まだ残っているものと、もう残っていないもの
体に酒が回り始める。心地よい酩酊。いつしか彼女は、遠い日の幻影を見始めていた。
『私が負けたら、その子を家に置いてあげてもよくてよ』
ただまっすぐ善行をするのを馬鹿らしく思う自分たちの、結末の決まった儀式。あの子はそれを、真ん中でじっと見ていた。
『ううーん、これじゃあ、負けるかもしれないぞ』
あの人は、意地悪な表情を浮かべて、あの子を見ていた。
『応援してくれなきゃ負けるかもなぁ』
『別に、僕は、ここにおいて欲しいなんて』
『手が滑ったわ』
わざと不利な手を選ぶと、あの子の褐色の瞳が、ぱあっと輝いた。それを見たあの人は、面白くなさそうな顔をして……
『さてと、本気を出そうかな!』
その言葉通り、彼女は負けてしまった。これは儀式だ、それなのに、悔しくて仕方なかった。
翌朝、あの人は、彼女のことを呼び出した。
『名前を考えていたんだ。彼の名前をそのまま使うと、色々と面倒だからね』
窓辺にて、未だ復興しない王都を見下ろしながら、彼は、ワイングラスを回していた。
『ブラン。ブラン・ルージュなんて、どうだろう』
『偽名にもほどがありますわ』
白と赤。机の上で開栓されているワイン。
『ですが……』
夫が、こよなく愛する飲み物。
『とても良い名前だと思います』
……いつのまにか、眠ってしまったらしい。
ソファから体を起こして、サリアは、目を擦った。
机の上にあるのは、あの時と同じ、二種類のワインだ。サリアは、ワインボトルを爪で弾いた。
ほとんどが吐息だ。それに、感情を乗せる。
「寂しい」
愛しい子は、まだ、帰ってこない。
ブラン・ルージュ秘書官は、見事に二百人分の情報を読み上げ、彼ら一人一人に下される処分も決定した。
これは称賛すべきことである。馬車という小さな箱の中で、二百人の命運が、正しく決まったことは。
だが……警邏局局長には、疑念があった。
ーーどうしてそこまで、『魔女の信徒』の撲滅に心を燃やすんだ?
彼は辞職する身である。“禁域”調査と、辞職するにあたり見せてきた内務省での仕事っぷりを見れば、そこまでする必要はないだろうにと思ってしまう。
警邏局長はこう考えていた。ブラン・ルージュが、こうもあれこれと仕事をするのは、手柄を立てたいからだ、と。華々しい功績を残して、ライケット・オリヴァー殺人事件における、気の迷いにしか思えない所業を消したいからだ、と。
……だから、『魔女の信徒』などという、大規模な組織にも、手を出したのだろうと。
そう、思っていたのだ。
その時までは。
その地に入れば、不思議と生ぬるい風ではなく、ひんやりとした、心地よいとさえ思える風が吹いてきた。
馬車から降りる。
「……!」
銀髪の公爵は、それを見て、固まっていた。警邏局長も固まった。
闇に溶け込むような、全身黒の男が、そこには立っていたからだ。
「かつて、俺たちは、ここから這い出した」
つば広の帽子に、身の丈まであるロングコート。サングラスを外した表情は、意外にも柔らかなものだったが、警邏局長は、震撼した。
「トラン・ネラル……!」
王都一体を締めるギャングが、なぜここに。警邏局長は、ブランを見た。ブランは、にこりと笑って、トランと握手を交わす。
「繋がっていたのですか、ブラン・ルージュ秘書官。その男と……!」
なんということだ、浄化に執念を尽くすかと思われたブランは、王都に巣食う鼠どもと、懇意にしていたのである。
「ええ、彼とはずっと、繋がっていました。必要なことだったので」
ブランは、悪びれもしないで答えた。
「二百人、貴方には、喉から手が出るほど欲しいですよね?」
そうして、未だ沈黙を守ったままのガウナに、微笑みかけるのだ。
「わざわざ、情報を教えてあげたんです。貴方がすべきことは、もうわかりますね?」
「……この場にいる全員、殺すことだってできる」
最初、誰の声かと思った。こんなにも、人を恐怖させる、地獄の底から響く声は。
「トランさんに協力してもらいました。王城の私の執務室には、貴方とトランさんが、裏で繋がっていたという証拠書類があります」
「そこの卒業生も、自爆覚悟なわけだ。で、僕に何をして欲しい?」
どこまでも冷めた目のガウナは、「もっとも」と言葉を続けた。
「大体、わかるけどね」
眼下には、すり鉢状の建造物があった。
“英雄式典”の行なわれる式典会場。そして、この銀髪の青年の始まりの地ーー王宮跡である。
「?」
足音が聞こえ、警邏局長は振り返った。新手。そこにいたのは、真っ白な制服を着た二人組だ。
飴色の瞳の女と、その女を守るように、一歩前に出ようとしている男。見覚えがある。ソマリエ裁判所の執行官。
そして。
その後ろからゆっくりと歩いてくるのは、金髪に、薄青の瞳の……
「学園長」
その時、ガウナが口を開いた。
「貴方も、そちらに回るんですね」
「ああ。これで、ようやく」
星空を、見上げる。
「ようやく、あの日の忘れ物を、取りに行けます」
すうすうと、サリアは寝息を立てていた。
気丈なはずの彼女の頬には、乾いた涙の跡があった。
「ブラン、お願い」
悲痛な声だった。幾分か年老いた彼女は、震える唇で、
「私を、置いてかないで」




