとしたんだろうね」
誤魔化すために言った言葉も、案外的を射ている。そう、あの子爵は、きっと彼女の正体を知っている。
まずは、彼に、彼女の正体を吐いてもらわなければ。
俺の復讐は幕を開け、あとは贖罪のみとなった。
四年前、あれを解き放ったがために、人々は喪うという経験をしたのである。
ならば、俺はその贖罪をすべきだ。その方法は、決まっている。
あの人が作った“抜け穴”を使い、孤児院の中へ。まったく魔法ってのは便利なものだ。
中は静まりかえっている。いや、よく聞くと、寝息が聞こえてくる。何人もの寝息が。俺がなによりも大切に思う奴らの寝息が。
台所に行き、目当てのものを見つける。調理用の油だ。
俺はそれを思いっきり床にぶち撒け、持っていたライターで火をつけた。
勢いよく燃え上がる炎。俺は、孤児院を後にした。
俺は四年前、あれを解き放ってから、二つの建物を作った。
天秤は明らか。死んで欲しくなかった奴らのいる施療院は石造で、比較的どうでもよかった孤児院のは木造で。
でも、いつのまにか、両方が同じ重さになっていて。
でも、奴らは死んだ。殺されたのだ。そこで、喪うことを知った俺は、贖罪を思い付いた。
四年前の大火で、喪う経験をした人々への贖罪を。
木造建築はよく燃える。耐火性の低い木で作った建物だから、なおさらだ。
俺自身の手で、大切なものを喪うこと。
それが俺の、あれを解き放ってしまったことへの贖罪である。人々からの復讐である。
そうすれば、不本意にも大切な人を失った人々の、何千倍もの痛みを感じることができるだろう。
事実、俺の頬には熱いものが伝っていた。




