もう…
ふざけるな、ふざけるなよ。
ゼンは、目の前の愚かな男を睨め付けた。英雄と、幸せになりたい? こいつは、本当に魔女様なのか? 神はまたしても、差配を間違えた。かような雑念を持つ男に、高潔な魔女様の血を与えてしまった。
英雄をこうして閉じ込めているのは、いつか殺すため。心の臓に刃を突き立てられて殺された無念を晴らし、『薔薇の魔女』ローズ・クリエの復活を、愚民に知らしめるためだと、そう、思ったのに。
「幸せになりたい? そのような凡愚な願いを、魔女様が抱こうはずはない」
「ゼン?」
「お前は、誰だ?」
いや、問うよりも、こちらが早いか。ゼンは、英雄の生まれ変わりの背後に回り、その首に腕を回した。少年が、苦しそうにゼンの腕を引っ掻こうとする。
「魔女様、貴方は孤高の人であらねばならないのです。貴方は、復讐に生きなければならない」
「いや、そう言われても。僕は魔女だけど魔女じゃないし。その子を離せ、さもないと、焼くぞ」
「おかわいそうに。貴方はまだ、英雄への未練を断ち切れていないのですね」
「話を聞けよ狂信者。離せって言ってるだろ、殺すぞ」
「ですが、まだ私に危害を与えていない」
そう言うと、魔女様は舌打ちし、
「『アルバート』」
その時だった。ゼンの腕に、痛みが走り、見ればそこには、無惨な噛み跡が残っていた。
「これだけじゃ足りないか」
少年の声は、二重に聞こえなかった。これは、ゼンが持っているもののせいだ。声に出している方は、とても冷ややかなもので、さしものゼンも、肝を冷やしてしまった。
ーーこれが、英雄。
百万人の屍の血を聖剣に吸わせた、『薔薇の魔女』に匹敵する存在。
「よっ」
軽い掛け声と裏腹に、迫ってきていたのは靴先だった。少年を逃さないように右腕で目を守ろうとするが、
「っ……」
右腕は、少年の脇で押さえつけられていた。だからゼンは、少年を拘束している左腕を使わざるを得なかった。
信じられなかった。こんな、成人もしていない少年が、ゼンを相手に臆することなく、躊躇なく、目を狙ってくるとは。いや、少年ではないか。
ゼンの拘束を逃れた英雄は、「余計なことを」と、誰にともなく呟いたのだから。
そう。
ゼンには、英雄が出てくると同時に、いなくなってしまった少年の声が、きちんと聞こえていた。
その少年は、ゼンに殺されそうになったにもかかわらず、英雄が宙返りの要領で、ゼンの目を狙ってくることを教えてくれたのである。
今も、ゼンに『逃げろ』と言ってくれている。とんだお人好しだ。
「君も、英雄とは違うんですね」
返事はなかったが、返事はあった。少しだけ迷っているが、彼の声が別に聞こえることが、彼が“違う”という証明に、なるのだろうか。
ーー私がそれをするのは、気分次第だと思っていましたが。
いやはや、たしかに、この少年は“良心”である。パチンと指を鳴らす音が聞こえて、だが、目の前に見えた炎は、すぐに消えた。少年が、ゼンに抱きついたからである。
「俺がいたら、殺せないだろ」
「こっちに来るんだ、ジルト。そんな奴、庇う価値もない。君を殺そうとしたんだぞ。重罪だ、骨も残さず焼いてやる」
ガウナの声は、不機嫌だった。だが、それに臆することはなく、ジルトは言う。
「殺そうとしただけだろ。それを言うなら、お前も俺を殺そうとしてたじゃないか」
「過去のことは水に流してくれると嬉しいな。とにかく、こっちにおいで。あんまり君の魂と、アルバートの魂を同化させたくないんだよ。ね」
懇願するようなガウナに、ジルトは「嫌だ」と言った。はっきり、意志を口に出した。
ーー今だ。
また、名前を呼ばれてしまう前に。
「そうか、君は、ジルト君というのですね」
ゼンは、エキスポーズ副所長から預かっていたものを、少年に、手渡した。
それを受け取った瞬間。靄がかかっていたのが、一気に晴れ渡る気がした。
不安定な暗闇で、不安定な一本橋を渡るような感覚は消え去り、代わりに現れたのは、大きく、広く開けた日向の道。
「『アルバート、アルバート』」
「俺は、アルバートじゃない」
今ならはっきり言える。俺は、ジルト・バルフィンだ。ジルトという名前は両親がつけてくれて、バルフィンという姓は、師匠がつけてくれた。
ローズの声が聞こえないわけではない。けれど、それ以上に、ローズのものじゃない心の声が、聞こえるのである。
「チェルシーが言ってたの、こういうことだったんだな」
少しだけ、ジルトは泣きそうになって、無理矢理笑った。チェルシーが、死んでまで伝えてくれたことは、こうして、ジルトを助けてくれている。
「お礼を伝えにいかなきゃ。えっと」
「ゼンです。よろしく、ジルト君」
「よろしくお願いします。突然だけどゼンさん、腕に自信はあります?」
「ええ、私、こう見えても、凶悪犯罪者ですから」
穏やかに微笑み、物騒なことを言うゼンは、ジルトの体を肩に乗せた。
「まずは、ここから出ましょうか」
誰もいなくなった家の中で。
「寝取られだ」
膝を丸めて、顔を埋めていたガウナは、怨嗟を吐き出した。
「寝取られだ、寝取られだ、寝取られだ」
同じ言葉を何度も呟いた末に、顔を上げる。藍色の瞳は、底なしの闇に沈んでいた。
「どうして僕はひとりぼっちなんだ、僕は、良い人間になりたいだけなのに。僕が人間でいるためには、あの子が必要なのに。それもこれも、全部全部、アイツらのせいだ。アイツらがいるから、ジルトが帰る場所ができてしまうんだ。脅しのためにとっておいたけど、もう、いらないか」
ぶつぶつと呟きながら、ガウナは、床に油を撒いた。
「もう頃合いだ。もういいや、もう遅い」
ぱちぱちと火の粉をあげ、燃え上がる思い出の家。それを少しだけ眺めてから、
「ぜんぶ、ころしてやる」
虚しい呟きは、地に落ちた。




