氷解
糸は繊維でできている。
一本一本が丁寧に撚られ、頑強とまでは行かずとも、それなりの強度はある。
だが、所詮は寄り集まりだ。どこかが脆くなれば、するすると解けていってしまう。
「ありがとうございます、判事」
それが、トラスにとっては、少年の礼だっただけの話。なぜか草色の瞳を持つ少年は……いや、なぜかではないか。
ーー彼女は、唯一無二の存在だった。
皮肉な意味でも、真っ直ぐな意味でも。あの瞳の色は、彼女にしか顕れなかった。
「……ようやく、幸せを掴んでくれたと思っていたんだ」
他人の口から語られるよりは、自分で語りたかった。トラスは、ぎゅっと、膝の上で拳を握った。
「だが、燃えてしまった。なにもかも」
灰と瓦礫の王都で、トラスがいちばんに考えたのは、彼女のことだった。そして、数日経って、機能してきた新聞社からもたらされたのは、出火元が王宮であったこと。判別も不可能な、夥しい死体が見つかったこと……パーティーに出席していた者達は、まず助かっていないこと。
「彼女の人生の終わりは、きっと苦しく、辛いものであったに違いない。彼女のような存在を、もう二度と出さぬよう、私は異端を裁き、異端を信じる者を排除しなければならない」
少年は、静かな瞳でそれを聞いていた。するすると、糸は解けていく。
「……そう思っていた」
「……はい」
「あの男は、彼女のことを守ってくれたのか?」
「はい。最期まで」
少年は瞳を伏せた。
「そして、彼女は、俺を守ってくれました」
「……そうか」
「きっと、あの人がそうしてくれたのは、貴方との出会いがあったからです。あの人が優しかったのは、貴方が優しさをくれたからです」
少年が笑った。
「だから、もう大丈夫です。あの人は幸せに死んでいきました」
「だが」
「だから、あとは俺に任せてください」
トラスの言葉を遮った少年は、おそらく、明確な線を引いていた。柔らかな声音は変わらない。だが、どこかが冷めている。
「母さんのような、いいえ。あの場にいた人たちのように死んでいく人は、もういません。もう、二度と、出さない。その為には、再審が必要なんです。アヴェイル判事、お願いします」
少年が、深々と頭を下げる。どうしてこの少年は、そこまでして、公爵を救おうとするのだろう。
「この件に、『魔女の信徒』は関わっているのか?」
少年は、静かに首を横に振った。
「すみません、それは嘘です」
「そうだとしたら、君はなぜ……」
……氷解。
問おうとしたトラスは、それゆえに言葉を止めた。四年前に何があったかはわからない。だが、それと同時期に出現した銀髪の公爵と、少年の浅からぬ因縁が、見えてきたのである。
歴史上、シリアルキラーは存在する。だが、一都市を火炙りにする存在が、いていいものだろうか。そんな存在は、もはや、人間とは呼べないのでは……。
「私は、何を裁けば良いんだ」
「これまで通り、公正に人を裁いてください」
トラスは、笑いたくなった。公正とは! 自分とは程遠い言葉である。それを、目の前の少年はわかっているだろうに、真っ直ぐな目で言ってくる。トラスは、両手を組んだ。瞳を細める。
「わかった。ソフィア・アルネルト事件の、再審を認めよう」
そう言った途端、少年の瞳は、驚くほど大きく見開かれ、喜びを表現していた。「ありがとうございます」と頭を下げ、両脇の二人と、ディーチェル公爵とハイタッチする。
そんな様子を見ながら、トラスは黒髪の青年の言っていたことを思い浮かべていた。
『君には、僕が人に見えるのかい?』
帰り道。馬車の中で、チェルシーが俯いていた。
「ごめんね、ジルト」
いつもきらきら輝いている海のような瞳は、憂いに沈んでいる。
「こんな方法で、再審をさせちゃって。本当は、貴方にあんなこと、知ってほしくなかったんだ」
あんなこと、というのは、きっと、母が世間から受けていた扱いだろう。
ーー確かにショックだったなぁ。
ジルトの中にあるのは後悔だった。母が歩んできた人生を知っていれば、もっと、幼い自分の振る舞いも変えられたのに。
「あんなに説教貰わないで済んだのにな」
おどけて言うと、チェルシーが表情を歪める。
「だけど、母さんに優しくしてくれた人の存在も知れたから良かった。知ってよかった。そう思う」
「ジルト……!」
「とにかく」
抱きついてこようとするチェルシー。を、引き離しながら、隣に座るファニタが笑顔で言う。
「再審が成って良かったわ。これで、公爵を無罪にできる」
「そうだな。この件に関しては、公爵は無罪なわけだし」
我関せずのハルバが同意。ジルトに目を向ける。
「そんで、再審が成ったら……次は、どうする?」
「次は……」
ジルトは、頭の後ろで手を組んで、座席にもたれ掛かった。脳裏に思い浮かべるは、蜂蜜色の髪の少女。
再審が成ったことを伝えると、ガウナはシンスに労いの言葉をかけてくれた。
「ご苦労だったね、シンス。ありがとう」
「なんか、あんたに礼を言われるのって、すごく違和感がありますね」
シンスは、頬を掻いた。憎まれ口を叩かなければ、このふんわりした気持ちはやり過ごせない。
「いやぁ、これであんたも牢獄生活とはおさらばですか。めでたいですね」
「めでたいかどうかはわからないけどね」
「……?」
暗闇にいるガウナの目は、気のせいか、いつもより澱んでいた。
「僕は、セブンスのように天才じゃない。だから……もっと、大きなものを失わないといけないんだ」
「大きなものぉ?」
「人間、欲張ったらダメってことさ」
ガウナは、右手を握った。
「最後に、たった一つだけ。たった一つだけ、僕の手の中に残っていれば良い」
ぽつりと、ガウナは呟いた。そこには、少しだけ諦めが滲んでいた。
「魔女の人生は、引き算だ」




