いち抜けた
あの時、彼はこう言った。
『どこか痛む?』
そんな彼に、ジルトはこう答えた。
『頭が少し……』
たしかに、倒れている少年を見て、その反応は間違いない。問題は。
『……何があったか、話せるかい?』
何気ない言葉だったが、違和感があった。情けない話だが……もしかしたら、ジルトは事件の後に現場に来て、驚いて転んで頭を打ったのかもしれない。だが、警邏官の彼の聞き方は、ジルトが事件に巻き込まれていた前提の聞き方だ。
考えすぎかもしれないが。
目の前に血の海が広がっている。けれど、実際の死体はない。それをすぐに事件と捉え、そこで倒れているだけの少年を関係者と捉えた警邏官の、一つの可能性を、ジルトは仮定した。
すなわち、ジルトを背後から襲ったのが、目の前の彼であるという可能性。
ジルトの記憶は、ソフィアのとある言葉で途切れている。頭を殴られたショックで、そのあとのことを覚えていないのだと思っていたが。
それは間違いで、ソフィアとヘルマンが演技をしている最中に、正しく殴られたのだとしたら。
「それじゃあ、また後日。今日はありがとう」
警邏官の言葉に、ジルトははっとした。慌てて頭を下げる。
……二日前。ジルトは王都通信社に行く時に、またも全力でクライスの名前を叫んだ。論文の話もしようとしたが、それでも彼は出てこなかった。
だから、仕方なく一人で王都通信社に赴いたのだが。
ーークライスさんは出てこなかった。理由はわからないけど、俺の監視を外されたってことか?
応接室から出ていく警邏官たち。入れ替わりに部屋に入ってきた担任教師にがしがし髪をかき混ぜられながら、ジルトは考える。
ーーそして、代わりに派遣されたのが……。
憶測の域を出ないが、ジルトにはそれしか考えられなかった。ていうか。
「先生、やめてください」
「うるせえ、反省文書かせないだけいいと思え。お前はそうやってすぐに変なことに首突っ込んで……」
くどくどと続くお説教。担任教師は、ジルトの髪をなおもがしがしとかき混ぜてくる。それが、あの社長のようで、ジルトは思わず聞いていた。
「先生、犯人、捕まりますかね……?」
「たぶん捕まるんじゃね? お前もそんなに気負うなよ。血があっただけ。それで死んだと思うのは早とちりだ。もしかしたら、その血は動物の血かもよ?」
「……そうかもしれないですね。うん」
「遠い目をしてんじゃねーよ!」
まったく、俺が慰めてるのに……とぼやく担任教師に、ジルトは少しだけ笑う。
そうだ、まだ、二人の死が確定したわけじゃない。
『あ、これ、そうじゃないやつだぁ』
ソフィアが不吉なことを言おうとも、警邏官の彼が二人が殺されたことを前提にしていようとも。
ジルトは彼らが生きていることを、ソフィアが視たものが覆されることを、祈るしかないのだ。
そんなジルトの祈りは、天に届いたのか。
王都ソマリエ、アレリア監獄。
そこの看守長であるフェイディオ・マンスは、耐え難い罪悪感に苛まれていた。
ーーまた、殺された。
思えば、三年前もそうだった。とある貴族の不祥事を追って、この監獄に取材に来た王都通信社の青年は、その次の日に何者かに殺された。
そして、二日前。
公爵の不祥事を追って、この監獄に取材に来たソフィアと、王都通信社の社長が殺された。しかも、今回は、ソフィアの取材相手である、脱獄したヘルマンによって。
奇妙な符合に、フェイディオは頭を抱えるしかない。
三年前、通信社の青年を殺した犯人は、未だに見つかっていない。青年を取材相手に引き合わせたことが原因だと、フェイディオは信じてやまなかった。
結果として、青年が追っていた不祥事は、青年の死によって明るみに出た。一人の“死”があったからこそ、世論を動かしたのである。
そして今回も同じだろう、とフェイディオは思う。ソフィアが追っていた公爵の不祥事は、きっと世間の目に晒されるだろう。
『私たちはいつでも覚悟があるので、彼もそんなに後悔してないんじゃないでしょうか』
彼女の言葉を思い出す。やっぱり、いくら彼女に言われたとは言え、彼女とヘルマンを引き合わせるんじゃなかった。
それにしても、なぜ、なぜ、ヘルマンは脱獄できたのか。アイツさえ脱獄しなかったら、彼女と、社長は死ぬことがなかったのに。
ヘルマンの独房の前で佇むフェイディオは、苦悩する。
「すまなかった、すまなかった、ビーリフさん、ソフィアさん、マッジさん……」
鼻の奥がつんとなり、袖で涙を拭う。
こつ、こつ。
不意に、足音が聞こえた。最初は慎重に階段を降りていたその人物は、フェイディオのすすり泣きが聞こえたらしい。転びそうになりながら、階段を駆け降りてくる。
「か、かっ、看守長!!」
「なんだね?」
息せき切って駆けてくるのは、フェイディオの部下である。一番最初にヘルマンの脱獄を見つけた男だ。
「け、警邏の方がお見えになってます!! 至急、お耳に入れたいことがあると!」
そうして、彼の善意は。
「なるほど。当日まで、牢に異常はなかったんですね?」
穏やかな表情をした警邏官は、「やはりそうか」と呟いた。
「な、何がです? まさか、彼女たちを殺した犯人が」
「いいえ」
首を振る警邏官に、フェイディオは落胆する。そんなフェイディオを見て、警邏官は苦笑した。
「ああ、違います。私はほっとしてるんです。死んだのが、彼女たちではなかったことに」
「……は?」
「私は現場におりましたが、たしかにそこにはおびただしい血が流れていました。現場に倒れていた少年の証言から、てっきりヘルマンが加害者だと思っていましたが……」
とんでもない、加害者は彼女たちですよ。
フェイディオの時が止まった。
「死んでない……というのですか? ソフィアさんは、マッジさんは!?」
加害者、という言葉よりも、生きているという意味に希望を見出した。
「ええ。実は……」
そうして、彼の善意は打ちのめされる。
三年前の罪悪感さえ洗い流すほどの、強烈な……。
夕方。
突然訪ねてきた彼を見送った後、とある新聞社の社長は呟いた。
「あーあ、まったく馬鹿らしいったらねーや。いーち抜けたっ、と」
あからさまな、悪意を伴って。




