完成
ガウナの指先が、チェルシーの珊瑚色の毛先に触れるか触れないかという時。
ジルトは、懐にもう一つ、感触があることを思い出した。
「……待てよ」
わざと音を立てて、それを引き抜く。ガウナの手が、ぴたりと止まった。
「馬鹿なことはやめるんだ、ジルト君」
突き刺すより、投げるよりも有効なこと。険しい顔になったガウナは、チェルシーから向き直ってジルトを見た。
ジルトは、自分の首筋にナイフの刃先を沿わせていた。
「お前がチェルシーを魔力の元にしたら、ここで首を掻っ切って死んでやる」
「戻ってこいって、言われてるんじゃないのかい?」
「俺には戻る気はない」
そう言った時、ジルトはすこし、ためらいを感じた。ずっと俯いていたクラスメートの少女と、「私も死にますから」と言った少女の、泣きそうな顔が頭に浮かんだ。
「お前を殺したら俺も死ぬ。人を殺して生きていけるほど、俺は神経図太くないんでね」
「だったら尚更、僕は殺されるわけには行かないんだけど」
ガウナの言葉に、ジルトは首を傾げた。
「良いじゃねえか、お前は、俺より先に死ぬんだから。俺が死んだのか生きてるのか、わかんねえだろ?」
「そういう問題じゃないんだよ、この鈍感」
ガウナは、少しイライラしているようだった。据わった藍色の目をしながら、銀髪を右手で掻きむしる。
「こんなに君がわからず屋だとは思わなかった。わかった、そのナイフを取り上げて気絶させてやる。チェルシーから魔力をもらうのは、また後で良い」
「結局チェルシーの魔力をもらうんじゃねえかよ!」
「良いじゃないか。君は気絶してるから、僕がチェルシーの魔力を糧にしたかしてないかはわからない」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
吠えながら、ジルトは薄皮一枚に刃を添えた。ぴりっとした痛みが襲ってきて、生温かい感触が、首筋を伝って、地面に落ちた音がする。
ガウナが低く唸る。
「馬鹿、血を流すんじゃない」
「馬鹿はどっちだ、そんなに血を流してるくせに」
「僕のは良いんだよ、もしかしたらこれで魔力を外に出せるかもしれないし。でも君のは違う。君には、魔力がない。切ったところが悪かったら、死ぬかもしれないんだぞ」
「だから死ぬって言ってんだろうが。ものわかりの悪い奴だな」
初めから、こうしていれば良かった。ガウナのあまりもの焦りように、ジルトは笑みすら溢した。
ーーそんなに大事か、俺のことが。俺からぜんぶ、奪っていったくせに。
今度は、ジルト自身でさえも奪おうというのか。そんなことは許さない。
そうだ、奪われる前に死のう。それが良い。
ーーコイツが、俺のことを何とも思ってなかったら良かったのに。そうしたら、俺は殺すことだけを考えられたのに。
運命なんてクソッタレだ。ポケットに入れた『左耳』からは、いっそ残酷なほどに、「死なせない」という思いが伝わってくる。
……その感情を、あのパーティー会場にいた人たちに、少しでも抱いてくれたら。ジルトがここに立っていることはなかった。
やんちゃで周りの見えなかった自分の視野は少しだけ広くなって、公爵家に嫁いできた母に楽をさせることもできた。
軍人だった父に剣術や格闘術を習って強くなり、ガウナなんか目ではないくらいに強くなることもできたかもしれない。
……。
『どのみち、君は可哀想だったんだよ、ジルト君』
ジルトは、そんな幻想を打ち消した。目の前の男は、ジルトの恩人とも言えるのである。
どのみち、父は……。
そこまで考えて、ジルトは、ガウナをまっすぐに見た。
「父さんは強かったか?」
もしもの可能性を見出したくて、ジルトはガウナに問うた。ガウナは、今度は、考える間もなく頷いた。
「強かったよ。僕が相対したどんな人間よりも強かった。たぶん、聖剣じゃなくて、普通の剣やナイフを使っていたら、僕が殺されていた」
「そうか、良かった」
それなら、この男を最後まで憎むことができる。トウェル王があのパーティー会場で父を殺そうとしても、殺せなかったという希望ができる。
清々しい気持ちになったジルトとは逆に、ガウナは。
「だから、あの男は」
呟いて、ジルトに迫る。ナイフを握っている右手目がけて飛んでくる強烈な蹴り。ジルトはナイフの向きを変えて、ガウナの右足に、刃先を沿わせた。ぱっと飛び散る鮮血、誤算は、頬だけでなく、目にもかかってしまうこと。いいや、違う。ガウナはわざと、ジルトの刃に当たりに行ったのだ。遠心力を利用して、勢いよく足を振りかぶることで血液を飛ばし、ジルトの隙を作った。
からん、からんと虚しい音が響いた。
「ぐ……」
腹を蹴られ、壁に背中を打ちつけたジルトは、遠くのナイフに手を伸ばす。伸ばした手は、勢いよく踏み潰された。
「あぁ゛っ……」
骨の折れる音がした。案外脆いものだと、そう思った。ぐりぐりと、ジルトの右手が踏み躙られていく。激痛に、ジルトは脂汗をかき、苦悶の声を上げた。
「四年前、僕は経験値を積んだからね。体術や格闘術、剣術なんてものは、警邏官には及ばないけど、殺し合いだったらお手のものさ」
冷たい声が降ってくる。人を殺しても何とも思っていないヤツの声が。
「これ以上、君を傷つけたくない。眠っててくれジルト君。大丈夫、全て終わったら起こしてあげるから」
ガウナの両手が、ジルトの首にかかる。呼吸が苦しくなって、視界が歪む。
「く、そ……」
声にならない声が出て、地面を引っ掻いた左手に、かたいものが、当たった。
ーーせい、けん。
ジルトが持っても、まったく意味がなかった聖剣だ。けれど、アルバートは教えてくれている。魔女を殺すには、この聖剣を使うしかないと。
ーーリーちゃんも、コイツを殺すには、これしかないと思ってたんだ。
ガウナは気付いていない。ジルトが、聖剣を、震える手で握ろうとしていることに。
ーーでも、最後の最後まで使わなかった。
それは何故か。地下に降りてきた時、目に入ってきた光景。ジルトに聖剣を渡すその時まで、手放さなかったリルウ。
ーーもしか、して。
聖剣を握った手が、何かに触れる。それは、チェルシーの流した血である。ポケットから転がり出た『左耳』が、左手に触れて……声が、聞こえた。
最初は、自分の右足が、異常に脆くなったのかと思った。
「あ……」
思わず、声が漏れた。出血は、そんなに大したことがないのに、体の根幹を抉られたような痛みが、ガウナを支配していた。
ゆらり、と立ち上がるガウナの良心。ガウナは、神様への嫌悪を抑えきれなかった。
「しかも、最後がチェルシーの血? 冗談よしてくれよ」
かつて、ギリア王が、海の怪物を倒してリセットした聖剣は。
ガウナが殺し、リルウが魔力を込め、そして最後に、チェルシーの魂を吸った聖剣は……ここに、完成したのだった。
本日はもう少し続きます。




