皇帝の役割
敗北した男は、突如として現れた余所者を見た。
あの少年が、娘をたぶらかしたのだ。
リーザの縄を切って、なぜか呆けたような顔をする少年に、皇帝は殺意を向けた。
「お前が、ラミュエルを唆したのか」
「そうだといったら?」
この場にいるのは、偶然でもなんでもないらしい。覚悟を決めた草色の瞳で、少年は、皇帝をまっすぐ見つめ返してきた。この少年もまた、レーナやラミュエル、リーザと同じ。どこまでも真っ直ぐな瞳で、皇帝である自分を否定してくるのである。
ーーその目が、気に入らない。
自分の喉元へと突きつけられている剣先に目をやる。先程戦っていてわかったが、どうやらラミュエルは、皇帝の命を奪おうという気はないらしい。ならば、勝機。
殺そうとしている者と、殺そうとしていない者。どちらが有利かは、目に見えている。
「っ……!」
握った剣先から、血が迸る。渾身の力を込めて、皇帝は、それを床に叩きつけた。
ラミュエルは、剣を離すことができない。当然だ、離したならば、皇帝に剣が渡ることを理解している。
ほんの一瞬でいい。隙ができれば。
願わくば、剣が叩きつけた衝撃で、ラミュエル本人も床に叩きつけたかったが。流石は、レーナの妹だ。ぐらりと体が傾いだのみ。
「剣などなくともッーー!」
手と足。四本を床につけて、獣のように少年に迫る。ラミュエルが、皇帝の進行を止めようと目の前に差し出してきた足に絡みつき、振り回す。
「ジルト!!」
悲痛な声を出すラミュエル。弱い声だ。
「これも、わかってたの!?」
「ああ、わかっていたさ」
リーザが庇おうとするのを静止して。
少年は、自ら、皇帝へと歩み寄った。
「その細首、へし折ってやる!!」
「できるならどうぞ」
できる、できるとも!
四つ足をやめ、皇帝は立ち上がり、少年の首に手をかけた。少年は無抵抗。皇帝に首を絞められて、されるがまま、宙に浮いている。
「もうやめてお父様ッ」
足に縋り付いてくるリーザを蹴飛ばし、
「わかんない、わかんないよ、ジルト……」
目に涙を溜め、首を振るラミュエルを嗤う。
「殺せばいいものをッ、弱くなったなラミュエルッ!!」
「い、いや、ラミーは強いよ」
か細い声が聞こえた。死の淵にいる少年の目に宿っている光は、
「やめろ」
「お父さんより、ずっと、強い……」
「やめろと言ってるだろうが!!」
口の端から涎を垂らしても、声が出せなくなっても。少年の光は、どんどん強くなっているようで。
「ーーそこまでです、皇帝陛下」
指を鳴らす音が聞こえると同時に、体に異変が起こった。
「なッ……!?」
季節は夏。それなのに、体が、足元から凍っているのである。それは、皇帝の首元にまで達しており、
「これ以上、お兄様に狼藉を働いてごらんなさい……呼吸もできないようにしてあげるから」
ぞくり。
少女の声だ。決して、あの男の声じゃない。少年の首から手を離し、ゆっくりと、振り返る。
紅い瞳に、黄金の髪。間違いない、王国の出来損ない、リルウ・ソレイユだ。
リルウが指を鳴らせば、皇帝を覆っていた氷が一瞬で弾け飛ぶ。
「魔術か、忌々しい……」
「あら、ご存知なのね」
こつ、こつり。豪奢なドレスを着たリルウは、皇帝に近づいてくる、かと思いきや、皇帝の横をすり抜け、
がばっ!
床に座り込む少年へと、抱きついていた。
「お兄様は、無茶をし過ぎです! どうしてこうも……」
「うん、ごめんリーちゃん……でも、これが一番良い策だったからさ」
ぽんぽんと、少年は、リルウの後頭部を叩き。
「でも、成果はついてきた。ラミーは、皇帝を殺さなかった。痛い思いをした甲斐があるもんだよ」
少年は語る。
「ラミーには、皇帝を殺してもらっちゃ困るんだ。だから、ちょっと、試させてもらった」
相変わらずうるうると、昔に戻ったかのように、軟弱に瞳を潤ませるラミュエルに、軽く笑う少年。
「ラミーはちゃんと迷ってた。これなら、これから師匠が出す条件にも揺らがずにいられる。良かったよ」
師匠、とは、誰のことなのだろう。
「ジルトの馬鹿ぁ! 馬鹿ぁ〜!!」
とうとう、ラミュエルの涙腺は決壊したらしい。わんわんと泣き始めてしまった。
「……」
馬鹿な少年だと、思う。
皇帝である自分を殺させないために、自らの命を危険に晒すなんて。
殺す気どころか、殺される気を持っていただなんて。
「逆じゃないのか」
誰にともなく呟いた言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。
少年の名を改めて聞けば、少年は、快く答えてくれた。
「ジルト・バルフィン。バルフィンは母方の祖母の姓。本当は、ジルト・ドラガーゼっていいます」
あっけらかんと教えられたその名前に、皇帝の時は止まった。ドラガーゼ? あの?
「王国の、三大公爵家は、ダグラス以外滅びたと聞いたが?」
「はい。でも、生きてます」
髪を摘んで、
「これは父譲り」
たしかに、あの忌々しきタリウス・ドラガーゼ陸軍中将は、珍しい灰の髪を持っていた。
「それで、この目が母譲り」
気に入らないと思っていた目は、近くでよく見ると、そんなに光を帯びていなかった。むしろ、濁っているような。
安心する要素を見つけて、皇帝は、自虐した。
目が、憎いのではない。目が恐ろしいのだ。自分を脅かす目が。
「それで、ジルト。こんなことをしてまで、お前が俺にして欲しいことは何だ?」
「話が早いですね」
穏やかな雰囲気を保ったまま、ジルトは言った。先程殺されそうになった相手に、よくもこのような態度を取れるものである。
「これから、セブンス・レイクって人が来るんですけど、その人から全力で逃げてください」
「……なぜ?」
皇帝は目を瞬いた。思っていたのと、違う言葉だったからだ。少年は、言いにくそうにして。
「ガウナ・アウグスト公爵を殺した殺人犯に、貴方が仕立て上げられるからです」




