本物の協定書
人の頬をグーで殴っておいてなんだが、あまり良い気はしない。
だが、そんなことをおくびにも出さずに、ジルトは不敵な笑みを浮かべた。
「やっぱり師匠は、悪人になりきれない善人だよ。俺を守ろうとして、悪人になろうとしたんだから」
落とし穴に落とされて上から蛇を落とされたり、そのまま山に置き去りにされたりしたけれど、やっぱり、師匠は師匠なのだ。穴の中で、図太く寝入ってしまったジルトが次に目を覚ました時は、王都の家の寝室だったし、なんやかんやで、セブンスはジルトのことを守ろうとしてくれている。まあその後、また穴に落とされたけれど。それも最低限戦える力を身につけさせてくれた、と好意的に捉えるとして。
だからこそ、ジルトは、師匠の間違いは正さなければいけない。
ガウナを殺すために、ソフィアを殺し、フレッドに殺させ、神様をも殺す。帝国も、共和国も、目的のためには使い倒す。
そんなことしたら、どうなるかは目に見えている。
ーー師匠は、アイツと同じ穴の狢になっちまう。
ジルトは嫌だ。自分を助けてくれた人が、多くの人から恨まれるのは。セブンスが、人から嫌われて、不幸になってしまうのは。
幼い頃に繋いでくれた手が、自分のせいで、血に汚れてしまうのは。
ーー『左耳』っていうのが、本当なら。
「俺の考えてること、わかるか?」
「ああ、わかるわかる。だけどな……」
ひらひらと手を振って、軽く流そうとしたセブンスの、
「俺は、アンタと一緒のこと考えてるよ、師匠」
赤い瞳を見て、ジルトは言ったけれど。
「いいや、違うよ」
セブンスは、ゆるりと首を横に振った。
「一度でも人を殺した奴が人を殺すことと、一度も人を殺したことのない奴が人を殺すことは、明確に違うんだ」
その視線は、自らの手に注がれている。
「俺の手はもう汚い。覚えてるのが親父の死だっただけで、実際はもう、数え切れないほど殺してる。どれが誰の血だか、まるでわからない……あの魔女を殺したとしても、俺は何も感じない。だけど、お前は違う」
つと視線を外し、セブンスは、ジルトのことを、まっすぐ見つめた。
「お前があの男を殺したとして、お前はその死を、一生忘れられなくなる。お前はガウナ・アウグストに呪われる」
かつて、薔薇の魔女を殺した英雄アルバートのように。
そして、自分の父親を殺した、セブンス・レイクのように。
セブンスは、ジルトに、後悔して欲しくないのだろう。
温かなものが、胸に込み上げてくる。
「お前……」
セブンスが、困惑した表情を浮かべた。
「まだ、進むつもりなのか」
「言ったろ。アンタと一緒のこと考えてるって。手が汚れてるとか、手が汚れてないとか。そういうことじゃないんだよ、俺も師匠と同じ。師匠に手を汚してほしくない」
自分たちは似たもの同士だ。師匠も弟子も、相手が手を汚したほうが、自分が手を汚した時よりも、よっぽど後悔に苛まれる。
「わかってんだろ、師匠。俺たちは、そういう師弟だ」
「……」
ひゅ、と降ってきたラテラを躱すセブンス。
「決裂だな」
冷めた赤い瞳で、ぼそりと呟き、
「…………ッ」
その姿が、掻き消える。瞬間、ジルトの首に回る腕。
「このままお前を落とす。そんで俺は、ラミーを追っかける」
背後から体をぴったりと密着させられている。逃げる隙はない。かろうじて自由になる右手で、首に回った腕を外そうともがいていると、
『お前は無表情に見えて、意外と表情が出るからな』
「……ッ!?」
左手に握らされたそれ越しに、“声”が聞こえた。
『いいか、よく聞けジルト。お前がするべきはーー』
霞む意識からは、案外早く脱出できた。
「お兄様ッ、お兄様ッ!!」
目に涙を溜めたリルウが、体を揺さぶっている。
「リーちゃん」
「なんですか!?」
「あと何回、転移魔術を使える?」
レデン・アーウィッシュが帝城に現れた時、ラミュエルがしたことは、背後の父を庇うことだった。
「何をしている、ラミュエル。先程言っただろう、俺は」
「ああもう五月蝿い。黙っていてくれませんか父上。気が散ります」
咄嗟に父を庇ってしまった自分と、姉のことを思う自分に折り合いがつかない。
モヤモヤしたものを抱えながら、ラミュエルは大剣を構えた。
「共和国副大統領殿、貴殿は何をしにここに参られた?」
「貴方と、交渉をするために」
「交渉……?」
正式な訪問ではない。夜分、他国の帝城に現れるのは、非公式な訪問であり、ろくな交渉ではない。
レデンは、警戒するラミュエルの言葉に頷いた。
「ええ。どうです、ラミュエル姫。亡き姉上様の無念を晴らすために」
そして、スーツの内ポケットから、白い何かを取り出す。よく見ると、古びた紙のようだ。
「まさか」
広げた紙には、かつての王国君主と、現在の帝国君主の名前が連名で記されている。
「本物は、こちらです」
チェルシーの結界から飛び出たユバルは、ターゴ、ニェルハと共に。
大統領府で、肩身の狭い思いをしていた。
「これはこれはユバル王子ィ、飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこのことですなぁ」
自分たちが人質に使った、ドマゥス・パッチャ元将軍は完全に寝返ったらしく、にやにやと笑いながら、ユバルに剣を突きつけている。
「神聖なる議会で、剣を抜くとはどういうことだ?」
そう、ここは大統領府で最も民意を反映する場所、会議場である。
数分前、ユバル達は、王国の才媛、ファニタ・アドレナによる指示で、ここに放り込まれたのである。
『インパクトを与えるなら、一発逆転ですから』
ーーうーん、一発逆転ね。
ニェルハが本気を出せばそれもできそうだが、ぶっちゃけ、ニェルハにはもう無駄な血は流させたくないし。
「王子、この状況をわかっておいでで?」
「わかってるわかってる」
ごろんとその場に寝転がったユバルは、
ーーだったら、俺は待つしかないだろ。




