たとえ異端でも
一度だけ、高嶺の花に会ったことがある。
『その目、その目こそが、混沌の国を救う英雄を誕生させるのです』
『貴方は、英雄を産まなければならない』
産まなければならない、なんて、初めて聞いた言葉だった。その子は、まだ十歳にも満たない女の子だったけれど、王都、いや国中で誰よりも有名だった。
英雄信仰という、くだらないものがある。
かつて薔薇の魔女という災厄を討ち、国の危機を救った男。その男の瞳の色は、まさしく、彼女の瞳の色だった。
この国には、不確定なことを信じる者達が多すぎる。そして、男爵家に生まれた彼女を守る盾は、脆すぎた。
トラスが彼女と会ったのは、とあるダンスパーティーだ。彼女は、たくさんの高位貴族に囲まれていた。彼女は、子供っぽかった。そうとしか言いようがない。世間知らずな話し方をし、大きな声で笑い、時には高慢すぎる態度をとることもあった。それは、どの男に対してもそうだった。
『はー、可哀想なやつ』
トラスの隣にいた少年は、そう呟いた。この少年もまた、大人たちから崇められる存在だった。
『可哀想って、どういうことだ?』
『疲れる生き方ってことだよ』
赤い髪の少年は、それだけ言って、トラスのそばから離れた。しばらく観察していると、ぽつんと椅子に座っている金髪の王子の元へと向かっていった。
『疲れる生き方……』
少女は、実に楽しそうだったのに。
チェルシーは、口を尖らせた。
「この前、蝋燭を消して点けたのに、判事ったら無反応だったんだもん。貴方は異端を“信じない”力が強すぎる。ううん、“見て見ぬふり”をする力が強い」
「……この前というのは」
「とぼけちゃってさ。陪審員のおじさんと悪い顔して話してたでしょ?」
「そうか。あの時火が消えたのは」
「私が蝋燭の火を消したからだよ。どれだけ異端を信じないかを知りたくて」
「チェルシー、お前……」
そんなことしてたのか、だからぶっつけ本番で、蝋燭の火を消して点けるのに手慣れていたのか。ジルトが非難の目を向けると、チェルシーは、両の人差し指をつけたり離したりした。
「予習しとこうと思って。あと、これは奥の手で取っておこうと思ったんだけど」
そう言って、懐から、何かを取り出す。アヴェイル判事が、目を見開いた。
「それっ」
「書庫で見つけた。新聞記事のスクラップ? 最後の日付は、十五年前」
チェルシーが机の上にファイルを置いた。色褪せた新聞記事には、『ドラガーゼ公爵、男爵令嬢と結婚』と書いてある。
チェルシーは、ジルトのことを横目で見た。彼女は、ぺらり、ぺらりと、ページを遡っていく。間違いない、自分の母のことが、書かれている。
どこの男性と付き合っている、だとか、別れただとか、男爵家は、もう娘を売るしかないだとか。最後の記事の淡白さに比べて、熱の入った報道だ。
「戦争は、ある意味してよかったのかもね。この記事を書いてた人たち、みーんな死んじゃったわけだし」
チェルシーらしい言い方だ。ジルトは苦笑した。苦笑するしかなかった。
「貴方が異端を“信じない”のは、家系のせい。だけど、異端そのものを“見て見ぬふりをする”のは、どっちかというと、異端を信じる人たちを異端と看做すのは、このことが原因なんでしょう?」
チェルシーの口元は吊り上がっていた。
「貴方は、彼女のことを異端と思いたくなかった」
そう、あの出来事は、自分の中のロジックを捻じ曲げた。
『あっ』
背後で声が聞こえた。
咄嗟に振り向くと、さっきの金髪の少女が階段から足を踏み外し、こちらに落ちてこようとしていた。トラスは、咄嗟に彼女を受け止めた。
『ありがとうございます、素敵な紳士さまっ』
命の危機を脱したばかりというのに、子供っぽくぎゅうぎゅう抱きついてくる彼女の体を、トラスは冷静に離した。
『そういうことはしない方が良い』
『あら? どうして? こうすると、男の人は喜ぶのよ』
『そっちじゃない』
トラスは、駆け寄ってくる男たちを見とめて、少女の手を引いた。
手を繋いでいたのは、この少女が逃げようとするからだ。
『座っていろ。話があるから』
『私、お説教なんて大っ嫌いだから、やだ』
『わざとだろう』
『なにが?』
立ち上がりかけた少女を制して、トラスは思った。どうして僕は、こんなことをしてるんだろう。
『ここなら、大人たちは来ないから。君はなぜ、死のうとしたんだ?』
『そんなことしてないわ。あれは事故』
『いいや、自殺だ。すぐ下にいた僕には、君の表情がありありと見えた。君は、満足げに笑っていた』
『……私のことなんか、放っておけば良かったのに』
冷ややかな声だった。草色の瞳は、真っ直ぐに、トラスのことを見ていた。ただし、その色は澱んでいる。
『どうして、私のことをわかっておきながら、死なせてくれなかったの、トラス様。貴方なら、異端審問官の子なら、私のことなんて、見殺しにしてくれると思ったのに』
『阿呆か君は。異端審問官だったら尚更だ。君が本当に異端かどうか、審査する必要がある。というか、僕に心的外傷を植え付けるつもりだったのか』
『失敗しちゃったけどね』
少女は舌を出した。トラスと手を繋いだまま、立てた膝に、顔を埋める。
『どうして死ねなかったんだろう……』
『声を出したからじゃないか? それで僕に気付かれた』
『だって、声を出さないと貴方に気付いてもらえないじゃない。貴方が気付かなかったら、私に当たって死んじゃうし』
『君は本当に阿呆だな』
『なによ、君、君って。私には』
『シルヴィ・ウォールカだろう。いきなり女性の名前を呼ぶのは不躾だと思った』
『私の名前を知ってるの?』
草色の瞳が、見開かれる。
『君は有名だからな。名前ぐらいは知ってる』
『貴方は、私のことを、英雄の胎とか、呼ばないの』
『なんだその呼称は。高位貴族は礼儀を知らないのか』
片方で繋いでいた手が、両方で繋がれた。
『私、貴方のこと好き!』
そうだ。
あの少年の声で、彼女の声が呼び覚まされたのは。
あの少年が、嬉しそうだったからだ。あの時の彼女みたいに、草色の瞳を見開いて、驚いたように言ったからだ。
そして、それを思い出してしまったのはーー。
「たとえ異端でも良い。幸せになって欲しいと思ってしまったからだ」




