もう二度と
舞踏会、二日前。夜。
ルクレールは、眠るミラと子供たちを起こさないように、そっと孤児院の外に出た。
壁にもたれかかりながら、空を見上げる。星は見えない。今日は曇りだ。月も見えたり隠れたりしている。
「……それで? あのガキは元気か?」
「まだ眠られています」
ルクレールの問いに答えたのは、暗闇から現れた従者だった。
「今回はありがとうございました。お陰で、ジルト様の動きを止めることができた」
「いいってことよ。前に孤児院の玄関前で、あのガキが固まってたことを思い出してな。そういえば、その時に言ってたのはトウェル王のことだったと思って言ってみたわけだ」
そう。フランベルク商会王都支店、応接室。“抜け穴”を通して、壁からジルトに声だけを聞かせたルクレールは、クライスの共犯者だった。
「これで、ミラさんに手は出さないんだな?」
「はい。子供たちにも手は出しません」
生真面目に答えるクライスに、ルクレールは苦笑する。
「そうか。じゃ、公爵に伝えといてくれ。俺はお前のことが嫌いだから、契約は破棄するわ。あと、あのガキにも、ごめんなって伝えといてくれや」
「承知しました」
クライスの背中を見送り、ルクレールは、孤児院の中に入り、独りごちた。
「これで、やっと……」
久しぶりにリルウといたガウナは、クライスからバカ真面目にルクレールの伝言を伝えられて、微妙な顔をしていた。
「“抜け穴”を使っただけで、僕はお払い箱というわけか」
「もっと引き留めれば良かったですね」
「いや、引き留めたら引き留めたで、懐に入られて殺されそうだから、このくらいが良いよ」
なにせ、ガウナはルクレールの同僚を焼き殺したので、恨まれている。
「彼の目的は何かな?」
「単純に考えれば、ジルト様を排除した後に、ガウナ様を殺すことかと」
「だよね……」
「ふふ、嫌われたものね」
リルウがざまぁみろという目でガウナを見ているが、彼女としてはそれで良いのだろうか?
「クライスに怒っていないのかい? 君の大好きなお兄様を気絶させて、拉致してるんだけど」
「『魔女の信徒』の本拠地でしょう? いつでも会いに行けるもの」
リルウの紅い瞳は混沌でぐるぐるしていた。
「呪いを解けるのは私だけ。今のうちに既成事実を……ふふふ」
体をくねらせるリルウ。ガウナはジルトのことが無性に可哀想になった。早く目覚めないと、大変なことになりそうだ。
「と、いうことで、舞踏会には出席しないから。よろしくね」
「はいはい」
「待っててくださいねお兄様!! 貴方のリーちゃんが今行きますから!!」
部屋からテンション高く退室したリルウ。ガウナはため息を吐いた。
「女の子って、怖いよね……」
「微笑ましい限りです」
何にも微笑ましい顔をしていないクライスに、ガウナは苦笑しか出なかった。が、すぐに表情を引き締める。
「それで、ミュール嬢との勝負には勝てそうかい?」
「はい。手筈は整いました」
クライスが灰色の髪の少年を攫ったのは、このためなのだろう。ジルトを餌にして、ミュールを殺す。
「ジルト様は王城で預かっていると伝えています」
「詐欺だね。それは」
「はい、詐欺です」
堂々と、まっすぐな目で答える従者。
「まあ、嘘も方便というからね」
あまりにもまっすぐなので、そんなことしか言えない。だから、ガウナはこのことで起こるリスクに対して言及した。
「ジルト君を手に入れたことで君に優位性があるのは確かだ。だけど、ミュール嬢の殺意を煽ることにはならないかい?」
「それを差し引いても、こちらにメリットがあります。あの犬は、ジルト様を傷つけられることすら厭いますが、私は厭いません。それは、あの犬も理解しているはず」
クライスは、あくまでも平静だった。
「私はジルト様をガウナ様の“理解者”にしたいだけなので、彼が必ずしも五体満足である必要はありません。しかし、あの犬は違います。あの犬は命さえあればいいという考えではない。全てを守ろうとしているのです」
事実、当て身をした時でさえ怒り狂ったと言う。
「あの犬が動揺をしていたからこそ、ヘッジ子爵が作った“抜け穴”を通って逃走できましたが、きっと二度目はないでしょう。そこで」
言葉を切り、クライスは目を細めた。
「あの犬とジルト様を引き離しました。あの犬は、“抜け穴”を通ることができません」
「……僕が言うのもなんだけど、君、結構いい性格してるよね」
クライスがやりたいことを理解して、ガウナは引きつった笑みを浮かべた。
「それにしても、君は彼女のことをよく理解しているね。まるで思考を読んでいるみたいだ」
「あれは、私と似ていますから」
ガウナのことを見て、クライスはそう言った。
「何をすれば怒るか、手にとるようにわかります」
一度目。
『ねえ、ミュール、私、好きな人ができたの』
金色の髪を、指でくるくると巻きながら、可憐な少女はそう言った。その頬は薔薇色に染まっていて、綺麗な草色の瞳は少し潤んでいるように見えた。
ミュールはその時、自分の気持ちを押し殺して祝福した。貧乏男爵家に生まれたお嬢様。使用人は次々と辞めていき、ミュールだけが残った。
どこかの鼻持ちならない貴族に嫁がされるのなら、いっそ私が攫って、二人で一緒に暮らそうか。そう思っていたところだったから、相手がお嬢様の好きな人ならばと素直に祝福した。
それはそれとして、お嬢様の相手が三大公爵家の一角、ドラガーゼ公爵家の長子であることを知った時は、公爵家に奇襲をかけたが。
結果は引き分け。「怖い番犬がいたもんだ」と苦笑した灰色鼠は、なぜかミュールのことを褒めちぎり、約束してくれた。
『僕が彼女を幸せにする。君が後悔しないように、彼女をどんなことからも守ってみせるから』
あの日、ミュールの大切な人は、奪われてしまった。永遠に。
二度目。
『彼は王城で預かります。二日後に会いましょう』
鼠の次は烏だ。お嬢様の大切な、大切な忘れ形見の首筋に刃を突きつけながら、彼は言った。
応接室の壁に空いた、不思議な穴。彼はそこに飛び込み、ミュールはそこに弾かれた。
また、奪われた。
また、ミュールは、主人を喪ってしまう。耐え難い絶望感と、憤怒がミュールを支配した。
決戦は王城。そこで、あの烏をくびり殺す。主人も同罪。そうして、今度こそお嬢様をミュールのものにして、二人で仲良く暮らすのだ。そうして、今度こそ、幸せにする。
ーー私は、もう二度と、喪わない。
鼠=髪色の意味もある




