そして…
願いというのは、最初はとても綺麗なものだ。
蒼い目をした先祖は、純粋な思いで、魔術師の幸せを願い、そして、レデン達子孫の幸せを願っていた。
だが、長く続く願いは、呪いに過ぎない。
あるいはそれは、レデンの願望だったのかもしれないが。
『しあわせになってね、レデン……それが、私たち一族の、願い、だから……』
ベッドの上で、弱々しく言ったその人の脈は、次第に緩やかになり、感じられなくなった。レデンはそれが信じられなくて、何度も何度も、母を揺さぶった。だが、優しい声が返ってくることはない。蒼色とは程遠い瞳は光を失っていた。レデンは名残惜しくも、母の瞼をそっと閉じてやった。
綺麗な瞳の人だった。もともと、アーウィッシュの一族ではないのに、父と結婚したことで、縛られてしまった人だった。
最期まで優しかった人の亡骸を見ながら、レデンは思った。
ーーこの人が、僕の母親じゃなかったら。
清貧を尊ばなくて、もっと狡賢く生きていける人だったなら。肉がほとんど落ちた姿にならなくて済んだろうに。
ーー魔術師が望んだように、“目”を使おうとしない人だったから。
死への道筋が、いとも簡単に、開かれてしまったのだろう。
『だったら僕は、“目”を使って、不幸になってやる』
つぶやいた言葉は、すとんと胸に落ちた。
この世界で、まだ生きている魔術師に後悔させてやる。レデンの先祖に目をやったことを、後悔させてやる。
手の中にある“目”は、赤く輝いていた。
はらはらと、花弁のように散っていく協定書を、ラミュエルは、辛抱強く、じっと見ていた。
ーーああ、彼女は強いな。
翡翠の目を見て、レデンは自嘲した。
亡き姉の無念を晴らす唯一の方法が失われてゆくのを、目を逸らさずにじっと見ている。自分ではできないことだ。母を亡くしたあの日のように、みっともなく縋るに違いない。
「これで、協定書はなくなりました……そして、私たちの和解の道も」
「そう、ですな。帝国と共和国は戦争をし、そして、帝国を打ち破った貴方は、王国を滅ぼすのでしょう」
聡明な姫は、自国が負けることを確信していた。だが、風ひとつ吹かず、葉一枚落とさない湖面のような瞳は、
「ジルト」
なぜか、レデンのことを見続けている少年へと注がれた。
「アーウィッシュ副大統領」
その少年は、ゆっくりと右手を開き。
「貴方の、負けです」
それは、突然だった。
髪を引っ張られ、剣先を突きつけられ。民主主義なんて言葉がないこの場で、
「……なんだ?」
「どうしたの、ユバル?」
大切な幼馴染を巻き込むのは嫌だったが、大切な幼馴染と死ぬのは悪くないと思っていた、この場で。
「……まさかッ」
ユバルはターゴに命じて、その紙に書かれていることを読む時間を作らせた。
時間はない。だが、これは慎重に読まねばならない。異国の言葉で書かれた文面を読むたびに、ユバルの目は、みるみる見開かれていく。
「……なんてこった」
額に手をやり、ユバルは高笑いした。
「ターゴ、もういいぞ」
「はっ」
忠臣よろしくユバルを守っていたターゴが“道”を開ける。
「観念しましたかな、ユバル王子ィ! ぶっ!?」
歓喜の声と共に襲ってくるドマゥス・パッキャ元将軍の髭面に、その文面を、叩きつけた。
「よぉく見ろ、これが、真実だ」
いくら将軍の頭に血が上っていたとはいえ、上質な紙、なにより、帝国と王国の紋章が入ったそれを、無碍にすることはできなかったようだ。
「……うら、協定書。小麦……鉱石、経済制裁……」
裏協定書を読む手はぶるぶると震え、やがて、ドマゥス将軍の瞳には、涙が浮かんだ。
「なんてことだ……ヤブルィ様の、言った通りではないか……」
ヤブルィというのは、ユバルの父で、八年前に殺されてしまった共和国……王国の元君主である。
がくりと膝をついてしまった将軍の様子をおかしく思った議員がそれを読み、両国が手を組んでいたという事実に、またもや膝をつく。
彼らは気付いてしまったのだ。共和国が、哀れな道化であったことに。帝国が共和国を嵌めようとしていたのではなく、帝国と王国の二国が共和国を嵌めたのだと。
「馬鹿馬鹿しい……」
誰からともなく呟かれた言葉は、この場にいる全員の気持ちでもあっただろう。旧王族派が推していた王国も、大統領派が推していた帝国も、結局どちらも、敵であったのだから。
意気消沈する人々を見ながら、ユバルは、さてどうしたものかと考えた。帝国も王国も敵、これだと、戦争路線まっしぐらだ。
「俺が両国と間を保ってもいーんだけどなー、それだとまた火種になりかねないし」
なにせ、ユバルは王族を引退した身。今さら外交のキーパーソンにでもなったら、また力をつけてしまう。
「だ、れ、か」
意気消沈している議員の間に、震える足で立っているその一人を、
「俺の代わりに、外交してくれる奴いねえかなー?」
ユバルは、真っ直ぐ見て言った。
その様子を視ながら、レデンは、呆然としていた。
ーーどうして、どうしてそういう風に進んでいく!?
レデンが破り捨てたのは、たしかに本物の協定書だったはず。レデンは、地面に散らばる紙切れをかき集めて……自分で修復不可能にしたのだから、それはもう遅いのだが……帝国と王国の透かしを探していく。だが、どこにも、それがない。
「まさか」
赤い髪の魔術師を見る。彼はわざわざ、服のあちこちをぱんぱんと叩いて、レデンに両手を見せびらかした。持っていたはずのものを持っていない。
「そんなことが、まさか!」
こめかみから流れた汗が頬を伝い、レデンの体を芯から冷えさせる。赤髪の魔術師と、セレス姫の生まれ変わり。どちらも、空間魔術を持っている……。
レデンの耳には、あの虚しく響いた二つの音が、蘇っていた。
「入れ替えたというのか、二つの協定書を……」




