契約履行
片目をなくし、片耳を無くした少年は、「あーあ」と呟いた。
「一年も保たないじゃん。所詮は、アイツも人間ってところかな」
暗い暗い水の底にいるのに、少年の声は明確に響き渡った。どころか、まるで水などないかのように、ゆっくりと水底を歩き出す。歩きながら、少年は、何かを掴むように、手を広げたり、閉じたりと忙しない動きをした。
「うん」
頷いた少年の指には、金色に光る、夥しい本数の糸が巻き付けられていた。細い細いその糸達の中には、光を失って、だらんと垂れ下がってしまっているものもある。それは、死んだ人間達についていた、死んだ糸だ。
死んだ糸は、言い換えれば死んだ血である。適正のある者が生まれれば、糸はまた輝きだし、少年と繋がれるのだ。
さて、この無数の糸の先にいる人間のうち、また少年と“繋がった”と認識できる人間は、どれくらいいるだろうか。それは、少年にもわからない。なにせ、少年にはもう、未来を知る力はないからだ。
だが、確実に言えるのは……特別な人間は、糸に気付くということ。たとえば、特別な魔力を持っている人間とか。そんな人間が、いち早く魔力が戻っていることに気付いたらどうなるのか、彼もわかっていただろうに。彼がしたことは、姑息な手段なのである。
少年は、唯一左目に残った『千里眼』で、地上の様子を覗き見た。
もうすぐだ、もうすぐでまた、混沌が始まる。
「さぁて、主文撤回の時だぜ、魔術師サマ?」
言葉とは裏腹に、さして楽しくなさそうに呟いた。
『……泣くなよ』
その青年から言葉をもらった時、ソフィアは、そうありたいと思ったのだ。
「泣かないでください」
生きていた頃にはできなかったことだと、小さく笑った。フレッドの体を借りている今、自分は、セブンスを抱きしめることができている。
「泣いてなんかねえし、暑苦しいわ、どけ」
セブンスは、うるさそうにソフィアのことを追い払おうとしたけれど、強引にソフィアを遠ざけることはなかった。それもまた、負い目というものなのだろうか。ソフィアは苦笑して、抱きしめる腕に力を込めた。
ゆっくり、自分の気持ちを吐露する。
「私は、貴方を赦します。エリオット従兄さまを、殺した日に、思ったんです。私も、誰かの頭を撫でることになるのかなって」
ソフィアの手は、王都通信社の記者であることをなしにしても、汚れすぎている。ダグラスである時点で、四年前、無辜の民を焼いた火事を都合よくとらえて、逃げ出した時点で。ソフィアはもう、綺麗な存在ではなくなったのだ。
そんなソフィアの手で撫でられる人間は誰なのか、ずっと考えていた。
そしてようやく、答えが巡ってきたというわけだ。
「死んでからやりたいことやれるなんて皮肉だけど、私はこうしたいんです」
フレッドの体というのも良かった。あの人も、この人を心配していただろうから。ソフィアは、そっと、セブンスの後頭部を触った。唇を尖らせる。
「む、髪の毛サラサラですね、手入れしてないくせに」
いつもテキトーに櫛を入れたり、それでなければ手櫛で済ませてたくせに。
浮かんできた、帝国時代の思い出は、ソフィアの心を確かに突き刺した。その傷の深さを無視して、長くて赤い髪を、そうっと撫でる。セブンスは、まるで借りてきた猫のようにおとなしかった。その眉間には、大いに皺が刻まれていたが。
「殺されたって、選ばれなくたって、私は恨んでいませんよ。だって、私は魔女を討つことはできなかったけど、エリオット従兄さまを討つことはできたんだもの」
「復讐なんてさせなきゃ良かった。そうしたら、お前が素直に死を受け入れることはなかったのに」
「みっともなく、泣き喚いて欲しかったんですか? 死にたくない〜って」
茶化すように言うと、セブンスが、怒ったような顔をした。がっ、と肩をつかまれる。
「そうだ。俺は、お前を死なせたくなかった!!」
「でも、そうしないと、魔術は手に入らなかったんでしょ?」
諭すように言うと、小さく頷かれる。「よかった」と、ソフィアは思った。
「後悔してないなんて言われたら、呪い殺しちゃうところでしたよ」
「後悔しないわけないだろ、お前はまだ若くて、俺より年下で、才能もあったのに……!」
「そう言われても」
セブンス・レイクという一個人に比べれば、ソフィアの才能なんて塵芥のようなものだ。だから、これは喜んでいいやら、「謙遜も過ぎると傲慢ですよ」と怒るべきやら。
ソフィアが困っていると、それ以上に困っていそうなセブンスが、何かを言おうとしていた。だが、それは言葉にならず。たぶん、賢い彼のことだ。ソフィアが考えていることなんて筒抜けなのだろう。だから考えあぐねている。自分の言葉は、真実だと言っていいのか。
そんなところも不器用で、愛おしい。
「泣かないで、セブンス様。誰もが貴方を置いていっても、私たちは見ているから」
いっそ、本当の傲慢な性格に生まれ落ちていれば良かったものを。この人は、ひとりぼっちが嫌いな人間だ。
ーー私も、そう見えてたのかな。
もしかしたら、エリオットのあの言葉は、単にソフィアが泣く未来を予知したのではないのかもしれない。もっと、心の底の、根本的な……
「セブンス様」
彼もまた、人間だ。目に光るものを見つけて、綺麗だと思った。
ーー置いてきた悲しみを、持っていこう。
「何度だって言います。私は、貴方を恨んでいません。それどころか、好感度が高いですよ! 愛してるって言ってもいいかもしれません!」
満面の笑みを浮かべたソフィア・アルネルトの言葉に。
セブンス・レイクは、“幸福”を感じてしまったのだった。
『主文は?』
『契約不履行。俺の祖先は幸せになるために魔法を手に入れたのに、ちっとも幸せにならない』




