氷の仮面
もう一人いる。
トウェル王が発した言葉を、ジルトが理解するのには、そう時間はかからなかった。
「そうだ、もう一人は……」
ゆらりと、後ろで立ち上がる気配がした。聞こえてきた声は、低い低い、獣の唸り声のようで。
「取り押さえるぞッ!」
「舐めるな!」
それなりに歳のいった男だ。だが、動きは俊敏。即座に男の腕に縋りついたハルバの脳天に肘を落とし、隣にいたジルトを巻き込んで放り投げる。
「この時を待っていたんだ!」
走り出す男を、止めようとする者がいた。だが、男が持つ刃物を見て、大抵の者たちは道を開けた。
「未来が変わった」
頭を押さえながら、ハルバが言った。
「あいつ、クライスさんを殺そうとしてる!」
傍聴席を走り抜けた男は、陪審員の席へ。何事かと逃げ惑う陪審員の中で、唯一逃げないのが、ノーチラス侯爵だ。
「……そんなことをしても、君の家族は帰ってこないよ」
「わかっている。だが、貴方と違って、私の直接の仇はあの男です」
男のナイフ裁きは華麗なものだった。今この時のために鍛え上げられたそれによって、鮮やかに、ノーチラス侯爵の右腕を切りつけた。顔を歪めた侯爵は、それでも男の前に立ち塞がろうとしたが、とどめに右腕を蹴り付けられて、椅子に倒れ込んだ。
だが、ノーチラス侯爵が足止めしてくれたことによって、ジルトは男との距離を縮めることができた。トウェル王と男との距離はあとわずか。ジルトは、倒れ込み、男の左足にしがみついた。
「離せ」
「ダメですッ、殺したらダメだ!」
クライスは、ガウナの最高戦力だ。それが削られるとなれば、こちらとしても都合が良いのだが……なぜか、嫌な予感がした。学園祭の時の彼の、驚いた表情が思い浮かんだ。
「意味がわからないな」
冷たい言葉が降ってきて、ジルトの腕を容赦なく踏みつける。
「どうして殺したらダメなんだ? どうして、家族の仇を討ったらダメなんだ?」
「それは……」
口籠るジルト。男は笑って、
「仇を討てれば、何もいらないんだ」
「っ」
痛みのせいだけではない、ジルトは、手を離してしまった。
けれど、そうだ、アイツなら!
ふらふらと立ち上がる。トウェル王に肉薄する男。クライスの中にいるトウェル王は信用できないが、彼ならば、止めてくれるはずだ。
トウェル王が、男のナイフを蹴る。さすがはクライスの肉体だ。まるで、本物のクライスのような、鮮やかな蹴り。
だが。
飛んでいったナイフには目もくれず、男は、トウェル王の右腕を膝で蹴り付けた。からん、と音を立てて、あまりにも呆気なく床に落ちるナイフ。
「ナイフを蹴れッ!!」
よたよたと走り出しながら、ジルトは、銀髪の公爵に向かって叫んだ。だが、彼は、ゆるりと首を横に振った。何か、小さく呟いている。真っ直ぐに、クライスの方を見ている。そのクライスは、姿勢を低くした男に向けて、やはり何かを言っていた。ジルトには、読唇術の覚えがない。けれどそれは、不思議と、謝罪の言葉だとわかった。
そこから先は、すべてが、実際の時の流れに対して、遅く感じた。
男がナイフを拾い上げ、
クライスの左胸に、深々と突き刺す。何度も、何度も、何度も。
三回目の刺突で、クライスが、床に倒れ込む。吐血する。
駆けつけてきたアヴェイル判事他数名が、クライスの上に馬乗りになる男を引き剥がす。
クライスは、真っ赤な血の海に横たわっていた。
ガウナが、クライスに近づいた。
そこで、ゆるやかな時は、流れを取り戻した。
今度は、感謝の言葉だ。血塗れの彼の顔をハンカチで拭き、乱れている髪を撫でつける。ガウナは、手で口を覆っていた。法廷にいる人々が、それを痛ましそうに見守る。だが、ジルトにはわかった。彼は、笑っている。
「君に祝福を」
違う、祝福を受けるのは、ガウナの方だ。
ガウナは、あの日セブンスがしたことを、反復しているのだ。クライスの体が、光り輝いた。あの時と、まったく同じ光景だ。
「……?」
法廷にいる人たちは、その輝きを、幻と見たのか、目を擦っていた。
「クソがッ!!」
クライスを刺した男が、取り押さえられながら喚いている。
「なにが、“ごめんなさい”だッ!」
復讐を終えた男の目尻は滲んでいた。
「なにが、もう一人いる、だ。私の復讐を、こんな惨めなものにしやがって!!」
男の叫びは、法廷に虚しく響いた。
「覚えていたのは、私だけじゃないなんて。これじゃあ、これじゃあ、あんまりだ……くそっ、私は、まんまと利用されたんだ」
「殺しておいて、そんなことを言うんですか」
ガウナが、クライスの元から離れて、男に近づいた。男が、先程までの威勢をなくして、後退る。
「アウグスト公爵、彼は……」
「大丈夫、何もしません」
ガウナが男を殺そうとしていると思っているのだろう。アヴェイル判事をはじめ、周りの人々は、男のそばから離れない。
「クライスも、貴方の家族を殺したのですから、これは報いです」
ゆっくりと、穏やかに。ガウナは、男にそう言った。男が頷く。
「そうだ、私が報いを受けさせた!」
「そして、クライスが、報いを受けることを望みました」
「……!」
男の表情が歪む。
「クライスは、貴方の顔を覚えていたんでしょうね。いいえ、貴方の顔だけじゃない、貴方の愛する家族の顔も。どうしてなのか、おわかりでしょう?」
ガウナが立ち上がる。彼は、哀れっぽく、聴衆に訴えかけた。
「王家の忠誠のためとはいえ、彼にも良心があったからです! 彼は、この場で裁かれることを望んでいた! ですから、私を陥れたのです!!」
ガウナ・アウグストは、氷の仮面を被っていた。
そして、氷の心臓を持っていた。
おつかれさま




