馬車会議
フラグ職人の朝は早い
そこには、若く敏腕な宰相の姿などどこにもない。凶悪犯罪者が収監される、王国最大の監獄にいながら、驚くほどぐっすりと眠っていた銀髪の公爵は、目を擦りながら「まだ朝とは言えないんじゃないか?」と不満げに言ってきた。
「お日様が昇ってからが朝だよ」
「日が昇る前に出発する必要があります。見られるわけには行きませんから」
「それもそうか」
ぽん、と手を打ち、にこりと笑う。
「仮にも国賊である私を牢屋から逃したら、君は辞職する前に解職させられるからね」
「そういうことです。さあ、急いで」
「はいはい」
ぎい、と音を立てて、鉄格子の扉が開けられた。ブランとガウナに向かって、鍵を開けてくれた看守が敬礼をする。少し年のいった、生真面目そうな男である。
「お帰りは、いつになられますか」
「今日の夜には帰ってきます」
「お気をつけて」
ブランは、彼に礼を言って、ガウナと共に歩き出そうとした……ぴたりと足を止め、振り返る。
「すみません」
「はい」
「私と、最近、どこかで会いませんでしたか」
最近見た顔のような気がしたのだ。だが、看守の男は首を横に振った。
「いえ。おそらく、内務省の書類上でしょう。お目にかかれて光栄です。ブラン・ルージュ秘書官」
ーー内務省の書類。
たしかに、ブランは着任したての大臣の補佐として、人事にも関わっているが……内務省に勤める人間が、どれほどいることか。記憶力には自信があるが、よっぽど印象が強くないと、多数の中の一人を覚えていられはしないだろう。
ーーだから、実際に会ってるんだと思ったんだけどな。
ブランは、自分の中の違和感を大事にする性質だった。たしかに、この看守の顔を、どこかで見ているのだ。そしてその時に、有象無象という枠に放り込まれない程度の印象を受けた。だから覚えているのだ。
「秘書官、早くしないと日が昇っちゃいますよ」
急かすようなガウナの声に、ブランは返事をして歩き出した……。
一方。
「秘書官、早くしないと日が昇っちゃいますよ」
と、言ったガウナの胸中は、穏やかなものではなかった。少なくとも、ブランの言葉を繰り返して、急かすくらいには。
ーー嘘だろ、僕の倍以上の仕事してるくせに。
表情には一切出さないが、軽い恐慌に陥っていた。ブラン・ルージュ秘書官の記憶力を舐めていた。
ーー人事の書類といったって、内務省だぞ。どれだけ人がいると思ってるんだ。
しかも人事とて、ブランが背負っている仕事のうちの一つにすぎない。膨大な書類仕事、内務省内での交渉に、他省や他機関との折衝。仕事の引き継ぎ。それらをこなしてなお、ガウナを嵌めるための準備までしている。
ーー立派に育って……
非常に邪魔である。今すぐ命を取りたいが、それをすると内務省が立ち行かなくなる。せめて引き継ぎが終了してから消そう。
ーー“禁域”調査に手をつけられる前に……。
共和国の王子含めた閣議により決定した、“禁域”調査は、閣議の文脈から、財源確保の名目で進められている。“禁域”には、ガウナが殺戮の限りを尽くした、あの王宮地下も含まれており、非常に都合が悪い。あそこを掘り返されたら、出自不明のぽっと出宰相なんか、ひとたまりもないだろう。
ーーと、思うんだけど。
なぜか、ガウナはぼんやりと、昨日見た夢を思い出していた。
ーー昨日見た夢では、僕とジルト君が、あそこにいたんだよなぁ。
到底、あり得るべくもない状況である。とても幸せな夢だったが、まず、あそこに自分がいる時点で幸せではない。夢の中の自分は、とんでもない阿呆である。
これが、予知夢でないことを祈るばかりだ。いや、一部は現実になってほしいけれど。
空には、まだ月が出ていた。
あらかじめ用意されていた馬車に乗り込み、ガウナとブラン、そして、両局長は、監獄近くの跳ね橋を渡り(ここは、ライケット・オリヴァー元監察官の妻、ネリア夫人が、ライケットを殺すべく通った道である)、王都へと繰り出した。
ガウナは、済ました顔をして書類を手に持つブランに訊いてみた。
「この馬車は、どこに向かっているんだい?」
「どこにも向かっていません」
ブランの言葉に、三人は目を剥いた。どこにも向かっていないとは。そういえば、馬車の歩みは恐ろしくゆっくりで、とても遠くへは行けそうもない。
「『魔女の信徒』の摘発は、極秘事項ですので、誰にも聞かれない場所を選びました。御者は、私が選任しています。一日をかけるので、所定の場所で彼らは交替をします」
「もしも彼らが裏切っても、計画の全容はわからない、ということですね」
ガウナの前に座る行政局長官が、声を潜めて言う。ブランは頷いた。
「そのために、お二方には、丸一日のお時間をいただきました。ご多忙の中、調整をしてくださり、感謝いたします」
「悪しきものは、取り除かなくてはなりませんからな」
行政局長官の隣に座らされた警邏局長官は、できるだけ窓際に寄りながら、そう答えた。もっとも、行政局長官もドアの側に寄っているので似たもの同士である。
気持ちはわかる。ガウナも、ブランの横は恐ろしくて座っていられない。所定の場所とやらでは、外に出してもらえるのだろうか。まさかこのまま、顔面が厳つい面々と、ガウナへの憎しみを隠そうとしない青年と、一日中ずっと、同じ空間にいなければならないのだろうか。
ーーそれは嫌だ、嫌すぎる。
これでは、気分転換にならない。せっかく外に出られたのに、娑婆の空気も吸えないとは。
ブランによって配られた、一日分は持ちそうな大量の紙束を見て、ますます気が滅入るガウナであった。




