弱者の理論
ソフィア・アルネルトは不服だった。それはもう、不服だった。
「なんですかあのあからさまな公爵擁護。こっちは伯爵が公爵を訊ねて王城まで行ったことも掴んでるのに、まったく無関係とか。まあ、それは言いませんでしたけど」
ぐでぐでになって、机に突っ伏すソフィアは、そばにいる社長が楽しそうな顔をしていることには気づかない。
「あー納得いかない。弱者はジルト君なのに、まるで私たちが弱者扱い! あれってどうせ、私たちが弱小新聞社だから弱者だと決めつけてんですよ!」
こん、と目の前に置かれるカップ。ソフィアが顔を上げると、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。社長がソフィアに優しい笑みを向けていた。
「お前も人並みに悩むようになったんだな。良いことだよ。要は、守るべきものから逆に守られたことで混乱してんだろ?」
「違いますよ。余裕があるふりをして、余裕のないあの子のやり方が気に食わないだけです。あ、お砂糖多めでお願いします」
「もういれてあるよ」
自らもカップを持ちながら、社長は面倒くさい社員に苦笑する。ソフィアはお礼を言って、コーヒーを啜る。
「……まあ、ウチは弱者がウリですからね」
しばらくして、ぽつりと呟いた言葉。
「弱者だからこそ、強者に噛み付くことができる。あの公爵の喉元に牙を食い込ませることができるのは、案外私たちだったりしてー?」
「それも公爵が俺たちのことをお目溢しして、舐めきってくれたらだけどな」
「お目溢ししてくれますよー。なんたって、ウチは消えるんだから。ね、しゃちょー」
心底楽しそうなソフィアに、社長はため息をつく。
「まーたやり直しか。今度はどうする? 俺かお前か?」
「りょーほーにしましょうよ! それで、ジルトくんをワンワン泣かしてやりましょー! ついでにあのスカした執事をびっくりさせたいですね!」
鼻息荒く、明るく語る。
「へいへい……まったく、お前はなんでそこまで公爵を目の敵にするんだ? たしかに奴は怪しいが……怪しいだけだ。今回だって疑惑に過ぎないのに」
「私の勘が言ってるんですよー。あれはダメだって。あれは厄災をもたらすものだって」
ソフィアの声が少し低くなる。闇を切り取ったような黒い瞳が、社長を見た。
「“秩序”を壊す者だってね」
クライスが王都通信社でのことをガウナに報告すれば、ガウナは少し驚いた後、「星の巡り合わせかな」と呟いた。
「王都通信社は伯爵と僕の関与を疑っているみたいだね。まあ当然か」
「ええ。ジルト様の擁護も、表面上受け入れているようでした」
「だろうね。うーん、あそこはタチが悪いからなあ……というか、ジルト様?」
「ええ」
「君は陽の感情が表に出ないからわからないんだけど、楽しそうだね?」
「……そう見えますか」
「今は楽しそうじゃないね」
ガウナは珍しく困惑したようだ。
「言っておくけど、ジルト君は僕の障害になるなら排除するまでだよ?」
「ええ。ですが、それまでは生かしておいてもいいでしょう」
「……何か変なものでも食べた?」
「いいえ。王都通信は、どうされますか?」
「今ここで動いたら、ジルト君に怪しまれるからね。しばらくは静観かな。手は打っておくけど」
「それが良いかと思います」
「君、体調悪いの? 働かせすぎた?」
いつもはすぐ排除しようって物騒なこと言うのに……とぼやくガウナに、クライスは自分でも驚いていた。
たしかに、伯爵の一件で、ジルトがガウナの障害になったらどうするのかと訊いたのは、クライス本人である。自分は、どういう心変わりをしたのか。
「たしかに、休みがあまりないからな……貴重な人材が……」
目の前で頭を悩ませる独り善がりの公爵に。
等しく知識を有していなくても、思想を同じくすることがなくとも。
彼は、確かに父の理解者だった。
ファニタは、重苦しい思いをもって、その新聞記事を読んだ。
死刑。あの清々しくも悲しい笑みを浮かべていた伯爵は、とうとう論文の結論に辿り着くことなく死んでしまった。
『魔女の信徒』の教祖を押し付けられて死んだ、贖罪の羊。父を殺すように仕向けられた、父の理解者。
わからなかった。ただ、伯爵は、大きな悪意に呑み込まれたことはわかった。没落貴族であるファニタが敵うはずのない、圧倒的な強者の悪意に。
窓から見える星空は、いつしか誰かが見上げていた星空で。
ファニタはこの時、はじめて気づいた。
善人だけが、星になれるわけではないのである。




