行ってこい
貧民街というのは、四年前は、お貴族様の住んでいた場所だった。王宮へと続く通りには大邸宅が並び、それはそれは豪華絢爛だったらしい。
今と昔では、雲泥の差だ。今はゴミを寄せ集めて作った見窄らしい屋敷が立ち並び、どこを見てるかわからない人間だったり、反対に何かを執拗に見つめ続けている人間が地べたに座っている。
その日を生きるのに精一杯な人間達は、狭い空なんか見ない。ましてや、ゴミが散乱し、虫が這っている地面など。
だから、男がそれを見つけたのは偶然だった。
「なんだ?」
それに近づく。腐臭を撒き散らすゴミ箱のそばには、タバコの吸い殻が捨てられていた。こんな貧民街ではお目にかかったことのない、高級なタバコである。
「タバコが良くても、人間性はよくねえな」
男は吸い殻を拾おうとして、そこから緩く煙が立ち上がっていることに気付いた。風に煽られて、吸い殻に火がつく。すかさず男は、吸い殻を靴で踏み躙った。煙は、消えていない。
「……ッ」
男の額から、脂汗が流れた。
踏み躙っても、踏み躙っても。吸い殻の火は消えない。男の脳裏には、ここで暮らさざるを得なくなった経緯が蘇ってきた。四年前、それなりの暮らしをしていた男は、火事で全てを失った。
「……くそっ、くそっ!」
男は手を伸ばした。こんなゴミ捨て場に置いてあったら、あっという間に延焼してしまう。だが、
「……ぁ」
男はどたんと尻餅をついた。四年前の恐怖が蘇ってきたからだ。吸い殻の火は生きているように勢いを増し、地面に散乱したゴミに燃え移る。目の前で、炎が育っていく。
「……」
一種、神聖な炎だった。炎は文字通り踊り狂い、すべてを薪にして走る。
燃える、燃える。まるで絵を描いているかのように、炎は滑らかに地面に舌を這わせ、弧を描き、円を描く。
やがて、それは、青く光り輝きはじめた。
リルウは逡巡していたようだった。当然だ、追い詰められた男がタバコを吸いたい、しかも、炎の魔法を得意とした『薔薇の魔女』の生まれ変わりである男が火を使いたいなどと言ったら、誰だって怪しむ。
よって、一番の得策は、吸わせないこと。無慈悲にもガウナの頼みを跳ね除けて、素っ首を聖剣で跳ねることだ。だがリルウはそれをしない。ガウナにはわかっている。
では、リルウが素直にタバコをガウナに吸わせるパターンはというと、それは悪手だ。この場で聖剣を持てるのは、セレス姫の生まれ変わりであるリルウだけ。今、リルウは右手で聖剣を持っている。左手でガウナの胸ポケットにあるタバコを取り出すのは難しいので、リルウは一旦、聖剣を持ち替えねばならなくなる。隙を作らなければいけなくなる。
ーーとすると、現実的なのは。
ガウナは、横目で、自身を取り囲む調査隊員たちを見た。この中の誰か一人を、生贄にすること。
それをすれば、最悪、ガウナが何をしようとも、犠牲は一人で済む。万が一の時は、調査隊員ごとガウナを殺せば良い。殺せればの話だが。
果たして、リルウの出した答えは。
「貴方が自分でやりなさい」
「え?」
調査隊員が適任だと考えていたガウナは、目を瞬いた。聞き間違えかと思ったが、リルウは、紅い瞳を半眼にして、
「聞こえなかったの? 貴方が出して、吸いなさいって言ったのよ」
「手を、動かしても良いのかい?」
「右手だけね。左手は上げたままにしておいて」
「わかった」
言われた通り、ガウナは右手でタバコの箱を取り出し、一本を咥えた。この数日間で扱いのうまくなったライターのやすりを回して、火をつける。
「そのライターを、地面に落として」
またもや言われた通り、ガウナは右手で地面にライターを放った。リルウは視線を外さず、ガウナに聖剣を突きつけたまま。
高まる心臓の音。それに気づかれないように、ガウナは煙を肺に入れる。
唇からタバコを離す。
「僕を殺さないのかい?」
「私は優しいから、貴方を待ってるのよ」
リルウは女優になれるな、と思った。皮肉げに笑うのは、ずいぶん余裕がありそうに見える。
ーーだけど僕にはわかる。四年一緒にいたんだから。
彼女は、確証を掴めずに焦っている。聖剣を使ったとして、本当に『薔薇の魔女』を殺すことができるのか。聖剣を使わないとして、『薔薇の魔女』を殺すことができるのか。
聖剣を使わないとして、十歳の少女であるリルウが、ガウナの心臓まで刃を貫通させるのは難しい。かといって、他の人間に任せれば、彼女の信念とやらが許さない。
ーージルト君の代わりに僕を殺そうとしてるんだ。リルウは優しい子だから、他の人間にそれを背負わせることはない。
調査隊員はパフォーマンスであり時間稼ぎ。彼らがガウナに手を出してくることはない。
ーーだけど、リルウの優位は変わらない。地上ならともかく、地下で炎を起こすことは不可能だ。
少なくとも、この地下においては、ガウナは劣勢なのである。
ーーこの、地下では、ね。
「そろそろ、だ」
自分は泳がされているのだろうか? 実はガウナの考えていることは筒抜けで、地上ではもう、ガウナの撒いた種は摘み取られているのだろうか?
いいや、予知能力者の対策のために、わざわざ魔術をストックしておいたのである。この地下の決戦のためのとっておきを。
視界でゆっくり燃える炎。それが消えていないことを祈りながら、ガウナはあえて笑った。
「悪いね、リルウ。僕の勝ちだ」
かつて。
自分の一族は、トウェル王を殺すためだけに、たくさんの人々を見捨てた。
あの丘の頂上から、祖父と一緒に、燃える街を見下ろした。
遠く遠くに炎の竜巻が見えたかと思えば、すぐ近くでも炎が立つ。まるで、一斉に火をつけられたように。
「ジルト」
唯一無二の親友の名前を呼べば、彼は力強く頷いた。
「ああ、行ってこい!」




